考え方の違う人とうまくやっていく

11/19/2007 にアップした文章です。

 

私は何度か書いたように、ベルカーブの端っこに位置することがとても多いので、この「考え方の違う人」はかなり多くなります。軸をいろいろと割ること自体を、人々はそれほどしていないのかもしれませんが、どのような意識で、どのような目的で、どのような動機で、その軸を設けているのかすら、時々わからぬこともある有様・・・。もしも、この軸が「いろいろな考え方があっていいんだ」というのであれば、私は+3以上のZスコアに位置するくらいに認めており、行動を起こす様々なことに関しても、「不可逆性がないものであれば、どんどんやればいい」というほうで、+3以上のZスコアに位置するくらいだろうと思うのです。「取り返しのつかないこと」は、それほどたくさんあるわけではなく、軌道修正を認めない性格の人は最初からやらないほうがいいことが増えてしまいますが、バンバン軌道修正ができる人に関しては、心配すらしないですね・・・。

考え方:(1)思考の傾向。思想。(2)考える方法。思考の順序。
方法:ある目的を達するためのやり方。しかた。手段。

しかも、私は自分のほうが考え方が違うことで、相手に不愉快な思いをさせてはいかん、と思いはするのですが、決して自分の考え方をその場で日和見的に変えたりはしないのです。しかも、黙っていることでお茶を濁すこともしないし(沈黙は嘘だとこの場合は思うんだろうなぁ・・・。だからノーコメントとも言えないくらいなんだろう。体重やら個人情報に過ぎることはノーコメントと言い張るのだけれども、考え方が問題になっているときには、たいてい正直に話しますからねぇ)、かなりはっきり言います。むしろ、その考え方を基盤に相手に捉えられてしまい、そこから何かが積み重なってしまったほうが、後々よっぽど怖いと思うわけです。中学生の恋愛ではないのだから、いまさら、相手に染められたいもクソもなく、やはり自分の考えは相手に伝えることが、最低限のマナーだとも思っているようだ・・・←うん、マナーだ(爆)。

ところが、これすら「考え方が違う」ので、どうも禅問答のような気分にはなってくる・・・。「余計なことは伝えない」という考え方をここで出してくるのはお門違いで、やっぱりコレはその先を左右する大切な岐路に当たるので、私は言うのですが、「私の考え方はそうじゃないの」と言われたら、やっぱりこれは禅問答ちっくである。正解はないだろうからなぁ・・・。なので、私のスタンスはこうです;他人が言わなかったとしても特に気にしない。あとから「何で黙っていたのよっ!」とも私は言わない。自分の行動がもたらす自分の気分については、その本人がイチバン背負うのだろうから、私がヤンヤヤンヤ騒いでも仕方のないことである。なので、「何でも言ってね。私はほとんど何も気にしないから」という真実だけを告げておいて、言ってもらえないのだとしたらば、私の平素の修行が足りないのでしょう。その人にとっては信用に値しないのだ。

そもそも人間がかなり大雑把にできている私は、アメリカに渡って航空学や心理学をやるまでは、「ささやかだけれども重要な違い」について、考えても身勝手な自分周辺だけで物事を測ってきたのだなぁ、と、今ならば素直にゲロできる。日本脱出までの私は、確かに他人と違うところは多かったのだけれども、せっかく見つけた共通点・類似点・相似点すらオシャカにしてしまうくらい、違った考えを前面に出していたバカモノだったわけで・・・。

いやぁ、今もね、電車の中は暑いわけよ。英語の学校の教室内は、生徒さんからのコンセントが取れているんで、特に変人扱いはされていないのだけれども、電車の中でコンセントは取れるわけもなく、私が半袖を着ていたところで、誰も不愉快ではないとは思うのだけれども、10代の私だったらこんなことすら考えることなく、ジャケットは脱いで涼しい顔をしていたと思うわけです。今は、汗をかいてどうしようもなく、翌日の体調のことなどを考えてから、脱ぐほうがいいと判断したら脱ぐ。やっぱり脱ぐんだから同じだろうと言われたら、身も蓋もないんですが(爆)。その代わり、やっぱり脱ぐと電車から降りて、屋外のホームに着くときはさみぃ(寒い)よぉ。でもねぇ、私は子どもの頃から、気温差のせいで風邪を引くと相場が決まっているのだ。暑いところで我慢して汗を大量にかいて、涼んだところで風邪をひくわけです。だったら最初から汗をかかないようにすればよい(爆)。しかも、コートやジャケットを赤の他人の私が脱ごうが着ていようが、誰にも関知されたくないことではある・・・。連れがたまにいるんですが、そういうときのほうが脱げます(学校の生徒さんで同じ方向に帰る人たちはたまに居る)。会話を周囲に聞かせてしまえることができるんで、そのほうが脱げるんだ(爆)。しかも、相手が同意してくれるので(どうも英語を話せるってだけで許せてもらえることが多いと、近頃わかってきた←でも利用はしていない、あしからず。先生とはあまり呼ばないでほしいとお願いは相変わらず続けている・・・)、まぁ、恥をかかせないで済むし・・・。

というか、だんだん、考え方ではなくて、体質の違いになっている(爆)。

たとえば、私だったらやらないけれども、他の人がやっても、私は特に気にしない。それは相手のことを軽く見ているからでもなく、アドバイスするのが面倒だからでもないのです。アドバイスを欲している人にはしますよ。が、他人に相談ごとを持ち込む場合、既に人は自分の答えというものを持っていて、その答え合わせをしに来ていることのほうが多いのです。そうでなければ、真っ白状態で来ると思うのだ。たとえば、世俗的ですが、男の話を持ってくる女ともだちは、もう別れないことは決まっているのに、別れたほうがいいかな?などと訊くのである(笑)。「私だったら別れる」と私が言う前にアノ手コノ手を使って、そりゃまぁ、いろいろ正当化をするわけですよ。軌道修正ができない状態なわけです。だったら、もう少し、本人が気が済むまでトライすればよろし。暴力振るわれるか、生命取られるか、でない限り(これら不可逆性だから)は、私は本人の意志と決断がイチバン大切だと信じるやつなので。特に、「バッカだなぁ・・・」とも思わないのは、彼女には彼女のタイミングがあり、私など当事者でないやつにはわからぬことがたくさんあるのだろう、と推測するから。いや、これが3回以上続いたら、バカだと思いますが(爆)。

こうして私は、考え方が違う人たちともうまくやっていっているつもりでいるのですが、あくまで「つもり」で、みんながお釈迦様くらい掌が大きいから、私は泳がせてもらっているのかもしれない(笑)。

まぁ、我慢していただけない人もいて、相手が「距離を置くことを選択すること」に関して、私は特に何も思わない。さみしく思ってきた時期もあるのですが、それはやはり20代の半ば前にアメリカに行ったことでもわかるように、どこかで腹を括ったようです。が、割と中途半端な腹の括り方だったようで、シリコンバレーでの日本人村では、私はそれほど人間関係をうまく保てなかったかもしれません。私のほうは、考え方が違ってもうまくやっていけると信じているのですが、相手が信じていない場合には、つきあいがそこから発展しないわけです。うん、そうなんだよ(笑)←また再び納得してるし(笑)。

というか、私はそもそも全般的に、人が考えることは多種多様だと決め込んでいるところがあり、マニュアル化や一本化や典型化はしないほうがいいと信じているからこそ、考え方が違う人とうまくやっていけると思っているんだろうなぁ・・・。だから違いのほうに目が行っていた青い頃の自分を、なんだかなつかしく思えたりもする。こんな人は絶対にダメ!という人は、私の側からはけっこう少ないようだけれども、「考え方の違う人とはうまくやっていけないと思っている人」とはうまくはやっていけないのだろうなぁ・・・。そこで既にブロックができてしまっているから、私の歩み寄りは、無為になってしまうんだろうから。

そんなことをまたこうして改めて書いてしまうと、西さん様様なのだ。西さんは本当に考え方が違う私をおもしろく寛大に見ていてくれており、本気で扱ってくれるので、感謝です。読者のみなさんも、相当私とは考え方が違うところがたくさんおありなのだろうけれども、私はたいていの人とうまくやっていけると思うんだけどなぁ・・・。どうでしょうね?

 

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