百代の過客

時間の流れについて、私個人はとても長いものを持っているという自覚があります。その俯瞰の中、この自分自身が生きてきた中に焦点を当て、それをさらに細分化する、というような方法を採っています。のちに大学に行きなおして知るのですが、長期時間軸を持てれば持てるほど、賢い、ということを聴き、学び、「うへー、私は子どもの頃からまんざらバカじゃなかったんだ・・・」と驚くことになるのです。

たとえば、齢7歳か8歳にして、私はすでに30代を目指していたものです(前に、書いたのですが、母の友人&洋裁の先生が同じレコードを聴き続け泣いている姿を、とてもとても美しいと感じていたので、その年齢にならねばならぬ!という使命感があったくらいで・笑)。

そして、この『奥の細道』となるのですが、イマドキは本当に便利です。私が学生時代はありませぬでしたが、こんなサイトがあります。宿題の出し方にも、先生たちは本当に苦労するんでしょうね (・・;) http://www.bashouan.com/Database/Kikou/Okunohosomichi_01.htm 

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也 → 月日というのは、永遠に旅を続ける旅人のようなものであり、来ては去り、去っては来る年もまた同じように旅人である。

生きていく中で、【輪廻転生】という考え方に出遭いますが、まぁ、これは願望であるのだろうな、というスタンスになってきています。とはいえ、本当にあったらうれしい。けれども、そのときにはこの今の私の記憶などは全部消失していて当然で、そんなにムシのよい話などあるわけもなく、どのへんからスタートになるのか?ゼロからなのか?何かツケがあるのか?などと考えるのも楽しいわけです。まぁ、おそらくないんでしょうけれどもね、私には。 Dalai Lamaにはあってほしいですし、あったんじゃないかと信じています←どこが科学的なんだ?ってなところでしょうけれども (・・;)

そうした意味では、大きな時間の流れを感じつつも、今この瞬間の時の流れについて、ひどく鷹揚になれるときと、追われた気持ちになり、たいへんに細かく感じるときの差が激しく、自分には永遠がないことを、いつも深く悟っているわけです。英語では mortal と表現します。死ぬべき運命の、人間の、などと訳します。すべての生命を超越した、この時間というものに、使われている人と、うまくサーファーのように波乗りしている人がおり、このへんのこともPrecious One English Schoolでは、心理レッスンに入れ込んでいます。

では、時間にしょっちゅう遅れる人を直すことはできるのか?他者ではほぼ無理でしょうね (・・;) 本人が決めないと始まりません。きっかけとして、「婚約解消!」「クビ!」などと脅しても、心や頭が動かない人は動きませんから。いや、頭でわかっていても心で納得していても、できない範疇の人だって、ここはある法則性を使わないと、なかなか結果として出てこないはずです。なぜならば、時はいつも私たちと共にあり、それでもなんとか生きてこれてしまっているわけですからね。

過客と表現しているように、「ゆきすぎる人」について、あなたがどのように捉えるか?が問題で、それが社会的縛りであるうちには、まだまだ甘いんだろうと思います。

私は見事にオンタイム派で、たとえミーティングであっても、ギリギリまで関係のない自分の仕事をしているタイプです(笑)。

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