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10/01/2007 にアップした文章です。

 

ここのところ、総理大臣にしろ、たくさんの政治家にしろ、大手を振っていられないところがあるのはなぜなんだろうか?先生も尊敬されなくなってきているし(私は講師だし、尊敬などされたくないのでいいのですが)、宗教家もそれほどの敬意を持てなくなるほどに、たくさんのあやしい新興宗教があり、賢く生きて実業家になった人々ですら、その富をどのように社会のために使うか?で試されており、尊敬されにくい立場にあり・・・。子どもたちは、スポーツ選手をますます必要とするのだろうか?誰が彼らのヒーローになれるんだろう?

私のヒーローは誰だったか?やはり小さい頃、図書館で最も影響を受けたのは、探偵だったような気がします。一時期、警察官になりたいと本気で数ヶ月くらいは思ったのですが、縛りがキツいことが父と話していたことでわかり、すぐさまやめてしまったわけです。しかし、どうやったら私立探偵になれるのか?というのも、江戸川乱歩時代のようには行かず、殺人事件などは夢の夢で、たいていはイマドキであれば、浮気調査なもんなんでしょうね・・・。アメリカのことなど何もわかっていない頃から、John F. Kennedyは私のヒーローでした。若くして殺されてしまうほどの人は、なぜかすごい人なのだ、というのは、父が力道山について語ったために、なぜだか影響されたようです。

力と権威には大きな違いがあり、力を持つ人になりたいのであれば、リソース(資源;資本主義ではお金の場合が多いが、人脈や資産となる土地や物品であることも多い)があること、と、それを使う才能があること。そして、その持ちえるリソースに対して、屈してくれる人々が回りにいさえすれば、その人は「力を持った人間」と簡単になりえるわけです。力が少しもない人というのは、おそらくこの世になかなか見つからないことでしょう。誰しも才能と呼べる何かは持っています。世界で一番ではなくとも、生きている小社会の中で、その才能を評価され、生きる糧を得ているはずです。専業主婦にしても、外で働いていないだけで、家事を評価されているからこそ、代価を計算することはできます。生活の糧を現在は得ていないであろう壮年層にしても、その知恵や体験は、才能を駆使した結果であり、お宝です。

才能:物事をうまくなしとげるすぐれた能力。技術・学問・芸能などについての素質や能力。

私もいくばくかの才能を持っており、ぬきんでてはいないものの、食べていけるだけのものを持っていてよかったです。

力を持っている人でそれを過度に使いたい人は、その力を持っていない人に対して自分の意志を押せばいいわけです。お金持ちはそうして、贅沢で必要以上のものを所持しているし、それによってなぜだか充足感を得ている。私には理解しがたいことですが、モノで埋められるくらいの心の空洞しか持っていないのであれば、幸せでしょう。悲しいことに、医療技術も高い保険に入れるか入れないか、人脈を持っているか、などで左右されることもあるので、持っている力をフルに使うことが当たり前の状態で、人々は暮らしていることが多いのかもしれません。私は、もう10代でも20代でもないので、今後、内臓疾患があったとしても、移植は望まないし、延命も望まないので、特にそれについてお金を使おうとも思わないし、モノは片付けが下手なので要らないです←おかしな理由でもないと思うんだけれども、昨日の夜、母がボーイフレンドの家にお泊りに行って、また考えたのが、「彼女が先に死んだら困る」ということ。私は彼女の細かく整理整頓したものを片付けられないよ・・・(汗)。調味料さえ不自由してんのにさ・・・。

かたや、権威というのは、Weberの社会学的定義を述べると、
1. 社会の因襲に大きく影響され、多くは世襲制になっており、伝統的なものであるもの。たとえば、たいていの皇室や王家がそうです。歴史の中でも、散って行ったとはいえ、平安時代の藤原氏や、それぞれの武士幕府を作った家柄などがこれに当たります。
2. カリスマを持つ人は、生まれながらにしての権威の威力を持っていなくても、権威になることができます。私が好きだったJohn F. Kennedyもアメリカではあり得なかったアイルランド系アメリカ人で、父親が財を成し、今では皇族のような扱いになっています。必須なことがふたつ;1.人格の圧巻なまでの力強さ。2.社会のためになる大目的。多くの宗教家は、当時の社会に最初は弾かれながらも、どんどんと権威の道を進んできました。キリストですらそうですし、ダライ=ラマも14世ですが同じです。マザーテレサもこのカリスマのある人でした。日本人が好きな織田信長もコレに当たるのでしょう。名ばかりだったとはいえ、将軍すらコントロールした彼は天下統一を目前にして消えて行きました。
3. 理性的で法定である権威が、目下私たちがだんだん「待てよ!?」と思っている対象で、民意を反映した権威でいてもらわねばならぬのに、どうもそのようにはなっておらず・・・。平等はなかなか実現しないにしろ、公平であることが、この権威のキーポイントなわけですよ。ところが、不公平感はどうも拭えないので、問題になり、権威は地に落ちることになり、政治家が替わってもカリスマ性もないので、誰もついていけない状態にやがてなるわけです。

英国の封建議会は、絶対王政時代に力を弱めつつも消滅に至らず、近代議会に接続した稀な例である。英国議会は国王が掌握する行政府に課税承認権を盾にとって対抗し、行政の恣意を制限しようとした。国王との対立が決定的になると、1649年に清教徒革命が生じ国王を処刑し、1688年の名誉革命で国王を追放した。名誉革命以後の議会は引き続き国王の行政権力を認めたが、しだいに権限を拡大し、18世紀半ばに議院内閣制を実現して行政に対する優位を確立した。現在の歴史学会の通説では、フランスに脅威を感じたオラニエ公(後のウィリアム3世)が英国の動向に目を着け、その大義名分として権利章典の内容をなすビラをばらまいたとされる。

↑これ、TOEFLに過去に出た問題文の内容に合致しています(笑)。

ある社会学者によれば、この権威の進化的段階は、1から3までで、3が理想的だということなのですが、私は原始的なのか、2.でいいじゃん、と思うんですね(笑)。ただし、家庭内でコレをやられると、力がない人間は困る。ただし、カリスマ性を持っていなければ(たとえば、家にお金を入れずバクチに使う親とかだんなとかね・・・)即刻、権威は剥ぎ取られますから・・・。しかも、柔和な性格であっても、人格の圧巻なまでの力強さは共生しますし。徹底的に家族のために外部には力強いというのは、よく見る例ですし。

今日は、落ちてしまった権威に対して、どうやって受け止めたらいいんだろうか?と、ちと迷っている復活日本国民がぼやいているようなところがあるんですが、どうも権威を与えたい人がいない。私の民意の一票を差し出したい人がいないのですよね・・・。あ、宮崎県知事がんばってますよねぇ。いいなぁ、ああいうのって。マラソンをバラエティ番組で走っていたのですけれども、50歳なのにすごい体力だなぁ・・・。なんとなく宮崎の物産買いたくなりますもん。セールスマンとして優秀です。ファミリーマートで2回ほど買ってしまいました(笑)。

それに、2.が減ると、子どもたちがヒーロー探しに困ると思うんだよね・・・。大人になってから、「なんであんな人を信奉していたんだろう・・・」と思うようじゃかわいそうだ・・・。私は、ダライ=ラマやマザーテレサは、何があっても生涯、尊敬します。権威を彼らが持ちたくないと言っても、私の一票は投票しちゃいます(笑)。

今日はちと落ち込んでいたのだ。一昨日終わった通訳の仕事先で、かっこいい男の人がいたのだけれども、最後に握手をしたんですが、なぜにそのとき、名刺を渡さなかったのか・・・。もう一度会ったからってどうってことはないんですが、話していて本当に楽しかったんだよなぁ・・・。やっぱり次の仕事に行くので焦っていたので、時間が押していたので、ゆとりがなかったなぁ・・・←本当に残念だったのだ(爆)。なので、カリスマ性について、権威について、もう一度考えてみた次第です。いやー、彼はなんだかカリスマが私にとってはあったよ・・・。