求める気持ちが空回り

05/08/2008 にアップした文章です。

 

私は、求める気持ちがいつも内面に向いていると信じているのですが、自分の内面作業ではなく、他人の内面を覗き見て、それをこちらに吸収するというプロセスに、どうも誤差が生じることに関して、最近空回りを感じています。いや、最近じゃないか・・・。いつもだよね・・・。いつもそうだったのではありますが、「これくらいで及第点としよう」と思ってきたというところなのかなぁ・・・。ここのところ、その何十何回目かの限界について考えているところなのかもしれません。私は社交的な人間だと誤解されがちですが、実際は、自分の裡側のほうにばかり、心が向いており、いっしょに居てはしゃいでいたとしても、それぞれが持っている殻のようなものを弁えて暮しています。そのBoundary(境目)がない人間がいつか見つかるかもしれない、と思っているような幻想はないから、恋愛についてかなり諦めてしまったのでしょう(爆)。

 

何度か前に書きましたが、ヒトというのは「同質性」を求めて行動しています。共通点があったほうがヒトとしての関係は親密になりやすいわけです。なので、他人との共通点が、表面的に少ない人間は、なかなか親密な関係が築けないことになります。出会いの妙ですね、これが。実際には出会っているのに、注目せずに、通り過ぎられて流されてしまうのです。さらに、ここでは容姿の好みのスクリーニングがあり、匂いや音(声)などのスクリーニングも経られてしまい、もっと難関なのが、不器用な人間は、目線を合わせることもなかなか絶妙にできず、そうして、共通点がなかなか出せないまま、お互い通り過ぎていくことになるわけですね。せっかく、何かの共通点があって、その場所で出遭うはずなのですが、こうしてかなりシステマティックに誤差を引き起こしつつ、出会いというのは重ねられていくわけです。

 

しかも、その出会いというのは、長く続くわけでもなく・・・。ヒトは、個人的な主観を世界の中心と考えてしまう傾向があるので、これまでの自分の統計学をかなり正確だと誤解しています。そこには、自分の体調での受け止め方の違いや、記憶の引き出しから取り出しているものの不正確さなどもあるし、場面が似ていても「ささやかだけれども重大な違い」があったりもするときにそれを考慮に入れられません。

 

そうやって、いつしかすれ違っていき、長く続く関係というのが限られていくわけです。

 

こんなメカニズムを知っているがゆえに、寂寥感などはなく、本当に友だちというものが大切ではあるが、それがゆえに相手と自分に必要なだけの距離感を保てていると思えるのです。幼なじみと呼ばれるヒトはほぼおらず、ただ逢えば「ようっ!」と昨日の続きのようなことができる友人が幾人かいる程度で、定期的に逢う努力などはまったくしていません。自分という人間はこうである、という頑固さは、今となっては「よかったもの」として作用するようになっていますが、自分の意見をどうしてか他人に譲ることがなかなかできなかったり、最初から譲れないからそういった場面には首を突っ込まないようにしたりする、という作戦を取っていたのだろうなぁ、と。そして、なぜに譲れなかったのだろうかなぁとも。

 

誰となかよくなれるか?どのくらいなかよくなれるか?わかりながら人付き合いができるというのは、この歳になってみると、わずらわしくないのですが、かなり早い時期にわかってしまうと、さみしいことなのかもしれません。この歳になって決して自分だけのせいではないことがやっとわかったというのが、正確な表現なのでしょう。それまで、私は自分に友だちが少ないことや、長く続いている友だちが多くないことに、しっかり気づいていながらも、その原因が自分にあることだけを責め尽くしてきており、それで渡米して選択肢の数の多さや質の自由さをかなり満喫したのです。論理的に、「私が他の人と違うし、さらに我慢できなかったから」という証明だったように感じていたのです。ところが、実際のところはそんなスケールの小さい法則ではなく、もっとたくさんの人間の「ささやかだけれども重要な違い」がモザイクのように積み重なってきた結果だったのだ、ということが、最近よくわかってきたのだということ。

 

今になったら何でも好きなことが言えてしまうので、卑怯と言えば卑怯なのですが、私だけではなく、幼い頃の喜怒哀楽というのは、なかなか統制が利かず、コントロールしようなどと思っているのは、廻りにいる大人たちだけで、子どもたちのあいだでは、けっこう尖がりながらも日々は過ぎていっているわけです。ところが、おつきあいする人口そのものが増えていき、たくさんの大人の思惑も入り、社会という大きな慣例を背負うことにもなり、どんどんその矛盾も内包していかねばならぬことになります。「言わぬ美徳」もいつしか身につけることとなり、それに関して欠落した私は、その時点ですでに取り残されていったのだろうと思います。その美徳がどんなところでフルに働き、どんなところでフルに働かないのか?という微妙な境目を学ばせていただいたにも拘らず、たいていのことは「言ったほうがいいことばかり」と未だに信じています。

 

が、ゆえに、求める気持ちが空回りしていくことが増えていくのでしょう。決して言ってくれない人ばかりに出遭っているわけではなく、そういう人々とおつきあいしているわけではなく、日本人というバックグラウンドには、それが「常識」なわけで、「あ、肝心なことは言っておかねば・・・」という気を廻せる人はけっこう少ないし、その肝心なことがまさしく肝心なことである確率も、世界観に左右されていきます。

 

こんな違いばかりに注目している私は、「ささやかであるが重要な違い」で人が語らぬ世界観を、どうにかして「読み取ろう」としているところがあり、それはとても楽しい作業ではあるのですが、時々、読み違えて空回りするんですよねぇ(苦笑)。その誤差が、蓄積すると大失敗に繋がるのですが、けっこうないい年齢になってきたので、その失敗率は減ったものの、やはり完璧などこの世にありえるわけもなく、時々躓きを感じるわけです。

 

しかも、私の始末に負えないのは、他人の内面に向っているものを引き出したがったりする理由が、自分のためでもなく、英語講師という仕事柄、どのような世界観があり、どのような好き嫌いがあり、行動規範があるから、それらをこう使えば、こうなるという予測を立てたいから、という動機なんですね。大廻りしていくと、目に見える成績が上がれば(TOEICスコアだとか)、まぁ、私の講師としての評判も上がるんですが、それはけっこうどうでもいいようなことに思えています。なぜならば、「英語を話したい、できるようになりたい」という人口は、どうも増え続けるだけで、それほど減ってはいない模様。劇的にこれから激減するような気はしないのです。もちろん、リピートの生徒さんがいたり、紹介でお友だちが私を指名してくれたりするのはとてもうれしいのですが、私はそれについてはすでにギャラをもらっており、そこで一応の終結はされており、評判などは二の次のオマケですね。それよりも、実際に英語使いになり、私の元から去っていくことを、明るく励行していくことが必要で、なんだか不思議ではあるんですが、さよならするために求めるものを増やしているような・・・。

 

が、基本、ひとり行動が好きなので、特に苦でもなく、決められた期限の中、必死になるというのは、長い目で見れば「生」そのものも同じことなので、その小さいスケールを、日々がんばっていると思えば寂寥感もなく・・・。昔、大好きだった男の子に、「きみはどんな世界でもひとりで危なげなくやっていけるから、何も心配していないよ。そばにいる必要なんかないよね。さようなら」と言われたことがあり、不思議とそれを聴いても悲しくはなく、褒め言葉だったと受け取りました。そりゃ、切ない気持ちはありましたが・・・(汗)。きっとそれをずっと続けているわけで、彼だけではなく、多くの人間は、「この人に必要とされている実感」というものが欲しく、私は誰かにその気持ちを催させない人間であります。

 

そうした見地から行くと、私を一時的に求める人が現れたとしても、空回りしていくわけで・・・。おもしろいのは西さんですね。いい加減に放置しておいて、ただただ私のこの先を見届けたいと思ってくれる気持ちがうれしいわけです。本当に生涯学生の夢が叶うのか?本当に子どもがいなくて倖せな人生が送れるのか?本当にきれいごとは絵物語のように実現するのか?などなど、彼の好奇心はまだ尽きてはいない模様です。応えないとなぁ・・・。空回りさせないようにしなくては・・・。

 

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