ブログ

朝青龍がもたらした諸問題 その1

カテゴリー:ブログ

08/03/2007 にアップした文章です。

 

けっこう根深い問題になっているんだなぁ、と、ここのところ暑くなってきて、忙しいスケジュールの中、ざらっと読んでだいたいがわかってきた・・・。Mixiでは、この問題についての日記やコメントを書いた人たちが、150件以上あり(たぶんこれから先もどんどん増えていくと思われる)、みんな相撲について興味があるんだな、とも感心したのです。忙しくてエッセイテーマがないから、コレについても触れているんじゃないかって?いや、いずれは私も、日本人としての自分のスタンスを相撲も絡めて書いておいたほうがいいと、常々思っていたことは確か。さて、どうなることやら・・・。

実は、西さんは大の相撲好きで、小さい頃、まだTVがあった時代は(西さんのお父さんは、男3兄弟があまりにTVに夢中になるので、西さんが小学校5年のときに、竹刀で画面を叩き壊し、以来、西家にはTVがなかった。みんなが大学に出て行き、その後数年してから購入したらしいが、今でもTVはあまり見ないらしい)、「何を置いてもまず相撲」という風潮だったようです。さらに、彼がかわいらしいのは、身体が小さく生まれたことを、かなり幼年から知っており、それでも相撲が大好きで、「大きくなったら、あの土俵を掃く人でいいから、なりたい」と願っていたこと。あの仕事は、『呼び出し』と言われる人々が、分業して行っているのですが、彼らは相撲部屋に属しており、力士たちと同じように階級もあります。けっこういい書き物なので、読んでみてください。この人の経歴がまたこれをやった理由を示しており、なんだかいいなぁと思えます。
http://web.soshisha.com/archives/sumo/index.php#prof

私はと言えば、父が相撲よりもプロレスが好きだったことが影響してか、通りいっぺんの相撲知識しかなく、愛情も愛着も平均的だったように思います。国技だということを誇りに思っていたか?と問われれば、「いや、私が選んだわけじゃないし」という醒めた、けしからん輩だったのだろうと。

そんな私が、西さんの相撲への愛着を知ったあと、海外に出たあと、相撲についてはいろいろ考えました。Saturday Night Liveをはじめ、笑いのネタにされていることに不快を感じたことも数回では済まないですし、小さい(とはいえ、平均からすれば大きいのですが)力士の苦労秘話などには、実際、泣いたこともあります。たとえば双葉山のエピソードだとか、先代貴乃花だとか、千代の富士だとか、寺尾だとか、けっこう知らなかったようで、知っていることがあるのは、西さんのおかげでもあるのでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8C%E8%91%89%E5%B1%B1%E5%AE%9A%E6%AC%A1
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%AF%8C%E5%A3%AB
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%B4%E3%83%8E%E8%8A%B1%E5%88%A9%E5%BD%B0

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%B0%BE%E5%B8%B8%E5%8F%B2

まずは、国技としての相撲を、日本人としてどう捉えているか?ということについて。人の心はいくらでも変わっていいものとはいえ、西さんに出逢ってから変わったものが数々あるとはいえ、私は生理的に大きな人は好きではないのだった。どうなんだろうか?それはおそらく、幼い頃に日常的に殴られていたことにも少しは関連性があるのかもしれないです。いくらでも、背の高くて、がっちりした男性を選ぶチャンスはあったのに、私はどうもそういった人たちを、大きいということでスクリーニングしてきたところがあります。「いざとなったら殺される」くらいなことを深層心理のほうで思っているのかもしれず・・・。なので、力士全般に、男性的魅惑も感じなければ、個人的な思い入れは起きず、スポーツ精神だったり、伝統を守る心や、勝負に対する姿勢などには、唸ることが多いにしろ、感情的なものはプラトニックに限ります。あ、ちなみにこの点は、格闘技全般の選手に言えることで、プロレスもK-1も柔道も空手選手も、大きな人はどうもダメです。ホッケー選手も、「ケンカ担当」の体格の人々は、やはり男性として見てはおらず・・・。いや、向こうも見てほしいなどとは思っていないだろうが(爆)。

スポーツの中で、相撲のすごさというのは、倫理観や理想形をかなり押し付け気味なところ。それを肯定するかしないか?というのは、「国技」とされているように、ここにも右派・左派な感性や考え方が関与するのかもしれません。私は、左派ではないのだけれども、左派だと思われがちな人間で、その理由は一重に、「愚民のために賢者が考えてくれたものを、当たり前のように受け取らない性質」がもたらすものです。失敗はどうしても自分でしたいし、理想は自分で組み立てて探し当てて行きたいというのがあって、その点において、私は相撲の世界というのは、好きではなかったですし、一時期は「否定的」ですらありました。もちろん、いいことをたくさん孕んでいることは認めつつ、です。

国粋主義の権化のように考えられていた角界が、ハワイやモンゴル人や、果てはヨーロッパ人までを力士として認めるようになり、遥かなる道のりを歩んできたので、私としても考え方は少し緩やかになった、というところがあります。

日本は好きだけれども、日本人に生まれ育ったことはよかったとは思うけれども、あくまで順番を受け容れた後の考えであり、排他的に、「日本でなければダメ」「日本人に生まれなかったらおぞましい」「日本的文化・伝統は世界でも稀なすばらしいもの」という盲目的なものではないわけです。私が日本人に生まれたのは、神様がコントロールしていなければ、断然「偶然」です。私自身のコントロールがあったかないか?と問われれば、もしも死後の世界があり、輪廻転生があり、死んだのち、もう一度人間に生まれ変われ!と言われたときに選択権があったときのみに通用します。が、これは誰も証明できないことなので、We happen to have been born in Japan to Japanese parentsなわけです。しかも、国際結婚が増えてきて、そうではない人たちが増えているこの2世紀ほどは、純粋な国粋主義は便宜的に解釈が多様化しています。アメリカがそうで、ナチズムや白人至上主義なども、かなり定義がむずかしい。笑えるくらいに、曲解や無理を強いているようなところがあります。

しかも、ヨーロッパのように国境があれほどの行き来をしている地域では、国粋主義とは、島国日本とはかなりかけ離れているのでしょう。

これらを踏まえて、私は、角界があの形で存続していけることを心から願っています。ただし、私はあくまで傍観者で、あのサークルの中にはいないものとして考えて、です。女性が土俵に上がれないことなども、私は目くじら立てて騒ぐ必要もないと思うのです。特異になっていっても、あの伝統を守っていきたいと熱望する人々が、しっかり生き延びる道を見据えてやっていけばいいと思うのです。他人事ではなく、私もやはり私の熱望することをやりつつ、生き延びているという意味では、同胞とはなりえるわけです。

私の相撲に対するスタンスは、以上のようなもので、「考え方が違ってもうまくやっていけると思う」と、強く信じているのです。彼らの論理がしっかりしていれば、私はなんらそれに異論を唱えるものではなく、伝統を守っていけばよろしいです。守るべきもの・守る価値のあるものだから、これだけ長いあいだ、少しずつ時代を見据えながら続いてきたのですから。

朝青龍事件に触れる前の、大きな解釈でしたが、長くなりました。いろいろな人がブログに書いていますが、こういったところをごっちゃにしてはいけないような気がして、長く書きました。明日は、朝青龍事件について。