正義の建前

09/28/2008にアップした文章です。

 

殺しても飽き足らないような人というのは、確かに実在します。Mass Destruction(大量・大規模破壊)を画策するような、人の心のカケラもないような人というのは、やはり「死んでくれないとどうしようもない」というような・・・。たとえば、死んでしまった人をとやかく言うのは気が引けますが、Saddam Husseinは、裁判に掛けられただけありがたかっただろうと。彼のおかげで、本来は持っていなかった憎悪や恨みなどの感情を、歪んだ知識付きで、身につけてしまった人というのは、数にしたらどのくらいいるのか?さらに、それを人生の中の最も大きな指標として、歓んで死んでいってしまったり、他人の生命を奪ってしまったり、という影響された人の数というのはどれくらいいるのか?を考えると、ものすごい数になるので、「いないことにしたほうがいい人」というのは、やっぱりいるのかもしれないよな、と、国防やら正義を考えると否定は到底できないのです。



昨日も高橋英樹が、西村京太郎シリーズの十津川警部を演じており、その中で、「どんなに悪いことをした人でも奪っていい生命などないんだよ」というような台詞を吐いており、「いや、そうでもないかもしれないよな・・・」などと思ってしまったわけで。十津川警部が対峙している加害者は、やはりもっとプライベートな理由で、殺人をしているような気がしないでもないので、それは当てはまるのかもしれないけれども・・・。

 

あ、ここで名言しておくのですが、私は、死刑制度は、日本にはあっても過渡期なのでしょうがないと、妥協している立場です。アメリカのまだ残っている州に対しても同じこと。が、なるべくであれば、死刑執行はしてほしくないと願っているのです。

 

が、本音のところで言えば、もっと体制が厳しくなり、逮捕までのプロセスの中、「なんらかのアクシデント」があって、裁判まで行かずとも死んでしまうことがあっても、あまり気にしません。警察がひどい!という批判は、私はあまりせず(そりゃー、任務遂行に関係ない、贈賄や収賄、拳銃を使っての自殺などは批判の対象だと思いますよ・・・)、「逮捕劇の途中、アクシデントがあったほうが、税金も節約できるし、凶悪犯にはそれに見合ったような刑も整備されていないんだし」と思うような冷たいところが、私には大いにあるのです。ただ問題なのは、その捜査官の一人信念や一人合点で、冤罪なのに死んでしまったことなどが起きる可能性があるということで・・・。

 

Mitch Rappシリーズを楽しんでいる私にとっては、やはり、法に照らし合わせてなどいられないほどの「いないことにしたほうがいい人」というのは、やっぱりけっこうたくさん居るよなぁ・・・と感じずにおられず。本当に贖罪できるには、何度か生まれて何度か死んで、を繰り返さないと無理だろね・・・という人は、ナイーブだった私が考えるより多い。ただ、その基準というのにバラつきがあるのは、まずいんでしょうね。王様ひとりが「殺せ!」と言ったから執行、というのにごくごく近い死刑は、未だに世界のどこか(あえて言いませんけども、あの国もそうだし、あの国もそうだよな・・・)で行われているのですが、それでもあれを批判するためには、やはり私のような本音はあったとしても、プロセスの中で殺人行為が起きているという解釈になるわけで・・・。

 

最近は、国防の彼方にある倫理観や存在意義という、大きな地球・宇宙全体に目が向けられるようになり、歳を取った甲斐がそろそろ出てきたのかなぁと思えつつあります。もちろん、国内利益のことを考えなくもないのですが、地球が崩壊してしまったら、小さい国々のことはそれほど問題ではなくなってしまうので、まずは「存続すること」が大切で、その次に「よりよく存続すること」が大切なのだ、ということがわかり、自分の利益から、市町村の利益、などと、どんどん環を大きくできるようになり、ランドセルを背負って泥だらけになっていた自分が、そんなときにはなつかしく感じます。

 

もちろん、体制や枠組みが大切なことは否定しませんが、それにばかり心を傾けすぎていると、小さいことがおざなりになり、さらに、もっと大きな存在そのものについて、宇宙の中にある地球という大きな舞台について、忘れてしまうことになります。

 

ここまで考えることができるようになると、Hawking博士などは、頭の中にもっといろいろなものが詰まっており、たくさんのことを頭の中で整理できるがゆえに、きっと毎日おつらいのだろう、などというくらいには、その天才の規模についても考え付くようになれます(自嘲)。

http://en.wikipedia.org/wiki/Stephen_Hawking >英語版

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0 >日本語版

が、これらを読むと、まったく遠いのだろな、とも思える(笑)。

 

人口が67億になってしまったことも、たいへんに焦らねばならぬことなのですが、ゾウがいなくなることも気にしたい。でないと森林やフィヨルドやその他、自然形態までもがおかしなことになる。でも、Mass Destructionを画策している人々は、人が密集しているところにすら核やミサイルや化学兵器などを隠し持っていたり、開発作業を進めていたりしますし、自然を破壊することにも懸念はありません、自分たちにとって大義が守られれば・・・。自分たちだけよければ、他人などどうでもいい人たちがたくさんいるわけです。その規模がささやかであっても、日本でも個人主義を間違って輸入し、利己主義満開で暮らしている人々も増えています。

 

さらに、純粋無垢な子どもを、自分の偏った性愛の対象にしているやつなどは、その後何十年ものあいだ、何人もの人々を不幸にすることを、まったく考えない。自慢なのか!と腹が立つことがよくありますが、「犠牲者の描写」を獄中から平然とするやつらがいます。彼らなどは、逮捕のプロセスでアクシデントが起きてしまったほうがよかったのに・・・と思わずにはいられず、矯正の余地がある人々だけが、データを取るために実在してくれているといいな、などと思わずにいられないのです。私は、遺族の気持ちを考えずに、死刑制度や死刑執行に反対しているわけではありません。公的に死刑にしたところで、戻ってこない尊い生命は戻ってくるわけもなく、気が晴れるわけでもないことは、たくさんの遺族の方々のインタビューを見ても、その確率は大きなものです。できることなら自分の手で殺したい、とおっしゃる方々が多い中、そんなことをするやつらに対しては、ゴルゴ13やその他実在するContract Killerにお金を積んでくれる大金持ちがたくさんいるといいのになぁ・・・と、めったにありもしないことを望んでしまうのです。めったに、というのは、いくばくかは実在するということです。

 

その証拠に、日本でもTV番組で、『怨み屋本舗』というのが流行したようです。私は二度ほど深夜に見たのですが、あの気持ちはわかるなぁ・・・と。正義にはどうしてもシステムの中に組み込まれており、それには建前が必要です。それをLaw abided Citizenとしては守っていますし、賛成もしていますが、本音を言わせてもらえるのであれば、やはりひどいMass Destructionや不可逆な不幸をもたらすようなやつに関しては、アクシデントで死んでもらってもいいよな・・・と思うのも、私の中にしっかり根付いているのです。

 

今日は虫の居所が悪いのかって?うーん、やっぱり純真無垢な子どもが死んでいくような事件をたくさん見ると、どうもこういう気持ちにはなりますね。が、いつもそうして本能的に、感情的に、そうした人々は許せない!と思いつつも、やはり本能や感情だけで生きてはいけないのだ、と叱咤激励を、自分にしている、というのが日々なのだ、ということが言いたかったのかもしれません・・・・。

 

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