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私人と公人の分かれ目

09/21/2008 にアップした文章です。

 

ここのところ、私はMixiやらこのブログやら、英語学校設立計画のため、公人としての自分と私人としての自分の分かれ目について考えることがあります。校長センセとのコメントのキャッチボールの中で、校長センセはある程度認めてくださっているのですが、私はみなさまが受けられる印象よりもずっと私的な人間で、頭の中で考えていることのほうが、外に出るもの(Output)よりも数十倍くらいある。考えもなしに、ぽろっと口に出す、ということは、もう英語を話すようになってからなくなりました。子どもではなくなったという社会人としての自覚のほか、英語の構造に助けられた感があります。さらに、私の持病である躁鬱病にはそうした傾向があり、膨大な感受性や入ってくる刺激(情報)をかなり速いスピードで解析して受け止めるという癖がつききってしまったせいなのでしょう。ただ、それをやるのは疲れるのよ・・・(笑)。なので、どうもOutputしたくもなくなるらしい・・・←とんだ言い訳(爆)。



そして、私人と公人の分かれ目というのは、一体どこで引けばいいのか?と、靖国問題なども含めて、素人の私たちのネット使用の量が増えていることも踏まえて考えてみるのだった・・・。

 

私人:公の立場を離れた一個人。

公人:議員や公務員など、公務についている人。その立場で行動や発言をする場合に、私人に対していう。

 

うん、厳密な意味では、私には公人という立場を意識する必要性がないことがわかる。が、『社会性を持った責任ある大人としてのヒトとしての立場』を、ここではあえて、公人と指してみることにします。というか、すでにここで自らハードルを高くしてしまっているのか?(笑)

 

かなり膨大な量のエッセイになっているのですが、この中で私が意識的に間違った情報を出しているだとか、間違っていてのちのちわかったのに訂正していない、ということはないと自負しています。これに関してご指摘をいただいたこともなく、無事に長く続けているのですが、今後ないとは限らないので、私人として書いてきたエッセイであるにせよ、半公人となってしまっている今、ブログ人格というのをかもし出していないこともお伝えしておきます。ブログで書いている私というのは、あくまで私人としての私でしかなく、演出もなければ、女優のような演技もなく、感性のブレはあるにせよ、いつも私の脳から出たものを書いています。時流があって、環境からさまざまな刺激を受けたのち、考え方が多少変わることがあると思われるのですが、それについては、最新のブログを見ていただければまとまっているはずなのです。

 

なので、私は結論という言葉を使わず、いつも「中途結論」としており、生涯を閉じるまで、ゼッタイ!これしかない!というものがあるとは思わずにしようと決めています。そんな中で、はっきりしている自分についての情報については、クドクドと何度も書いており、ちょっと飽きられているのではないか?とすら思え・・・>いかにズボラか、いかに平坦なアクティビティで満足しているか、特に物欲はない、などなど。

 

私は、以前、AOLというプロバイダーの掲示板にメールアドレスを公開していたら、知らないヒトからのメールが山ほど来てしまい、物理的に処理できないような状態に陥ってしまったことがあります。その相談事メールの内容がヘヴィすぎて、心身ともに疲れてしまったので、こうしたネット媒体というのが、いかに公的なものか、そこで学んでしまったのではあります。

 

それでも、私は防衛をしつつも、飽くことなく、懲りもせず、ネットの世界に留まっているのですが、まぁ、これまでのところは、ストーカーの数も一桁ですし、ほどよく対処できています。なので、やはり、役所に勤めていたり、公的なところからお給料をもらっていないにせよ、ヒトが人として活動している限り、ある程度は「公人」という考え方になったのだろうと思うのです。

 

もちろん、すべてをさらけ出して、お財布の中身まで見せるということなどせずに済んでいるわけで(笑)、話している物事に関して選んだ情報ですから、すべてではないことで、私人でいられるオキラクさというのはあるのかもしれません。母の写真や西さんの写真を出すこともせず、私自身の写真を出すことについて考えさせられたので、ここのところ、この私人と公人の差について考えているところなのです。英語学校を運営していくということは、自分の顔や存在やある程度の情報を世間に晒すということで、それについての覚悟があるのか?と、改めて問われてみると、「隠すことなどないにせよ、うっとうしい問い合わせばかりが来るとイヤかもしれない・・・」というのはある(爆)。たいへんなわがままさ加減です。まぁ、芸能人にしろ、自分の写真は出しても、家族の写真を出さない人々はたくさんいるし、それはそれで自分のコントロールで済んでしまうのかもしれません。が、商売を広げるということは、こういうことも発生するんだろうな、と、少し実感しているところなのです。

 

ただ、本来、まともな大人であれば、私人も公人もなく、God is watching usと思いながら、誰に見られていても誇りを持てるような言動を続けていくことが、あったりまえのことなのだろうと思うのです。表裏がなく、誰に対しても差別がなく、場合によってのほころびの繕いがないような、劇的違いがTPOによってブレがない大人のほうが信頼できる。

 

私が中学生や高校生を教えていて、彼女たちから好いてもらえているのは、親ではない気軽さから、かなり本人たちの立場に立って物事が言えるというのがあります。では、姪っ子やもっと長く続いていくであろうヒトに対してと違うことを言うのか?と問われれば、まったく同じであることは確か。というか、変われない(爆)。そもそも、彼女たちにしてみれば、私は私人であり公人であり、その差などはまったくないので、それに対して100%真摯に対応せねば、と思うのです。大人になっている生徒さんに向けても、「英語業界としては、生徒さんに長く通ってもらいたいのが本音なのだろうけれども・・・」とははっきり言うので、いつかクビになるんじゃないかという事実は、引き受けて生きているようなところがあります。だから、自宅で教えているのですけれども(笑)。

 

昨日は、またもや生徒さんと飲んだのですが、前回ご馳走になったので、今回は私が驕ると決めていたのですが、二重にご馳走になってしまいました・・・(汗)。明日はガーナ人のDouglasが日本に就職活動に来ているので、いっしょに遊ぶことになっています。レッスンはひとつあるのですが、Douglasに働いてもらう(笑)。私だけとSpeakingしていてもその信憑性が足りないかもしれないので、彼と話せるかどうか?を見せてもらおうと思っているのです。こうして、私人と公人は、私の場合いつもごっちゃになっているので、これでいいのではないか?とまだ思っているところです。Douglasが日本に来たら、私はNPOを設立しようと思っており、ガーナに介護車を送るための寄付をしてくれるような団体活動をしようと考えています。私がお金持ちになって、それから私の稼ぎの一部を寄付するのもいいことなのでしょうが、そのあいだにも貧しい人々は不利な条件の中、サバイバルしなければいけない。だったら、もうちょっと捻った賢い活動をして、なんとか形にできたら、と思い、彼を看板にして、公活動を本格的にやってみようと思っています。セミナーや講演会で話すのはDouglasで、日本語の部分でヘルプができたらな、と。

 

こうして、大人になってきたので、私人と公人の分かれ目がないような生き方をしていこうと、だんだん考えることができるようになったのは、アメリカに行ったから、と思いたいところなのです(笑)。もしも、ずっと日本に住んでいたら、引っ込んだままで何もしなかったんだろうな、と。デモ行進に参加したことは、本当によかったし、自分だけではなく、他人のために、と少しでも心が砕けるようになったのは、賜物です。

 

戦争で死んでしまった人に対して、敬意を表すことに対して、誰かが誰かを批判するのはどうなのだろうか?といつも思ってきたのですが、それが政治的脅威だと受け止めるのは狭量だなぁと思いつつ、ネズミのように怯えている人々にとってはきっとそういう受け止め方もあるのだろう、と思えるようにはなってきています。そうではなく、他人の揚げ足を取りたい人々には敬意を真摯に伝えればよい、と。私は靖国神社に行きませんけども、心の中ではいつも感謝しています。本当に公人というのはたいへんだなぁと思いつつ、差がない生き方や立ち居振る舞いができますように、と望むのでした。

 

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