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絵に描いた純粋

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英語の本を1冊でやめておいて、またもや日本語の時代小説に戻った読書体制に入りました。池波正太郎だけでもあと1/3残っており、どんどん読み進めていかねば←なんだよ、義務なのか?(笑)何度も書いていますが、私は1日に1回は今でも必ず泣いており、もう自分のために泣くなどというドラマチックな日々は送っていませんが、他人の人生について、これほど共感できる自分を歓んでいます。哀しいことであれ、悲惨なことであれ、うれしいことであれ、なんだかいっしょになって泣いているような・・・。その中のひとりに、桐野利秋=中村半次郎がいます。

いやー、別に遭ったこともないんだし、彼の気持ちがわかるなんて嘘だろう!と言われてしまえば、はい、それまでよ、なんですが、境遇といい、根性といい、猪突猛進といい、時折見せる無知といい、なんだか似ている(笑)。私はあえて、彼のことを中村半次郎と呼びます。

ひとりで中学・高校・浪人時代に時代小説に凝っていたときには、幕末期でも、勝海舟や坂本竜馬に傾倒していたのですが(自分が浪人だったり、どうも団体に溶け込めなかったり、体制に反発する気持ちが強すぎたため)、ここのところに来て、薩長について詳しくなってきました。時代小説の題材は、やはりNHK大河ドラマと同様、幕末と江戸時代と戦国時代が多いのだ。

そして、何よりその影響をもたらしているのが西さんで、西さんが鹿児島出身であるというのは、私の25歳以降の人生に、大きく作用している気がしてなりません。私は東京出身で、生まれも育ちも調布市で、アクセントもなく、尊敬する地域が生んだ人もなく(強いて言えば近藤勇なんですが、天然理心流の道場は、幕末、調布から都内に移動していたし、舞台は京都の壬生を中心に移ってしまうし・・・)、土着すべき愛着も、そもそも持ち合わせていなかったため、なんだか物理的な土地(地形や水質や田畑やその他)がもたらす何かへの思い入れというのが、それほど強くないのだなぁ、希薄なんだなぁ、というのは、もう10代後半から感じていました。

『ダ埼玉』というのが、確か70年代後半か80年代前半に流行ったと思うのですが、私はそれについて、なーんにも感想がなかった・・・。たまたま生まれたり育ったりした土地に対して、なんで個人がそんなことを言われなければいけないのか?と、至って感情を抜いた冷静な見方しかしておらず、なんだかとても醒めていました。

これに顕れているように、私は父の故郷を強く想う気持ちも大してわからず、母が祖母と共に故郷から追われた気持ちも大してわからず、東京のこの都下のベッドタウンへと発展していく町で、こだわりなく育ってしまったんですねぇ・・・。西さんに会ってびっくりしたのが、誰でもわかるんだけれども、その言葉(爆)。すごい訛りなのだけれども、本人は「標準語、NHKアナウンサー言葉を話している」と強く確信していたらしい・・・。そりゃないよ(爆)。10代後半からアルバイトで放浪癖を少しだけ満喫できるようになった私は、各地の方言について少しだけ体感できるようになっていたのですが、西さんが鹿児島人だというのは、私ごとき素人でもわかった(爆)。彼の言動の基礎になっているのは、鹿児島で、彼の理念や信念やモラルの基礎は、あの土地ならではのものがかなり多い。当然、素直にすべてを飲み込んだわけではなく、幕末の志士に学ぶ、「なんとかせにゃならん」という心もあり、すべてを容認していたわけではありません。

なべて今言えることは、あの土地で生まれ育たなかったら、西さんはああいう西さんではなかったというのは確実です。私にも同じことが言えるのだろうな、と、今は確信していますが、この土地や出自に対しての愛着がないことが、東京で生まれ育ったからゆえにあるというのは、西さんとは作用が逆なのだけれどもね・・・。

さて、中村半次郎。こんな人です。写りの悪い写真が残っているようですが、本当にいい男だったそうだ・・・。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%8D%8A%E6%AC%A1%E9%83%8E ものすごい貧乏に育ち、父親は妹の医療費をまかなうために一時的に公金に手をつけて、返済する前にバレてしまい、島流しに処されて、そのまま一家を支える運命になったのですが、ものすごい体力だったことは、どんな書物を見ても明らか。日の出前にわずか2時間で、狭いながらの自分の家の畑を耕し、日の出時刻に桜島を見るのが好きだったそうです。20歳を過ぎてやっと2度目の島流しから戻ってきた西郷隆盛に邂逅するのですが、それまでは示現流の道場にわずかに通っただけで独学。竹筒を空に投げて、落ちてくるまでに4回、抜刀して竹筒を切って鞘に収めて、の動作ができたそうです。多数の人が見ているので、これは事実なのでしょう。ものすごいことです。

最後には、西南の役を主導してしまい、西郷隆盛に多大な迷惑と汚名を着せることになるのですが、彼のこの純粋さはとてもよくわかる・・・。絵に描いたような純粋なのです。想うだけで涙がちょちょ切れてくるくらいだな。日課であった、日の出頃の桜島は、西郷隆盛と出遭ってからは、桜島=西郷隆盛として、半次郎の胸に刻まれます。私には、この桜島のような山もなければ、錦江湾のような海もなく、西さんはこれを胸に抱いて生きているわけです。そして、ラッキーなことに、風景は様変わりはしたにしろ、残っている。シラス台地も変わったにしろ、確実に残っているし、唐芋(サツマイモ)もちゃんと残っているわけです。

父の汚名を雪ぎ、島津久光の護衛として京に上ったのち、メキメキと出世し、文盲に近かった彼が、1日3時間ほどの睡眠時間で、読み書きもできるようになります。宮様(中川宮)に寵愛されたり、蛤御門の変の段取りの立役者になったり、諜報活動にも参加するようになります。「人斬り半次郎」という異名がありますが、実際のところ斬った人数というのは把握されておらず、推測よりはずっと少なかったのではないか?とされており、その理由のひとつが、明治維新後、西郷隆盛が陸軍大将のときには、半次郎は桐野利秋として陸軍少将にまで登りつめています。あのわずかな時期に、動乱があり、西南戦争にまで発展していくのですが、いつの世も政治は難しい。関わる人間が多ければ多いほど、似た志であっても、願いや目標は同じであっても、わずかだけれども重要な違いをかもし出して、人の血が流れます。

私はアナーキストでもないし、政治に特にものすごい興味があるわけではないですが、西南の役に発展していかねばならなかった心情はよくわかる。ちなみに笑い話になっていますが、西さんの実家には、西郷隆盛と天皇陛下の写真が同位に飾ってあります。おまけに「戦後」というのは、西南戦争を指しているという家もかなりあるようです(今はもうそんなことないんだろうと思うけどねぇ…)。義父は、『翔ぶがごとく』のロケを見て、「なかなかいいねぇ」と歓んでいましたから。『敬天愛人』(天を敬い、人を愛せよ;天道をもって善しとせよ、己の欲や私心をなくし、”利他”の心を持って生きるべし、という意味)という言葉は、トンネルの入り口にも彫ってあり、鹿児島の人々は、きっとこれを知らない人のほうが少ないのでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%8D%97%E6%88%A6%E4%BA%89

祭り上げられてしまった西郷隆盛の悲哀は別として、これだけ西郷隆盛を愛した桐野利秋のまっすぐさに、私はどうも弱い。私も貧乏に育ってひとりで身を立ててきた自負がどこかにあり、彼のようなゼロ以下から始まった人生を絶賛する傾向があることも否めない。

読んだことがなかったら、この絵に描いた純粋さをぜひぜひ読んでみてね♪