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活力源をどこに求めるか

11/29/2007 にアップした文章です。

子どもがいる男の人々は、「疲れて帰っても子どもの寝顔を見るとほっとする」などとおっしゃいます。これを聞いたのは一度や二度ではないので、いや、かなりの数、同じような言葉を聴いたことがあるので、家庭を持ち、子どもを持つということは、お宝なことなんでしょうね。が、私はいまひとつ、社会的役割を中心に生きていく、ということが希薄で、確かにネコたちの丸まって寝ている姿はお宝なのですが、あれもこれも欲しいという強欲なやつです。太陽電池で生きているのであればいいのだけれども、やはりヒトはハイブリッドなんでしょうねぇ・・・。生命体としての必須である、食物や太陽や空気や水のほかに、感情を支えていく何かが、活力源としてどうしても必要なのは、脳が大きくなったための功罪両方です。あなたの活力源は何でしょうか?

活力:働き動くための力。活動力。生命力。
生命力:生命を維持していこうとする力。
源:(1)川の水の流れ出る所。水源。(2)物事の起こるはじめ。起源。根源。源流。

そうなのか、人々は昔、活力を液体状のものとして捉えていたのか・・・。なんだかわかる気もする。確かに、血液もほんの100数十年ほど前までは内容物をしっかり把握していたわけでもなく、細部のヒトの身体の造りについては、もっと遅くなるわけで、DNAなどは1962年だから、たかだか45年くらいしか経っておらず、その詳細についてはごく最近ですし>ヒトゲノムね。食べ物だって咀嚼をしっかりすれば水分が多いとも取れる(笑)。ただ、ここには睡眠や陽の光などの形にならないものは考慮されていないのだろうか?いや、これは日本語だから、なのかな・・・。いや、違うな、英語もSourceだから同じことだ・・・(けっこう新鮮に驚いている)。

物事は何でも「自然の摂理」を最初に考慮するのが簡単なので、ベースになっている脳が大きくない生命体について学んだ、生物や動物学はけっこう役に立っているものなのだなぁ、と、昨日も新しく出会った人に説明している自分の物事の解釈について、ひどく感心していたところなのです。彼は昔の知り合いが、高校時代に鬱病にかかって、自分なりに「サイクル」を見出したのだが、主治医には「そんなものはない」と一刀両断にされてしまい、不思議と「二十歳を過ぎれば治るよ」とも言われたのだと、憤りまではいかずとも、かなり精神世界の治療については疑念を抱いておりました。自然科学の範疇である医学を修めたはずの医者が、なぜかサイクルはないと言ったり、根拠なしに二十歳という境界線を設けたのは、私にもまったく理解できないことでした。それは私がMDの学位を持っていないからとは思えないでいます。

活力のうちの、睡眠・食事・空気や水などの、取り入れたり休息したりする自然の摂理以外に、ヒトがその心的基本のよりどころとしている活力源は、大きく分けると、
1.自分の世界での在り方
2.その世界の中心である自分の周りにある人間関係
3.その人間関係の隙間に浮遊するいろいろな物事
と大きく3つに分けられるのでしょうね。こうしてまとめて考えてみることもせずに、大半の人々は貧乏暇なしで暮らしていくわけではありますが、私は貧乏暇なしでもどうしてか考えてしまう。頭が動いてしまうことはどうも自分では止められず・・・。因果なことです。母は、身体を動かしているとそれに集中できるようなので、たまに気持ちがわからぬのですが、まぁ、違うシステムを持っているだけで、根本的な貧乏暇なしな貧乏症だという事実には変わりはありません。

そうそう、働き者の彼女は、私の高反発マットレスを大切に使うために、パラシュート生地で包んでくれて(ネコの毛がついたり、爪が引っ掛ってはいかんという配慮から)、さらに、冬用の上掛け2枚(毛布と布団)をくっつけてネコの毛がつかない素材でシーツを作ってくれました。他にも、バッグに工夫を加えて、手でも肩でも持てるようにループをつけてくれたり、ポケットを余分につけてくれたりします。これは、母がいなければ実現しないことなので、本当にすごいと思う・・・。これをすることが彼女の活力源になっているというのは、厳然たる事実のようです。仕上げたときに、私に説明をするときの彼女は生き生きとしており、褒め言葉を待っており、私の物なのに自分でデモをしてくれるんですな(笑)。洋服の修繕なども同じで、なぜ彼女がデモをするのか?と謎は残るんですが、まぁ、わかりやすくていいです。食事を作るたびに、食卓で作り方を話しているので、私が24歳と半年で初めて料理にチャレンジしたときに、無難にものすごく早く学習できたのも、彼女のこの「喋り」のおかげなのだと、最近になって気づきました。それまでは、飲食業界でウェイトレスのバイトをしており、いつしか見ていてそれを記憶していたから、と思っていたんですが、実際は、もっと身近なところで、母がこうして呪術を言葉により掛けていた、と・・・←私にとってはかなり衝撃的な発見だったんですよね。ヒトの記憶や解釈がいかにいい加減か、自分に都合のいいようになっている、という典型的な例のようで。

1.自分の世界での在り方
これは、価値観と世界観のところではっきりしたつもりですが、自分が世界の中でどこに位置しているのか?ということを意識したもので、自分の力や考えが及ぶ範囲についてのヴィジョンが持てているかどうか、ということです。いい意味でのSelf-Esteem(自己尊敬心)が持てるか持てないかの分かれ目と言ってもいいでしょう。刹那な時間だとしても、自分がここにあり、世界に含まれており、その存在そのものや、方向性や態度を好きでいられるかどうか?という生きる活力のベースになるものです。

2.その世界の中心である自分の周りにある人間関係
孤児だったり、血縁がひとりもいなくなったりすると、友人やいっしょに働いている人々などに人間関係を求めますが、その絆のしっかりさ加減や安定さ加減を、ヒトはよく活力源にします。正しい・間違っているというのはないにしろ、あまりに強く親子や夫婦や友人との関係に頼ってばかりいて、1.の自己存在意義についての活力が薄いと、その人に去られたり、喧嘩をしたり、先立たれたりすると、生きていくことそのものがイヤになってしまうこともよくあります。恋に生命を賭けることができる男女がいますが、このアップダウンの差はすごいんでしょうね。

3.その人間関係の隙間に浮遊するいろいろな物事
自己存在意義やその周りにある人間関係をベースに、それらを築くための要素を、ヒトは活力源にしますね。たとえば「潔さ」「道徳観」「正義」「愛情の深さ」などなど、個人によってその重きは違います。この世は、二元性で成り立っているものが多いので、たとえば「正義」を重んじすぎると、犯罪や理不尽な事故などに遭うとたいへんに脆くなります。あ、私か・・・(自嘲)。そうなると、生きていく励みになる活力源に裏切られたように感じるのですが、実際は古今東西、そんなものは一定でもなく、構成員の動向によっても変わり、環境そのものによっても変わり、個人が期待を掛けるものにしっかり応えてくれるわけでもないわけです。でも、ある種の予測値や期待を持たないわけにはいかず、バランスというのが大切なんでしょうねぇ・・・。

この3種の活力源からまんべんなく、バランスよく、生きていくためのヨロコビをもらえるのが最もいいことなのでしょうが、ヒトが完璧なわけもなく、誤差を持ちながら日々やっていくわけです。自分が何に、どこに、誰に活力をもらっているのか?がわかっていると、かなり生きていくことそのものがラクになる道が見えてくるかもしれません。ええ、私は無難に、そのたくさんをネコにもらってきたんですが、うどちゃんが17歳になり、母が『ペット供養の話』という本を買ってきて、ちと揺らいでいます(笑)。西さんは中国に居るしなぁ・・・。バランスですね・・・。

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