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11/25/2007 にアップした文章です。

何かや誰かに消滅してほしいと思ったことは、一度ばかりではないと思うのです。私も失敗をたくさんしてきましたので、Do-over(やりなおし)ができる物事についてはさして「なかったものにしたい」と思うことはないのですが、不可逆のうちの、自分だけではなく、他人様にも見せてしまい、私だけの記憶ではなくなったものについては、けっこう「なかったことにしたい」がありますねぇ・・・。誰かに消滅してもらいたいと思ったことは、2度ほどあります。PTSDの原因になった加害者についてです。私の場合は、意気地がないので、殺意までには行かないのですね。消滅してもらいたいと思うので、実際は存在がなくなる=死ぬ、なのでしょうが、私が手をくださず、プロセスにも関与せずに、消滅してほしいと願う神がかり的な奇跡を願うとは、いかにも愚かなことです。が、願わずには居られなかったですね・・・。

悲しいことに、私は好戦的に感じられてしまうのですが、その資質は子どもの頃に使い切りに近いくらいに使ってしまったようで(こんな理屈あるわけないのだけれども・・・)、必要がない場合には本当に怒りも対立も対決もしないようになっています。二十歳からこっち、むしゃくしゃしたから何かを破壊した、ということは数えるほどしかありません。まぁ、チャンスがあれば、100枚くらいお皿を割ってみたらさぞかし気分がいいのかもしれないなぁ、とは想像できますが、どうも「だから何なの?」と思ってしまうようです。これも学習なのだろうと思うんですが、楽しいからといって、霜をいくら踏み潰しても、薄氷をいくら割っても、雑草をいくら抜いても、気分のよさはたいへんに一時的なのです。ほんの刹那。あまりにも無意味に思えてしまう冷静さが、私にそれを止めさせてしまったんでしょうね。確かに霜は粉々に溶けた。氷も粉々になって目の前で溶け始めてしまう。雑草は高く積み上げられてへたりこんでしまう。私が何かをして「元あった形」をひしゃげてしまうことは、なんだかとても後ろめたいような・・・。

そこで、やはり中途半端な偽善者ちっくな人間性が固まってきつつあったようです。私は、自傷することも故意にはできませんし(シャワーを浴びているときに、切り傷やあざに気づくんですが・・・笑)、何かをぐちゃぐちゃにしたり、ないものにしたりすることは到底できないやつになっていきます。

たとえば下着を切り刻んで棄てますよね?(棄てない人はたぶん家風なんだろうけれども、汚いものを切り刻んで人の目にたとえ触れてもいいようにするというのは、母は徹底していますね。靴下なども雑巾にしてから棄てますから)私はあの破壊作業がいつからかまったく楽しくなくなっていくわけです。はさみでちょきちょき刻むのは、楽しいのかもしれません。いや、子どもの頃は本当にそれなりに楽しかったはずなのですね。でも、いつしか楽しくなくなった。何かを創造するのではなく、私の手先が不器用なことから、壊しているという実感がありすぎて、図画工作なども本当に嫌いになっていきました。まぁ、その傾向は父が上手でぬり絵を取上げたことなどから発しているんですが、その途中にこのようなひとり悶絶もあったようです。

母は相変わらず、何も考えていないのか、けっこう楽しみながらやっているのか、まだまだああして切り刻んだり、形を変えてから雑巾にしたり、と、工作系や洋裁は好きみたいだ・・・。日がな一日やっていたりもする・・・。私には到底考えられないほどの拷問なんだけれども・・・(笑)。

暴力を振るう人がいますが、そういう人たちは何度それをやっても、その虚しさをなんらかの形で乗り越えているので、なんだか逆にうらやましい気もするわけです(本当か?)

少しだけ擬似なのが、爪きりなんですが、私は爪きりが大好きです。ところが、爪を爪きりで切るというのは、実際は爪にミクロの世界でヒビを入れてしまう作業のようで、手の爪10本はもう切っていません。ヤスリをつかって研いでいます。足の爪はそれほどじーっと見られるわけでもないし、父に切ってもらっていた記憶を大切にしているので、「これでもかっ!」というくらいに切っているのですが、「また元に戻る」と大いに期待できるものに関しては、何でもできる感じ。

でも、暴力での変形や、力を入れることでの消滅が約束されているような物事は、やっぱり積極的にやりたくないわけです。それは、大人になってから「エネルギー保存の法則」を学んでからも同じでした。特に、それによって、安心して、破壊作業を続けられる♪とは思わなかったです。この定義にもあるように、「閉じた空間」ということについて、自信が持てなかったせいもあるんでしょうね・・・。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC%E4%BF%9D%E5%AD%98%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87

なんだよ、だったら、私はチャレンジしないバカモノなんじゃないか、と、少しネガティブに聴こえてしまうのだろうけれども、実際はどうなんだろうか?料理はするんですよ。ただ、ガスレンジのバーナーが4つあるのが理想的ではあるんですが、料理の最中に洗い物を終わらせながらちゃちゃっと手際よく料理はできるんですよ。違う形にしても、甲斐があるものに関しては抵抗はない。けれども、クラフト関連全般が嫌いになったのは、やはり変形したり、消滅させたりすることに関与しなければならないから、としか、今振り返ってみると、思えないからのようです。

これは人間関係にも似た論理が使われており、私のほうが切られるのはまったくかまわない。負け惜しみでもなんでもなく、私は切り捨てられるのはまったく気にしません。ああ、たとえば心の奥底での交流があったと信じた人からの突然の理由もない切捨てはどうなのか?と問われたら、そりゃ少しくらいは振り返る時間は作るのだろうけれども、やっぱり最終的には気にしないのです。私のほうからは去らない。ただし、まめまめしく積極的に連絡を取ることもそれほどないのです。変形させたり、消滅させたりすることに、私がコントロール権を持つのがイヤだというのは、ここにも反映されているのでした。

相手に切り捨てられることによって、私は消滅したりしないです。人というのは簡単に消滅できない。したくてもできないです。変形させられているか?と問われれば、PTSDになるくらいの事件性や非日常性があれば、それはされたのでしょうが、私は完治がないにしろ、元の自分+αにまでは戻ったつもりでいます。基本は変わっていない。+αのところは、音や甘言に敏感になったことなどでしょうか・・・。ただ、それも相手の支配下によって私が変わったと思うのが、ひたすら悔しいし、責任転嫁もしたくないので、私はやっぱり変わらないように努力をしてきたのだろうと思うのです。自らが選んだとおりに自分を成長させてきた、と、最後には胸を張って言えなければ、と心から念じて。

この中途半端な生命力は一体何なのだ?と書いてきて思っています。見た目や印象は好戦的だし、自己主張もしっかりするわりには、私は世界とは積極的に取り組んでいないのか?と。けっこう流されているんじゃないのか?とも思えるんですが、やっぱり最後には「面倒くさい」「押し付けられたくない」とこのふたつが指標になっているような確認作業にもなってしまいました・・・。

モノや人が消滅するほどの熱意などは、とてもじゃないが持ちきれないです。しかも、そんな呪縛に行動や考えを支配されるのはまっぴら御免ということなんでしょうね・・・。しかも、人を変えていくことに積極的に行動するのは、自分が押し付けがましくなるんで、やっぱりやらないんでしょう。うん(またもや納得)。