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結論を濁らせる討論

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12/29/2006にアップした文章です。

 

日本に戻ってきてから『朝までテレビ』を見たり、教育特集と医療特集をフジテレビで1週間ずつやっていたこともあったし、朝はいろいろなニュースでコメンテーターがいるし、亀田世界戦問題では、やくみつる氏やガッツ石松氏他、いろいろな人たちがいろいろなことを言っていたのですが、討論となると、どうも結論をしっかりはっきり言わないのが、どうも謎・・・。もしも彼らが、スピーチクラスか、英語のエッセイを書いていたら、及第点取れないよね・・・>ということは、Dってことだわ。Cでクラスがパスなので、それ以下、同じコースを繰り返すか、劣ってこと。

私もこれほどに強い性格だと言われつつも、英語で教育を受けるようになってから「はっ!」と感じたのが、強い語調や主張をしていても、論点が何なのか、結論は何なのか、はっきりくっきり、相手にわかるようには語っていないことが多かったということ。『Noと言える日本』をソニーの盛田会長といっしょに著した石原都知事までもが、結論をしっかり言えないでいるではないですか。やはり「濁らす」「察する」「慮る」「悟る」などの、古来の美徳に頼り切った話術なのだなぁ、ということを、しみじみと感じている年末です。

特に、横溝正史の小説では、バカにしたような受け答えというのがあり、「ああ、そう」というもの(爆)。私はといえば、母や西さんが、殺人や社会問題などの証拠論議で、「ああ、そう」と言うもんなら、かなり腹を立てますが(爆)。昭和初期から戦後しばらくは、日本語がたいへんゆるやかで、依頼をしてもその受け答えが、「ああ、そう」でもいいのかもしれないですね。金田一も等々力警部も相当に偉そうで悠長なので、なんだかあまり切迫感が伝わらない会話になっています。取り巻いている警部補や刑事さんも同様ですもん。あー、強いて言えば、藤田まこと主演の「はぐれ刑事純情派」ちっくなのんびりした会話が多いです。オドロオドロしいはずの殺人に、「うひー、あまりにゆったり」と感じるのは、私がせっかちできつい人間だからではないはずで、おそらくそこには時の流れというものが作用しているはず。でも、のめりこみ切れない私は、そこで違和感を覚えているのでしょう。

そんなわけで、18年半日本にいなかった私としては(あいだ、父の看病と逝去、その後に1年ほどいましたが)、やはりディベートに対する日本人の詰めの甘さは、ひしと感じています。論客と言われているだろう方々からも、私の大学の先生たちからはきっとBくらいしかもらえないだろうな、と思ってしまうのでした(笑)。

まぁ、大学を卒業してからというもの、私が論議相手にしてきたのは、行きつけのお鮨やさんに来るインテリだったりとか、大学で知り合った友人や、ビジネスバリバリの女性だったりするので、90%の論議は英語です。英語というのは、たいへんに合理的な言語だというのは、これまで何度も書いてきました。まず、語順。結論を最初に言えるってぇのは、ついぞいいものです。言いたいことが、語順として最初に来てしまうというのは、のらりくらりとしたことが言いづらいので、どうしても結論めいたことは匂わしてしまうことになります。一度、テーマをはっきりさせたのち、自分の意見としてプレゼンできるのは、聴いている側もラクになります。中学や高校の英語で、S+V+Oなどをやらされたはずですが、アレです。あれがはっきりしていればするほど、下線を引いて品詞をはっきりせねばならない箇所が少なければ少ないほど、聴く側としては非常にラクになるのです。日本語の短い文章は、近頃どうも感嘆詞や形容詞や副詞のみが多いような場面をよく見ます。完全な一文でも簡潔に言うのは、会話をしている相手にとっては親切なことです。

日本語の口語で、どうも多いなと感じるのが副詞(状態副詞、程度副詞、陳述副詞がありますが、時や多さや頻度を表したり、なぜ・どのように・まるで○×などを表したり、形容詞や動詞を修飾する)です。副詞をひとつの文章に数個以上使うことは、明確さを欠くことに繋がるのですが、どうも日本語には副詞が多いな(笑)。が、しかし、多用する人に限って、場所や時間や位置関係や、前文との因果関係(この場合接続詞となるが)を、あまり明確にしません。特に、討論になると多くなる傾向にあります。ひとつには、口語では、「擬態語」を使えることもあり、「ひらひら」「かさかさ」「ちょくちょく」「じわじわ」「ぴかぴか」など、枚挙に暇が無いほどのすごい副詞の数になり、それらが主軸となる意味を強調するよりは、それらが派手な飛び方やアクセントを持ち、論旨の邪魔立てをすることが多いような気がします。私も多用しますが、「すごい」「ひどく」なども同じでしょう。

「どうしてあなたは、ホームレスが減ったほうがいいと思うのですか?」と訊かれたときに、あなたはどう答えますか?一文を真剣に書いてみて、副詞の数を数えてみるといいです。目的語が2個以上になっている場合にも、語順が不明瞭になっていると、論点がぼやけます。

と、たらたら書いてきて思ったのですが、朝日ジャーナルが廃刊になって以来、日本人は短文に馴らされてきてしまい、明瞭な長文が書けないどころか、読めなくもなっているので、アエラなどの短文の羅列をモデルにしており、長文で自分の文を作ることもできなければ、話すこともできなくなってきているのだろう、というところまでは、想像できます←ほら、私のこの文は長い(爆)。いくつかの文章に区切ってもいいのですが、訓練がされていないと、どこかで論旨や証拠を落とすことになります。その点、英語の文章は語順が明確になっているので、どんなに関係代名詞を連体節や副詞節で繋げても、やはり骨子は前に来るので、論議がしやすいことになるのです。

でも、私はそんな日本語を美しいと骨の髄で感じており、どうしても長文にこだわってしまっているのです。頭のどこかで、「あー、日本語はごちゃごちゃとディベートをするには向かない言語かもしれないなぁ」と思いつつも、どうしても日本人にもいろいろな国の人々と、しっかり論理づけた話ができますように、と強く願ってしまうのです。

ディベートをしている最中に、「そんなこともわからないのか、当たり前のことじゃないか」というのは、大きなルール違反です。当たり前などはないわけで、相手に「コレは白だよね?」と確認しつつやるのが、モデルなのです。相手を小馬鹿にして、「そんなこともわからないなら話にならない」と言い放つのは、もうすでにディベートのマナーに欠けており、論理性の質をわかっておらず、参加資格もないわけです。でもなぁ、現実は政治家ですらそんな暴言を吐く場面を目にするので、私としては、日本の将来を憂慮してしまうのでした。私のひとり推進運動としては、姪っ子たちに、「だってぇ、どうしてもー」と言われても答えとしてみなさない、というのがあります(笑)。それは英語では、”Because because”と呼び、子どもでも幼稚なうちしか使えない手法です(笑)。話している最中に論点がボケてこないように、彼女たちには、ポイント質問をして、論旨を明確にしてもらうよう心がけています。「うん、で、誰と?」「それはいつの話?その前?それとも後?」などと、足りないところがあったことを、彼女たちのプライドを傷つけず、質問をして話をどんどん続けてもらうことにしているのでした。長いあいだ不在だったアメリカのおばちゃんはたいへんです(爆)。

私は、至って自己主張をする傾向が強い人間が好きと来ています。話していてラクなのですね。のらりくらり、「察して」「わかって」「推して知って」「それくらい当たり前でしょ」的に話を進められても、やはりつらい・・・。私と違う意見を持っていても、私にはまったく以って不愉快なことはありません。ひとつを除いては;生命や健康は、たいへんに尊く代わりなどないということ。それだけの大前提さえあれば、どんな違う意見を持っていても、まったく相手に対しての印象が悪くなることはないし、好き嫌いを左右することはありません。姪っ子は3人いますが、誰が好きで誰が嫌いなどというのはないし、3人3様で本当におもしろいぞ、と思っているところです。結論を濁すような話し方をしないレディになってくれるよう、おばちゃんは心から祈っているところです。姉妹ケンカもまったく仲裁しないし、口出しもしないですからね(爆)。