自殺を考えたことがある?

12/20/2007 にアップした文章です。

どのくらい責任が持てる言葉か自信はないのですが、「自殺を考えたことがない」という人や「挫折を感じたことがない」という人は、私個人は信用しません。経験至上主義者ではない私でも、経験主義は尊いものだと思っており、共感能力がそれに加われば、極端な経験主義に走る可能性もなく、平等などには決して生まれなくとも、ユニークで違いが多くとも、「人の気持ちがわかる能力」というのは、どんな人とでもきっとうまくやっていけると思える希望の星だからです。そのためには、どん底ではなくとも、多少の挫折や「死とはどういうものか?」を沈思した経験くらいはあってほしく、その中で「自殺をしたらどうなるか?」という仮説問題を解いてみたり、本当に自殺したくなるくらいのつらい体験があったりすることも決して恥ずかしいことなどではないと思うわけです。

どうやら、今年は拳銃による自殺が多かったらしい。ガン大国であるアメリカに住んでいた私としては、この「よくはない慣れ」を備えており、ガンを自殺の手段に選ぶ人は、本当に死ぬ気だったのだろうな、と推測してしまう冷たいところがあります。警察官などは、訓練を経ているわけで、その殺傷威力を知っており、当然、死ねるとわかっているからこそ使うわけです。

日本の自殺者の統計>http://www.t-pec.co.jp/mental/2002-08-4.htm 
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私は心理学部在学中に、自殺の細かいことを学んだのですが、それにけっこう近いことを言っているサイトを抜いてみます。ただし、これらを書いている人の意図は別物で、本当に正確なものではないことは、肝に銘じておいてください。
http://en.wikipedia.org/wiki/Suicide_methods 英語

アメリカでは、自殺行為をするのは女性のほう男性より2倍から3倍多いのですが、一般に男性のほうが4倍も成功率が高いと言われており、これは明らかにガンのせいでしょう。日本では、自殺の成功率は10%未満と言われています。が、輸入できる薬の種類や量が増えたことや、ネットでのあからさまな自殺サイトの増加や、経済的理由での自殺者の増加、高齢者人口の増加などを鑑みると、ガンなしでも自殺は劇的に減ることはないのかもしれません。

自殺に関する事実を把握してみたあと、お決まりのように私の話を。私は17歳で躁鬱病と診断されたのですが、それまでよくも自分で生き延びたなぁと、ほとほと感心するのです。友人には17歳までに3人に自殺され、その誘惑はとても大きいものでした。エンドレスに思えるこの不愉快さがいつまで続くのか、つらくてたまらず、いっそ終わってしまったらいいのに、と思うこともしばしばでした。私は他人よりいつも元気で、いつも余計なことをして、いつも先回りをしており、自分では無口のつもりなのに口数が多いと誤解され、動いていないつもりでも動いているとみなされ、それによってトライアル&エラーの数が多いことで怒られ、成功するとやっかまれ、と、それが幼稚園から中学卒業くらいまでの私の疲れ知らずの繰り返しでした。うんと疲れても、私の場合は、躁状態ばかりが強いので、ただ眠るだけ。自分ではひどく落ち込んでいても誰にも気づいてもらえない。すとーんと落ちても、口が利けなかったり、食べられなくなったりするだけで、ひたすらケガをした動物のように休むだけなわけです。子どものことなので、14時間くらい眠る日があっても「遊んで疲れちゃったんだね」で済まされる。10時間眠ったあとでも、普段の口数が多かったり、行動が多かったりすることも含め、「普通よりちょっと元気ないね」とみなされるだけで、病気の範疇だとはみなされず、誰にも気づかれないまま高校生になります。私の読書量は、図書館の司書のお姉さんだけが知っており、母は気づかなかった。たとえ気づいたとしても、彼女にはそれが尋常ではないことはわからなかったかもしれない。

もちろん、私の読書は年齢的には余計なことも与え、世界観の中の「生死の命題」を含みました。そんなときに、中学時代の友人ら3人に自殺され、私も当然自分の自殺を考えたことはあります。精神科医は、「残念ながら大人になっても人生はラクになる、うんと楽しくなるっていう保証はないし、もっとたいへんになる」と言われて、死にたい気持ちは増えました。けれども、医者は言いましたね。「とりかえしがつかないことは、やる前にもっと考えてみたほうがいいんだよ」と。一度死んだら確かに戻ってこられる保証はないんだし、と、死ぬ行為を試みることはなかったです。

今もだいたい1日1冊の本を読んでおり、多い日には4冊ほど読めてしまいます。完全休日の日が必ず週に1日あるし、半休もありますから、年間400から500冊は読んでいるのだろうと思います。小さい頃は、これほどは読めませんでしたが、同級生と比べるとものすごいスピードだったに違いない。そのおかげで、貧乏に育ち、到底大学教育などは望めなかったはずでも、生命力を徒にたくさん生まれ持った私は、生きてきた人たちの軌跡をなぞったりすることで、本で読んだことの内容の模倣をかなり早くからしてきたわけです。高校生の頃から、自分で学費を出し、1年働いてから大学に行き、それもやめて、留学費用を貯めることもできました。自殺だけは、行動に移してはならぬ、といつも決めてきてはいました。

が、私ががんばり続けたのは、余力が残っているときに躁状態から、予兆もなしにすとーんと鬱状態に落ちるハザマで、もしかすると魔が差して、自殺してしまうことがあるかもしれないという恐怖感からです。「くたくた。もうこれ以上がんばれない」と思って眠ることほど、私を安心させることはないのです。時間が来たから眠るという贅沢は、私には若い頃はなかった。心理学を学び、自分なりの行動修正と認知修正をするまでは、私には「自殺しない保証」が得られませんでした。今はまったくのところ、尊厳死以外の自殺は考えていません。不可逆性のことをしでかすことができない人間であることがわかっており、疾病といっしょに生きていくことを覚えたあとは、生きていくのが本当に心からおもしろくなってきています。

私自身は、これを面と向かって誰かに話すことがこれまでできず、もっと子どもの頃にこの違いを話すことができたら、同士や共感者を見つけることもできたかもしれないと、今だから思えるのですね。だから、いじめによる自殺や、減らない日本の自殺に対しても、人間関係のコミュニケーションの質と量について、本当に気になって仕方がないわけです。特に、私も子どもの頃から、誰にも気づいてもらえず、本当に15年くらいは「どうしてだろう?」の答えが得られず、精神科に行くことができたのは、それだけで僥倖です。そのきっかけは、バイクの事故なのですが、記憶の途切れや認知の歪みを自分で「異常だ」と判断できたからなのです。でも、今、こんな大人になって思うのは、ストレスを受け続けてもわからない大人たちがたくさんいて、成人病がこれだけ蔓延して、その我慢を続けている大人たちを見ている子どもたちも、きっと要らない我慢をしているに違いない、ということ。子どもたちを守れる環境を用意したくとも、ひとりでできることが限られており、自殺者の数が減らないことを知らされ、本当に自分のことのように他人のことを考えてあげるゆとりもない。なんだか切ないです。

私ができることは、やはり接触を持てる人々の違いに気づくことくらいですし、楽観できる材料をたくさん提供することくらいなのですが、それなりにがんばっています。昨日も、A4に1000Wordsくらいある英語のリーディングマテリアルを、3時間かけて予習してくる生徒さんに向って、「お願いだからそんなに時間をかけないで」と、勉強の方法を披露しました。しかも2ページあるんだよ・・・(汗)。そんな時間があるならば、家族や友だちと話をしたほうがいい、と。長文読解は訳す必要などないのだと、力説し、その方法を披露したのですが、来週はその成果が顕れるかどうか、あと5日、とても楽しみではあります・・・。

自殺を考えたことがあるときには、それについて話せるほうがいい。昔話として、きっぱりさっぱり話せるようになったほうが、子どもたちや、友だちや同士のためにいいのではないかと思います。もちろん、判断するのはそれぞれの個人ですが・・・。人の気持ちを自分のことのように考えられるゆとり、ぜひぜひ持てるますように♪

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