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死刑判決の後に

04/24/2008 にアップした文章です。

 

判決がいったい、遺族の心を救うものなのか?ということを、今日は考えてみたいと思うのです。これらは、おそらく、個々人の世界観に拠るものと思います。いろいろな世界観があるからおもしろいのですが、本村氏の手記の要約版を見てみると、きっと要約した人間の価値観に、少し影響されてしまうのでしょう。なので、私は彼の22ページに渡る記事を読むまでは、結論は出さないようにしたいと思うのですが、先入観もあり、マスコミにこれまでの長きに渡りやはり影響されており、おそらくいまさら無理なことなのでしょうね。さらに、結論などは、この問題にはなくてかまわないことなのでしょう。ただ、私なりの<中途>結論は持っていたほうがいいので、早いうちに熟考したほうがいいとは思っています。

 

ただ・・・、忙しすぎて目下、死にそうなのです(苦笑)。実は今日も「明日は(エッセイを)休もうかな・・・」と考えており、肩こりやら睡眠不足などと相談しようかと(笑)。とはいえ、こんな大きなことを書き始めてしまったので、やはりある程度のまとまりまで考えて、書き終えてみたいという気持ちが大きいので、きっと疲労は蓄積されてしまうんだろうなぁ・・・。しかも、今日は少しだけ雨に濡れたので、くしゃみが(爆)。

 

物事というのは、生きている限り、そしておそらく多くの部分は、死んでしまっても、ずっとずっと続いていくと、私などは信じているのです。うーん、そうでないと、どうも夢を持って生きていけないというか、これまでの生命体の進化の行き先にも希望が持てないというか・・・。エネルギー保存の法則もあることだし、私が死んでも、私が発したエネルギーは別の形になって、何かの中で生き続けていくのであろうから、やはりある意味では私も生き続けて行くのだろうと、少し楽観しないとやっていけないというのがあり・・・。

 

私は、職業についても、貴賎はないと信じています。かなり強く信じていますね。貧乏階層出身の私は、強くそう信じてこなければやってこられなかったし、何とか食べていけるようになった今でも、いつまた落ちることはあるかもしれないと真剣に思っているし、それが『平家物語』などにも如実に著されており、人類の英知をフルに理解して生きていくことなのだろうと思うのです。なので、よりよく生きていくのは、人の数だけ形があり、職業で人の価値を決め付けるのも本当に呆れた話であり、参考資料として以上の役割を多く与えるのは問題だと思うのです。やたらと自分の職業に誇りを持っている人に対しては、私はどうも疑問を感じており、たまに楽しかったりたまにうれしかったりするくらいがちょうどいい割合なのだろうけれども、やっていけないからこそ、楽しい・うれしいと言い聞かせながらやっていくものなのだろうなぁとも。

 

私は、今の英語講師の仕事が楽しくて仕方ないのですが、それは仕事そのものが楽しいのではなく、派生してもらえるおまけが大きいからだと納得しています。ギャラが飛びぬけていいわけでもなく、先生と呼ばれるのは背中がぞくっとするほど気持ち悪く(8ヶ月経ってもまだ慣れないですねぇ・・・)、社会的認知度や尊重度もそれほどいいわけでもなく、それでも、私という学生側で居たい人間にとっては、おまけの多い、謙虚や感謝を持ち続けていられるチャンスが多い、楽しい仕事だと思っています。そりゃ、つらいことは多いですよね、仕事ですから。でも、そのつらさというのは、明日の自分のためになる、という意味で楽しい。

 

死ぬという不可逆性の前では、どんな例も霞んでしまうのですが、他人が一生懸命に稼いだお金を真剣に投資している姿を見せてもらうのは、その脇で会社の支給をもらったり、義務感や惰性でやっていたりする人々とは際立ったものがあり、うれしくもあります。私もそうあり続けたいという応援をもらった気になります。

 

現在、人工透析をしている叔母は、30年も経った後に、腎臓移植を決意し、医療センターで移植手術のプロセス中です。免疫をうんと下げて、移植する他人の腎臓への拒絶反応が出にくいようにするために、無菌室に入り、菌の絶対数が最小限にできる食事しかできず、移植に備えたあと、叔父(叔母の夫)の腎臓を移植しました。また無菌室に入り、誰とも逢えない面会謝絶状態が続いています。あと1週間ほどで限られた人と面会が開始できますが、それも拒絶反応が出なかった暁の話です。母の精神状態は不安定ですし、私も忙しくて疲れていますし、考えるのは、彼女をそもそも腎臓病にしてしまった薬剤について、です。副作用が強い薬しか使わなかった医師や病院について恨んでいるのか?いや、時代だったんですよね・・・。冷静に考えればわかることでも、叔母を無菌室のガラス越しに見たときにはそう思えない。恨みつらみを言いたくなる。「なぜ彼女が?」と。そして、死んでしまったとしたら、この恨みつらみは消えないのだろうか?大きくなるのだろうか?と仮想で考えてみても、疲れているときは別としても、やはりきちんと引っ込んだままで暮していけるのではないか?と感じているところです。最終的な答えではないにしろ、です。

 

さらに、台湾の西さんのビジネスパートナーのお母さんが、子宮全摘出をして、直腸も切除しました。悲惨な光景に、ビジネスパートナーとその家族たちは、自分のこと以上に悲劇を感じています。愛する人がそんな目に遭わなければならないことをしたのか?と、神様に恨み言を言いたいと悲しんでいるところです。が、最終的にはやはり神様は恨まないことを選ぶと思うのです。そのビジネスパートナー本人も、20代後半のみそらで、乳房切除を乳ガンでしており、悲しくてつらいことを体験していますが、その後も神様を恨むことはなかったです。そして、今回もおそらく、時間が経ったら感情だけに支配されることはないと思うのです。

 

本村氏の心中はわかりません。わかるとなどとおこがましいことは言いたくないですし、この判決で日本の犯罪量刑が変わったことに大きな影響力を与えたとも断言したくありません。どのみち、裁判員制度が始まり、マスコミの垂れ流し部分に反応してしまう人口の何割かが参加するわけで、本村氏の心中や努力や誠意にはたどり着かない人々が、彼の真意をわからないまま、一票を投ずることになるのでしょう。私はわかりたいという熱意は持ったまま、彼とは違う、死刑反対の立場を貫いていくことになります。

 

ただ、ひとつだけ強く言えるのは、本村氏と同じ想いなのは、そもそもの犯罪が少なくなる社会のために貢献したいということです。誰かの心持を変えることは無理だとしても、私だけは、私の愛する人だけは、犯罪者になるようなひどい追い込みをしない、押し付けをしない、規範で縛らない、つらい想いを受け止める、と、心がけていきたいと、改めてまた考えています。講師として知り合った人々にも、その想いは伝えられるだけ伝えていきたいし、権威や力に屈すことなく、自分が正しいと思ったことは強く主張し、他人の意見や多数決に容易く影響されることないような、折れない心を保っていきたいと思っています。

 

やはり本村氏とて、死刑判決が出たからおしまい、ということではありえないと思うのです。どれだけ救われたのか?それはわかりませんが、人が人の不可逆性を以って裁いていいものなのかどうかに、私はまだよしとは言えないでいます。更正のためのシステムも万全に限りなく近くしたのちに、それでもダメなら、と考える私は甘いのでしょうが、上のほうにいる神様と呼ばれる存在がいるのであれば、人が人を苦悩の末に裁こうが裁くまいが、きっとその量刑は天国の階段下なのか、上なのかで、決められるのではないかと。それを、昔は良心と呼び、信心とも呼んだのですが、日本には宗教だけではなく、この良心や信心も希薄になりつつあります。

 

チューリップを大人が傘でなぎ倒すなんてこと、悲しすぎて話す気持ちにもなれませんが、これが現実になってしまっているんですね・・・。そして、フツーに見えた近所に住む人々が人殺しをするようになってきている。他人を疑いながら生きていくのはあまりにつらい。ナイーブすぎてもいけませんが、誰彼かまわず疑うのはつらいですよね。

 

判決はいろいろなことを考えさせてくれましたが、これで終わりではないということだけは、きっぱりと言えそうです。

 

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