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朝青龍がもたらした諸問題 その2

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08/04/2007 にアップした文章です。

 

昨日は、前提になる私のスタンスについて、かなりしつこく書いてみました。相撲というのが、「不思議」「伝統的」「私には関係ない」とは決して思っていないことが、伝わったとしたら幸いです。約10ヶ月は、日本のメディアや受け取る態度を実感してきましたが、朝青龍に関しては、日本という国家が、モンゴルから出てきて、大志を実現したひとりの人間を、「いじめ」ているように感じるのは、私があまりにナイーブだからなのでしょうか?そこが、昨日、私が書いてきた「理想形や伝統として汲み汲みと続けなければならぬものを持つ人あるいは集団」のマイナス面です。

個人的には、朝青龍は私のタイプからは程遠く離れていますし、モンゴル人のお友だちは、ひとりもいません(知り合いやパーティーで話した人たちが数人いた程度です)。文化人類学で通り一遍を習っただけで、朝青龍が日本について知っていることに比べれば、私の知識や経験などは、蚤の触覚ほどもないほどです。そんな私が、彼の苦悩について、いくら共感したとしても、理解しきれていないギャップが多くあるということは、当然です。私もまた、極東から来た女の子として、アメリカに行きましたが、角界には遠く及ばないにしろ、女性の人口が圧倒的に少ない、珍獣部類に属していた頃(1989年)に飛行機学校に入りました。その勇気や決断には、「若気の至りなのではないか?」という嘲笑も含まれており、一言では言えないいろいろなことを感じ考え、理不尽につらい目に遭ったのも確かです。がその後ATP(ジャンボ等の旅客機用ライセンス)に進み、就職し、驚異的短時間で、北米最大の航空会社の機長になり取締役兼任になったわけでもありませんから。そんなアジア人女性はおろか、アメリカ人女性もいなければ、男性でもいないんですけれども・・・(汗)。だから、朝青龍が成し遂げたことは、すでに怪物級の偉業なのだということは、少なくとも、私の認識としてはあります。

ここで、「希少価値がゆえに、その人口が少ないことを狙えば実現可能度は上がる」という反論があがるのは承知です。では、そう論じる人々は、そんな世界に入る勇気が自分にあるのかどうかを、問わせていただきたいものです。

たいへんに個人的な先天性や経験により培われた道筋:この点なのです、日本人が大切にしきれていないのは。実際に、年金問題もそういう意識の表れですし、生活保護の受理や申請におけるトラブルもそうです(日記や遺書に恨み言を書いて亡くなった人はひとりやふたりではありません)。もちろん、日本も角界も、朝青龍の才能や初見の根性や態度や性格を見極めて受け容れたはずです(あ、あとは、資格:犯罪歴がないか、等)。そこで、彼が悪い意味で増長したと、とにかく責めつけているわけです。彼の立場や彼の経験を持たない他者が、彼の話をとことん聴く前に、断定的口調での批判ばかりが、目立つのはどうしてなのか?私は、ここに人としての狭量を感じずにいられません。

この横並びをよしとする文化について、1億3千万総勢で考えてみる必要を、この問題は提示してくれていると思うわけです。教育などには、この思考の変換は、大いなる効力を与えるはずです。個人に合致した傾向を分析できる教育者を育むことで、明治時代くらいの逸材をどんどん輩出できるはずです。そして、政治や官僚がしっかりコレを意識すれば、日本での活躍の場が与えられ、海外への人材流出を食い止めることもできるわけです。

逆に、「今度の処罰が厳しい!」という大体半数くらいの意見の方々も、思慮の結果言っているのかどうか、もダウトです。角界が自由自在に変わっていいはずもなく、礼節や規範がある特定の人間だけに許されるときには、なんらかの道筋をつけ、大勢を納得させなくてはならず、それが半数以上でなければ、民主主義が機能しません。それが民主主義というもので、それを数字マジック・トリックにしている政治を、批判する根本的な知識がない国民であり続けるのは、ぜひ回避していただきたいものです。徹底して、なぜ礼節や規範は、朝青龍には許されるのか、あるいは他の力士たちにも許されるのか、などを論じて、納得させていただきたいものです。とりあえず、私はここのところニュースを避けているのですが、ネット上ではさほど論理は展開されておらず、「こうあるべき=あたりまえだろう」というのが前提になっています。逆説の人たちもまた然りで、「そんなの実力があるんだからいいじゃないか」の感情的意見が多いのが気になります。

腰痛はレントゲンで見たものが実際に正しいかどうかはわからない。なぜならば、痛みというのは本人しか体験できず、痛みの単位を「ハナゲ1」などで表す試みもありましたが、それほど浸透はしていません。私は、知らないあいだにアザができており、いつもシャワーでびっくりするのですが、痛みにたいへんに強いのです。腰痛も、椎間板が2枚なくなってからも、手術を拒否して7ヶ月も東洋治療にこだわったのですが、ついに断念せざるを得ませんでした。泣いたり喚いたりしない代わりに、気絶してしまったり(脳震盪を抜かせば、痛みで気絶したのはあれが初めてでした。その後は無理をしないという学習をしたので、ありません)、外見ではわからぬ痛みは、空港のBaggage Claimではたいへんに苦痛です。今も、外見は丈夫なので、あまりに立ちっぱなしが長いと、座りたいは座りたいのですが、高齢者や妊婦さんを差し置いて座るわけにもいかず・・・。今も、ビジネススーツらしきものを着て英語講師をしているのですが、足元はスニーカーなのよね・・・。が、教室に到着したら履き替えるので、荷物が1つ多くなるのです。ハイヒールで通勤したら、とんでもないことになり、蓄積で、もう2枚くらい椎間板がなくなるかもしれないので(笑)。

私は素人で、プロのアスリートでもなく、プロの中でもセオリーが通用していない人間はたくさんいます。世界のイチローだって、打法をものすごく批判されました。王貞治のフラミンゴ打法もセオリーとしては不思議なものです。肘や膝の手術も、プロたちがアメリカまで行くのはなぜなのか?言わずもがなです。人の身体と心というのは、基準値を持つほどの類似点はあっても、やはり細かいところでは違うのです。ある人は50年喫煙しても肺ガンにならず、ある人は喫煙0年でも肺ガンで亡くなります。これは、ささやかであるけれども重要な違いを、私たちに考えさせるいい材料なはずです。

それでも、朝青龍のサッカーを「許しがたい!」とするのはなぜなのか。私だったら、政府に頼まれたときに、100人中95人ほどは「うーん」と迷いながらも引き受けると推測しますが、いかが?いや、私は春の宴遊会のご招待を断る勇気はありますが、私がインタビューした人々は、誰ひとりとして「断る」と即座には言えませんでしたよ。「別に考え方がどうこうではなく、見てみたい」という意見もあったくらい。人々は『権威』に弱いんだよ・・・。国粋主義寄りの考え方が強ければ、権威にはもっと注目してあげてほしいと思うのだ。しかも、今の時点では、大々的にマスコミには、「政府に依頼されたからモンゴルに帰国した」のか、「モンゴルに帰国していたから依頼を受けた」のか、順番に着目している節がない・・・。私にとってはコレは驚異的なことです。Noと言えない傾向がある私なので(ただし、政治的匂いがするものにはかなり強いNoが言える・爆)。

しかも、朝青龍の処分はきつく、4ヶ月も自宅謹慎とのこと。稽古や通院はどうなるのか。遊びに誰かが訪れるのもダメなのか。などなどは横に置き、これじゃまるで、高校生の退学や謹慎など、不良扱いと同じだと思える滑稽さ。自分の処分を自分で決めさせるというのが、私のやり方なので、これも大いに異議ありです。押し付けはやはりどこまでも押し付けでしかなく、反省を促すどころか、一時的であっても恨みを残す。自分で自分に誓ったことをしてもらうのが、イチバン効果的だと思うのですが、いかが?しかも、精神安定剤を飲んでいるような報道も見ました。そりゃー、なるよ。1億3千万人でいじめてるんだもん・・・。自分が、パキスタンでもリヒテンシュタインでもサウジーランドでもいいが、どこかの国に行き、新聞で名指しで叩かれていることを想像してみるとよろし・・・。綱にいくら重みがあるとはいえ、生命を奪うほどの重みがあるものは、私はないと信じています。鬱病になり、衝動的に自殺でもするようなことがあったり、力士生命を抹殺するようなことがあれば、角界には傍観者としてのスタンスを置いている私ですが、これについてだけは、異議を唱えさせてもらいます。ケアがきちんとできれば口を挟むものではありませんが、たいていの処分というのは、更正や学習促進を促すものではなく、見せしめの罰で、死刑制度設置と同じものでしかない>人心を怯えさせる、権威を守る。

というのが、私の今のところの考えです。この先、どんなふうに変わっていくかわかりませんが、そのときには、この考えを元にして、見ていくことは確かです。みなさんはどう考えますか?

 

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