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情熱の切れ目

10/19/2007 にアップした文章です。

 

もちろん、まず最初に考えなければならないのは、生命体としての体調なのですが、そのあとに来るのは、環境内にあるいろいろな要素。情熱が切れてしまうのはなぜなのか?困ったことに、恋愛にしろ、趣味にしろ、勉強にしろ、仕事にしろ、嗜好や志向にしろ、どうも情熱というのは長続きしないというのは、多くの人が実感しているところだろうと思います。私も、ここのところ、エッセイを書き続けるということに関して、どうも気乗りがせず、情熱の切れ目に居るような気がしているところです。こんなことを書いても、読み続けてくださる方がいるのはたいへんにありがたいことです。私個人が考えると、たいへんに益体のないことで、限りない凡人であることを呈している情けない状態です。それもこれも、帰国して1年経ったということが心に重く影響しているような気がしてならぬ昨今なのです。

エッセイを続ける私個人の勝手な動機として、「日本語を維持する、あるいは向上させる」という目的を、9割目指していました。あとは、自由な表現な場を持つのも悪くないだろう、ということ。でもねぇ、最近、自分の書いたエッセイ群を見ると、それほど自分としてはいい評価ができないでいるわけです。アメリカに住んでいた頃は、「わからない」「情報収集に制限が加わる」という足枷が言い訳となり、好きなことを考えて書けていたのですが、日本に戻ってきて、「日本に居てもさして変わらないのだ」ということがわかってきつつあり、だんだん希望の灯が力強くなくなってきたことがあります。無力感ですね・・・。どんな社会問題を見ても、所詮Small personでしかなく、権力や権威をまったく欲しない私には、できることは限られており、特に何かができたという達成感もなく、1年が過ぎてしまいました。諸問題に関しての、「根ざしている原因」はあまりに多く、手をつけることなどできないのではないか?という絶望にも近いような、希望消失があります。

これまで、そんな当たり前のことを充分理解して、「わからない」「情報収集に制限が加わる」という言い訳ができる状態をキープして、希望を抱いてきて、「ひとりひとりが日常でできる程度の改造」を推進してきたつもりでいたのですが、どうもそれは果てしないことで、エッセイごときでは伝わらないので、何か行動にしなければいけないような気になってきているということがあります。

あるいは、反対に座する選択としては、「もうやめちゃえ!」というのもあり(爆)。

ブログを辞めるというのもあるし、社会は変わっていくのだという信念をやめちゃうという2種類。ところが、情熱の切れ目だと思っている私は、この2つとも選びたくないところに居ます。やはり、もう少し、醜く足掻いて行こうかな、と。


すでに結論が出たんだから、これ以上、こいつは何を書くんだろう?ってことになりますが、もう少し我慢して読み続けてください(ぺこり)。

やはり人の動機というのは、心理学的にはSelfの心的および物理的サバイバルにあると、強くつよく感じつつ、1年が過ぎました。『時間と想い出』の中で書いたように、人々は記憶を変質させたり、改造して生きていきます。まずは生き延びることが最優先なのだから、それは誰も責められないことです。私個人は、元気で楽観的に見えて、実際のところは、ナマケモノで悲観的なときとの波が大いにある、孤独が好きな人間であることは、しつこく何度も書いてきました。しかも、たいへんにプライベートなことを大切にするやつなので、人々を無理やり変えようなどとは思っておらず、裡側から湧き上がってくる動機・やる気・情熱などを最も大切にしたいと考えています。それは、私個人に限らず、他の人々も自分同様に扱いたいと思っています。たまにコケていますが、たいていの場合は、他人を自分が扱われたいように扱うことを忘れずに言動しているつもりです。

コレがすでに、日本人として日本の社会をよりよい方向に変えていこうという希望とは、矛盾しているんだろう、ということ。

西郷隆盛が西南の役に流されるようにして行動したことが、本当によくわかってくる。「焦土の中からしか新生日本は生まれない」という想いは、混沌が進むと「開き直り」のように思えても、実際のところは、簡素化してから、手をつけるという最後の希望の現われなのではないかと、彼の想いのカケラくらいはわかってくる。もちろん、器はまったく違うし、やっていることもまったく違うのですが、視点は同じくらいに幅広いもの・深いものを観れていたいと願っているので、わかっているような気にはなる・・・(苦笑)。

世の中の親も、こうして苦しんでいると思えるわけです。親という権力や権威を使うべきか否か?純粋培養をしたいとは思っても、それは不可能。学校にも行けば、TVも観れば、ゲームもあれば、友だちも作り、子どもたちはどんどん大人になっていくわけです。その中には、たくさんの人々の思惑や動機や言動のほか、まったく意味を持たない無駄も含まれており、それらに「影響されるな!」と言っても無理に決まっているわけで・・・。

大昔、AOLの『教育を考えるスクエア』というコミュニティに参加していたのですが、そこでも私は、「子どもよりも親の学習のほうが急務」という案を出していたのですが、やはり順番は、「環境を整えること」だと思えるわけです。ユートピアを構築しようなどという大きな夢を持っているわけではなく、無様で言い訳すらできないようなシステムを残すことは排斥し、新しく基本が機能する社会ができればいいな、と思うだけなのですが・・・。たとえば、市役所で公務員が、明らかに生活に困っている人に申請書すら出してあげないだとか、給食を食べているのに給食費を出さない親が平然とブランド物や家のローンに充てているとか、そういう杜撰さ・・・。でもねぇ、そんな人々の心や考えのあり方を環境から排斥することって無理なんだよね・・・。だって、私は強制力を自分は使わないのだし、強制力がかけられるほどの権力や権威は欲しくもないのだし、そんなシステム改善のために働いているわけでもなく・・・。

できることは、ぜいぜい草の根運動なのですが、自分の生活もあり、どうしても実際の行動に移せる機会は少ない。せいぜい、シンポジウムに顔を出したり、頼まれたフライヤーを読んだり、話題に出して口コミに協力する程度。エッセイに書いて怒ってみても、匿名性の強いネットの世界では、本気にされることも少なく、著名人や有名人や政治家にならねばダメなんだろうな、という気にもなる。

そんなわけで、私は今、情熱の切れ目に居るわけです。アメリカも混沌とした場所だったのだけれども、日本も相当に混沌としており、環境整備をするために、子どもたちにこの社会を手渡してあげるには、あまりにすごいことになっている。しかも、個人主義がワガママに都合がいいように輸入されており、日本が長い時間持ってきた日本文化とコンバインされており、また違う方向にどんどん枝葉が増えていくわけです。それを、毛糸球のアヤをひとつひとつほぐす作業など、本当に気が遠くなる気がしています。

こういう全体像を見ると、どうも情熱の切れ目が生まれてしまうようで・・・。とはいえ、今日は、英語講師仲間とランチなので、情報交換をしたり、私が不在だった18年分くらいの移り変わりを詳しく聞いてみたり、将来の展望などの諸意見を聞いてきます。

ハロウィーンが来るので、ハロウィーングッズの売れ残りを一斉に学校に寄付することにしました。コノ前の手品のお礼です。楽しかったけれども、私は自分が手品をやろうとは思わないんだなぁ(笑)。情熱の切れ目ではなく、これはあくまでナマケモノだからです(爆)。

 

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