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11/05/2007 にアップした文章です。

 

神の存在を感じるときに、畏怖を感じるというのを、以前書いたのですが、東京に戻ってきてからは、このチャンスがどんどん減っているのであります。アメリカに住んでいた頃には、5分走れば、海も山もそこにあった。ということは、人間が作ったものではない大きな力を感じることが容易く、自分の小ささについて想い、さらに宇宙よりも可能性を秘めた脳について想うことができ、なんだか不思議な力が湧いたものです。いわゆる、充電ですね。高尾山に行こうかな、などと言っていたのですが、電車でわずか30分ちょっとなはずなのに、行くゆとりがない。商売柄、夕方からのスケジュールが入っており、シャワーを浴びに一度帰ると、どうも時間的にきついせいで、どうせ行くのならばしっかり堪能したいと思うせいです。

畏怖:大いにおそれること。おそれかしこまること。
おそれる:(1)危害が及ぶことを心配してびくびくする。危害を及ぼすような人や物と接することを避けたがる。こわがる。《恐・怖・懼》(2)良くないことが起きることを予想し、そうならなければよいが、と思う。危惧(きぐ)する。《恐・懼》(3)神仏などを、人為の及ばないものとして敬い、身をつつしむ。《恐・畏》(4)閉口する。恐れ入る。《恐》
畏まる:(1) (ア)相手の威厳などを恐れて、つつしんだ態度をとる。(イ)正座する。(2)(目上の人の言葉を)つつしんで承る。(依頼・指示などを)承諾する。(3)お礼やおわびを言う。(4)謹慎する。

日本人の宗教心が薄いということは、なんだかこれまで何度か、中途半端に言い切ってしまったようです。本来であれば、柳田國男が生涯賭けて集めた資料などをしっかり理解すれば、日々の中にもしっかりと宗教心の素となるものが溢れているのですが、それらからどんどん遠くなっていく暮らし向き、ライフスタイル、建築、仕組み(法律や政権そのものやその中心になる人々の思想)などで妨害され、なかなか見えなくなってきています。京極夏彦は、これらの組み立てから見えてくる本来の日本国に汲み汲みとあったものを題材とし、ミステリー(いわゆる事件解決モノ)を書く、超一流の作家だなぁ、と、昨日も「すごい」を連発してしまいました(笑)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E7%94%B0%E5%9C%8B%E7%94%B7

私の父の実家が長野県飯田市で、なぜ、成城にあった柳田國男邸が飯田市美術館に移動されたのか、その経緯がわからず、ちとイライラしています(笑)。

信心:神仏を信ずること。神仏を信ずる心。

コレがまったくゼロだという人々には、私は割合的には2割ほどしか会っていません。私という人間が、信心がある傾向なので、私と反対の考えを持つ人はなかなか出現しにくいのかもしれないです。磁石の論理ですね。が、私は頭でっかちな人間でもあり、人が神や仏と称している存在を、英語のほうが便利なので、The Higher Powerと呼んでおり、人為を超えた力を持つものがどこかに居るとみなしています。そして、宗教については、そのThe Higher Powerをいろいろな時代にいろいろな人が、捜し求めた揚句に、違う名前をつけて、その教義を確立し、今までの歴史的流れとして継がれていると考えています。外部から見るとまったく滑稽で、実際は、同じものを違うものと喧々諤々しているふうに思えているわけです。「そんなものはいない」と豪語する人々に対しては、Null Hypothesis、日本語では、帰無仮説法ですが、「神はいる」という仮説を立てて、ないとするのか、「神はいない」として在るとするのか、の順番の証明法。英語はこれ:http://en.wikipedia.org/wiki/Null_hypothesis 日本語では、これが手法の説明リンク:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%AE%E8%AA%AC%E6%A4%9C%E5%AE%9A  http://www.weblio.jp/content/%E5%B8%B0%E7%84%A1%E4%BB%AE%E8%AA%AC

ちと難しいので、平易に表すと、最初に「神はいない」と証明するのはたいへんに難しい。ならば、「神はいる」ということが証明できなければ、その反対が真である、とする考え方。ところが、現在の段階では、「神はいる」という証拠ばかりが出ており(これは証言が中心であり、なかなかそれも証明までには至らない)、「神はいない」という証明は、おそらく永遠にできないのではないかと推測されるのである。

なので、「神はいない」と言い切る人々の知性そのものを、私は疑う傾向があるわけです。私が神仏を信じる心というのは、「否定できないから居るかもしれない」という知的推測と、純粋に心情として「居てくれたほうがいろいろなことが説明できるので居てほしい」ということ。

物理量子学などを究めていくと、どうしても論理的に辻褄が合わなくなってくることが多いというので、極めた人々の中には、「宗教心を持つ」人がかなり多いと言う・・・。科学だけで物事が解決されると思っているのは、ヒトの奢りであると、私も考えたりするので、至って原始的な部分も持ち合わせているようです。

なぜ、「霊柩車を見たら親指を隠せ。さもなければ親の死に目に遭えない」だとか、「朝の蜘蛛は逃がして、夜の蜘蛛は殺せ」だとか、「夜中に爪を切ってはいけない」などなど、いろいろなことがまことしやかに言われるのか?と、民俗学などは追求しているのですが、言説はその背景にあるものをあまりに軽んじてきています。

東大やその他にある女性学で、どの程度のことを教えているのかわかりませんが、少なくとも私の母校であった大学では、男女の性差における東洋思想とその歴史については、わずかに大まかなことしか教えてはいませんでした。欧米思想が学問の中心である限り、それはまだまだ「偏った世界」であることは必定で、その基本の仕組みである、「ヒトや文化の力学~Dynamics」を解明する心理学をやってきたことは、かなり自分の知恵を支えるに、いいことだったように思うのです。

民主党の小沢代表の辞任表明などもありましたが、アレも限りなく、力学です。ただし、物理的な力学よりも、もっと面倒くさい、要因の数と質を理解せねば、「ただの愚民がその不平不満を感情的に口にしている」ことになり、私は未だ、あまり確定的なことを言えないでいます。面倒だよ(爆)。しかも、資料収集からしてかなり難易度が高い。閉ざされたドアの向こうで起きたことなど、見てもいないのに、とやかく言えるということが、知性のカケラについて考えてしまうことなのである。

私個人は、畏怖を大いに感じるやつなので、畏怖を感じぬまま、力学の参加者になるのは、どうもしきれない・・・。ぼーっとして、山や海を見ていると、いつのまにか数時間くらいは経ってしまい、ハイパーな私にも似合わず、「飼い馴らされたライオン」のようになってしまうのである・・・。そんなときの孤独は最高のご褒美で、誰にも干渉されず、誰の気持ちも察する必要もなく、寝っ転がって星空を見たいなぁ、と、これを書いていて思うのだ。冬の星座を見るためには、やっぱりプラネタリウムなんだろうな・・・(汗)。うん、やっぱり近日、プラネタリウムに行ってみよう♪

http://www.star-dome.com/ ここなら電車で10分くらい。
https://planetarium.konicaminolta.jp/manten/?cid=JPP1601000Xsunshine ちと遠いけど40分くらいで行けるかも。
http://planetarium.to/ 全国のプラネタリウムが検索できるサイトだよーう!