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11/02/2007 にアップした文章です。

 

ここのところ、運動は腹筋くらいしかしていないので、フィジカルな限界は、ソレでしか感じていないのですが、疲労の限界は、地獄のスケジュール以来、ここのところあまりなし。ただし、二日酔いで「もー、生きていたくなーい!しばらく殺しておいてぇ!」というくらいのフラフラはありました(笑)。肝臓が相当弱ってきていると思うので、しばらく止めておこうと決心しています。が、先月は、お誕生日があったので仕方がない。社交的ドリンカーとしては、祝ってくれるというお誘いを無下に断るわけにも行かず・・・。筋肉疲労以外で、どういった種類の疲労の限界があるのか、ちと真剣に考えてみようと思います。ほら、疲れていないときじゃないと、考えるのもかったるいでしょ?(笑)

疲労:(1)つかれること。くたびれること。(2)〔医〕 生体がある機能を発揮した結果、その機能が低下する現象。その部位によって肉体(筋肉)疲労と精神(神経)疲労に、発現の仕方によって急性疲労と慢性疲労に大別される。つかれ。(3)金属などの材料に破壊応力よりも低い応力を繰り返し加えると、材料に損傷が累積し、材料の強度が低下する現象。つかれ。(4)貧しくなること。また貧乏。
限界:物事の及ぶ一番端。その状態をもちこたえることのできるぎりぎりのところ。かぎり。

もちろん、まず考えられるのは、生物学的な要素。それには、自分の体質や現在の状態を把握していなければならぬ、というモニター志向が求められるわけですな。私の場合は明確で、椎間板が2枚無くなってしまっているので、疲れは「同じ姿勢」「長い歩行」から来ます。それには本当に心を砕いており、通勤用とオフィス用の靴を履き替えるくらいに気をつけています。歩いたり立ったりが多いので、スニーカーを使用。昨日、真新しいスニーカーを下ろしたのですが、Nikeの真っ黒のジムトレーニング用のものです。テニスシューズも試してみたのですが、余り堅すぎないほうがいいようで、ある程度のクッションが必要らしい。さらに、アメリカに住んでいるときから使用している、アーチ(土踏まず)をサポートしてくれるインナーソールを入れています。姿勢を足元から調整する機能を持っているのです。日本では、5800円で売られていますが、アメリカでは$29.99ですね。立ちっぱなしや長時間歩行をすると、その効果はたちまちわかりますから、日々歩いているときにもかなりの支えになっていることは予測できます。まったく健康体の西さんでも、「いやー、ラクだ」と言うくらいですから、私のような身障者には必須です。

そんなわけで、行動にも注意しており、教えるときにも立ったり座ったりとメリハリをつけているし、疲れているなと感じたら、遠慮せずに電車の中で座ることにしています。私の場合、身障が外見からわからないので社会の非難を浴びることがたまにありますが、疲れが限界ではない限り、席が譲れるように、わざと優先席に座ります。黄色信号くらいであれば、きっとちょっとだけなら大丈夫。特に、特急駅から徒歩3分に住んでいるので、限界までは我慢しないで済みます。新宿まで出るのに15分ですから。

腰に悪いので、昇降も意識しており、上りはガンガン行きますが、下りは腰に負担がかかるので時間がよほどない時以外は階段を使いません。こうした小さい積み重ねが疲労の蓄積になるのは、経験則でわかっているようです。こんな歳で何やってんだ?と自分で思うこともあるんですが、階段も股関節を広げるために、スニーカー履きなので1段抜かしなどもトライしているのだ(爆)。フィジカルセラピーで習った腰痛のための動きを取り入れられるので、人目が気にならないときにはやるのである。でもなぁ、こんなことを続けていけるのは、筋力が充分まだあるからで、筋力対策もしていかねばならぬ、と思うこと多し。

生まれてからこの方、胃腸が痛いと思ったことは両手で足りるのです。いわゆる腹痛というのは、痛みに強いせいなのか、本当に回数としては少ない。けれども、十二指腸潰瘍というのを作ったことがあるので、おそらく、ただ痛くなかっただけで、炎症が起きたことなどはしょっちゅうあったのだろうと思うのです。血便というのは見たことがないのですが、血尿というのもありますから、私は全般的に痛みに強く、椎間板が無くなる事故がなければ、内臓についてもまったく気をつけないバカモノに成り下がっていた危険性高し・・・(汗)。20代はそれでよかったのでしょうが、今から思うに、あの時期に椎間板が無くなったのは、ある意味幸運に作用することが大きかったのかな、とも思うのです。

食べ過ぎることも当然あり、食べなすぎたあとに食べて酷使していることもあり、ここのところは、「あれ?今日はごはん食べたっけ?」とちゃんとチェックするようにしています←どんな暮らしなんだか(笑)。その点、子どもがいるってそれだけで宝物なのだろうな、と、こういうときに思うわけです。私は仕事をしていると、メシヌキまったく気にしていません。やっぱりメンタリティが男らしい(笑)。が、お客さんや他人のごはんのことは心配します。

身体的な疲労よりは、精神的疲労のほうが実際は蓄積に気づかないのかもしれません。

精神的疲労は、予測に反する・期待に反することが大きいと高くなります。楽しめる範囲のオドロキや新鮮なものであれば、ストレスを受けたなりに楽しめるのですが、ネガティブなものであれば、楽しむことができないがゆえに、疲労となって溜まっていきます。単純作業などは特に疲労が溜まり易く、1時間につき、10分の休憩などを入れない限り、集中力が切れて効率が下がることは、たくさんの実験で証明済みです(実験をせずとも常識的にわかるとは思うんですが、証明していくのが学者たちの使命なのですね・・・)。無駄話だと思えるようなChitchat/small talkなども、実際は効果があるもので、特に女性で「必要!」と思う人は多いはずです。

では、まったく予測を立てないほうがいいのか?期待をしないほうがいいのか?というと、それも程度問題で、まったく予測が立たないことをやるのも、ストレスになりますから、なんとも言えません・・・。

予測のズレにゆとりを持たせる計画や期待ができるようになるのがイチバンなのですが、それは性格にも左右されるので、精神的疲労を感じる人は多い。特に、人間を相手にする職業に就いていると、相手により予測がまったく違う展開になることは多く、ものすごい疲労感となってしまうことがあります。人間を相手の職業ではなく、技術的仕事に従事していても、人と触れ合うことは必然として出てきます。そんなときに、負荷を大きく感じることも多いことでしょう。

私も教える仕事は好きですが、生徒さんたちとはうまく行くものの、営業担当の人たちとうまく行かないことはたまにあります。企業派遣の英語講師にはよくあることで、実際に教えておらず、習っていない両社の営業窓口の人々が、どの程度の現状把握をしているか?で、たいへんに疲れることがあるわけです。あるいは、親御さんがしゃしゃり出てきたりすることもあるので、真意や目的や速度などの点でズレが生じることで、精神的疲労を感じることはたまにあります。

それは他人が参加していることなので予測の範囲に入れるしかなく、いちいち疲れていてはこちらの身が持たないのですが、慣れすぎるのも問題ですし、塩梅が見切れないで、疲れをひとりで引き受けることが多いのかもしれません。本当に限界に来てしまったら、その環境を変えるしかないのかもしれません。が、辞めるのは悔しいと踏ん張る。そんな美徳は確かにありますが、「健康が資本」と思えば、辞める潮時というのは見切れないといけないのかもしれないです。

私の痛みの限界はけっこう高く、腰痛で失神するまで我慢してしまいましたから、人間関係でもあるのかもしれません。いや、ありましたね・・・。今後はそのようなことがないよう、日々精進です。

が、すぐに辞めるという、潮時までチャレンジできない人々も増えているのは、危惧かもしれませんね・・・。