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10/11/2007 にアップした文章です。

 

最近英語を教えていて思うことは、日本語が充分ではないことがままあり、それについては教えていると、クビになってしまうかもしれないという危惧。通りいっぺんの論理は言えるのだけれども、細かく追求し、日本語能力検定をするということはできかねる・・・。私は、教科書は、要点だけを使い、ほとんどフリーセッションで、自分方式を取り入れているのですが、John, Mary, Mr. Smith, Jimなどでは臨場感がないのは事実。さらに、例文がやはり通りいっぺんで、使えないものが多いのも事実。文法だけを習うのであれば、もちろん否定するものではないのですが、グリコのキャラメルのように、「一粒で何度もおいしい感」を出すには、自分が将来、頻繁に使う例文のほうが効果が上がるに決まっています。そこで、日本語を出してもらうんですが・・・。

どうもいかんのは、日本語が出てこないこと・・・。もちろん、最初に考えなければいけないのは、午後、学校やお仕事が終わってから通って来られる熱意のある生徒さんたちばかりだということ。疲れていたら、頭は働かない。日中、何か事件があれば、きっとそれに心や頭を奪われてしまい、集中力も落ちていますしね。これは考慮しています。が、それにしても、それを寛大に5割引いたとしても、やっぱり日本語能力がフルに生かせていないように思えるわけです。

もうひとつ考えねばならぬのは、私が奨励している、「英語は英語で学ぶこと」というもの。日本語を解する余地を少しずつ少なくしていき、効率よく英語は英語だけで情報処理をしていこうよ、という提案です。これがすんなり進めばいいのですが、実際は混濁したステージを通過せねばならず、生徒さんの中には、過渡期にいる方々もたくさんいて、このせいで日本語に混乱をきたしてしまうこともあり。あまり難しく考えると、余計に混乱はグルグルになるので、感覚的なものとして捉えるといいのですが、感性には個人差があるので、ここで引っ掛っている方々も多い模様。

私の長年の経験で言えることは、ニュアンスや細かい文法の温度差や誤差については、日本語が母国語の英語がしっかり話せる人に習ったほうがいいことは確か。おいしいところ取りができるからです。日本語の文法を、小学校のときにやったはずなのですが、ラ行変格活用など、ちゃんと憶えている人は憶えているのですが、むしろ感性によるものが圧倒的に多いのは確か。古文や漢文などが難しかったのは、論理性を整理整頓して教えてもらったはずなのに、教え方がまずかったり、理解していないのに進まれたりしたせいです。私も、古文と漢文は得意なほうではありませんが、時代小説に出てくるくらいのことは理解しています。

そもそも、この世にあるすべてのことは、難しいのか、簡単なのか、という視点からして違うんだよなぁ。日本語は簡単なのか?と問うと、英語ができない人ほど、日本語は難しい言語だと考えていることが多い。実際は、言語学的な体系を理解したのち、さらに、文化人類学的・心理学的なことを踏まえてみなければ、なかなか簡単には言えないことなのだ。が、ひとつだけ確かに言えるのは、個体がそもそも持っている基準とうのがあるということ。赤ちゃんでまっさらな場合は、ゼロかというとそうではなく、遺伝子情報があるので、受胎からおなかの中にいるあいだのことも考えると、日本人には日本語がイチバン習得しやすいはず。ハーフなどの場合は、環境を考えて、どのくらいの割合でいくつの言語が得られるかということや、その会話や情報の分析も必要です。

ここまで書いて、たいていの日本人は、日本語がイチバン得意だと思うのだ。どうだろうか?その日本語能力というのは、英語習得のためにも本当に肝心だというのは、けっこうな落とし穴なのです。

一度やってみるといいのですが、私は9歳だったか10歳だったかの頃、母親にやられたことがあるのですが、会話を録音されており、その口調や語彙、抑揚や語尾などをチェックされたのです。それは、語学力うんぬんを知りたくてやったわけではなく、彼女は、「愛される女の子になるため」に、きつい口調を直したかったという動機らしい。ところが、それも虚しく、私は充分きっつい言い方をますます邁進させて、大人になりました(笑)。

ただし、読書がバリバリ進んだため、私の語彙は平均値よりも多く、表現する言葉もそれほど少なくはなく、けっこういいセンだとは思いましたね、当時。今はどうなのか?19年以上、英語と掛け持ちになり、スペイン語も学び、中国語で遊んだために、日本語が乱れてしまったことがあり、ブログもそれが動機で続けています。

日本語で物事を論理的に考えられない人は、どんな言語でも第一言語以上にはできません。これははっきり言わせていただきます。昨日も、Cross Cultural Expressionsという読み物をみんなで読み進める授業があったのですが、窮した私は、日本語でみんなにディスカッションをしてもらいました。どんな国のどんな文化が好きで、その理由を最低でも2つ。嫌いな文化はどれでその理由を2つ、というもの。論理性が崩れている理由を述べる人は多く、「ただ好き嫌いだけではダメだよん」という警告にも拘らず、「いいじゃんね」「気持ち悪い、信じられない」などというのが多かったのが、残念でした。しかも、どれだけの元情報があるのか?ということはあまり考えておらず、自分の視野だけで物事を断定に近いところで考えていることが多かったのも、少し残念ではありました。若い生徒さんたちは、それでも少しずつ、世界を広げていければいいんですが、仕事に就いて国際的仕事をしている方々では、「それじゃ、仕事がうまくいかないでしょ」と、厳しい私は叱るしかる(爆)。

さらに、現在完了や過去完了を説明しても、日本語にはあまりない表現で、時制の違いを明確にしていないので、体感として刻まれることが少ないのが、文法の時間の量そのものの欠乏問題。なので、文例を自分に当てはめて考えてもらうために、カンバセーションまがいのエクササイズも実施していますが、クラスの人数が3人以上になると、生徒さんに「損感」が芽生えるので、書いてきてもらって、私が電車の中等で添削するというのもやっています。頻度の副詞や、前置詞などには有効なので、チェックする私のほうもかなり楽しいのです。

ともあれ、日本語そのものが落ちていると思えるのは、その「言いたいことが日本語でもすぐに浮かんでこない」ということ。表現することがないわけじゃないだろうに、どうして出てこないのか?みんなの前で緊張しているから?いやいや、それもディスカッションや共同解答などを使って連帯感や協調を醸しだすようにしているしなぁ・・・。だから、距離感が遠い人たちと会話したり、自分について説明するわけではないので、言えていいはずなのだけれども・・・。英語ではなくて、日本語でいいのだから。

と、他人のことはいろいろ偉そうに言っているワタクシではありますが、こうして、エッセイのお題に煮詰まると、枯れたような状態を実感するので、確かにそういうことも事故としてはあるに違いなく・・・。やはり疲れやメリハリのなさが為せる業なので、もう少し寛大にいろいろやってみようと思います。

でもね、ネットの新聞やAERAでいいから、少し時事問題や、自分の身の回りの世界を少しずつ広げてもらいたいのは確か。疑問点が湧いてこないような読み方しかできないのはなぜなのか?と、さらに日本語力だけではなく、心持ちやゆとりについても考えてみたいところです。