ブログ

苦しいときの神頼み

カテゴリー:ブログ

09/25/2007 にアップした文章です。

 

ここのところ、地獄のスケジュールをこなしているのですが、身体のほうはいつまで言うことを聞いてくれるのか?という不安は、実はまだありません。実際、土曜日の朝10時から夜8時までのあと、「あと2時間くらいできるな」と思ったくらいです。そもそも、私は英語講師という仕事が好きらしい。ウェイトレスが天職だと思っていたのですが、英語講師はそれを超えるかもしれない・・・。ところが、エッセイを書くという作業には、体力とは別に、もうひとつ、心のゆとりが大切で、こうして1000個近いエッセイ群のお題を眺めてみても、我ながら、「うひー、よくもこんな事どもに興味を傾けてきたなぁ・・・」と感心するわけです。やはり子どもの頃、夏休みや冬休みや春休みを待っていた頃のように、私の普段の生活はぼーっとしており、ゆとりありまくりなのね・・・。

秋が近づいて来ているというのに、私の暑がり症はまったく改善されておらず、人々がカーディガンやらスーツの上下を着ている中、まだ扇子を使ったり、汗を盛大にフェイスタオルで拭いていたり、薄着をしていたりします。気づく人は、きっと不思議に思っているんだろうな・・・。

さて、時間的にキツキツではあるのですが、苦しいときに神頼みをしているかどうか?

どうやら私は、神頼みはしない性質らしいのだ。以前も書いたのですが、お参りをしたときにも、私は感謝をつらつら並べたあと、「こうします」と宣言はするものの、お願いはほぼしない・・・。神様がいたとしたならば、神様にも有言実行をしよう!と思っているらしく、もちろん「助けてもらえるものであれば助けてほしい」とは思っているのだろうけれども、どこかでとても冷静で、ヒトの人口だけで64億人を超えており、動物全般(虫やプランクトンレベルまで入れたら、天文学的数字になると思うの・・・)もいるし、神様もイチイチ頼まれたらたいへんだろう、と、どこかで軽く諦めている(爆)。そのくせ、「もしも見ていたらどうしよう・・・」とも思うので、信号無視や万引きやその他、悪いことはしないのだ。嘘もつかないことにしている。それを続けていたら、もう信号無視をしようというのは、誘惑にもならないし、家を少しだけ早く出ることができないと、むしろ、自分を呪うようになる・・・。ほら、じゃないと走らないといけなくなって、汗がまた出るじゃん(爆)。

頼む:(1)相手に、…してくれ、または…しないでくれと願って、それを相手に伝える。依頼する。(2)どう活動・処理すべきなのか知っている人に処理などを依頼する。(3)(「恃む」とも書く)依存しうるだけの能力がそれにあると信じる。あてにする。(4)信じる。信用する。(5)主人・夫・主君としてよりかかる。(6)よその家を訪れて案内を請う。多く「たのみましょう」「たのもう」の形で感動詞的に用いる。
[可能] たのめる

うーむ、コレをじっくり読むと、私の神様に対する態度というのは、尊大すぎる(笑)。依存しうる能力が神様にあると信じてアテにすることがないのか?ないらしい・・・。神様だってみんなを見ているわけではない、とどうも頭から決めかかっていて、すべてをコントロールしているわけがないだろう、手落ちだってあるだろう、気分やだったりするだろう、と思っているらしいのだ(爆)。

これがどこから来るのかというと、やはり、父の実家が神道だったことがあり、「死んだらみんな神様になれるんだよ」と、聴いたとたん、輝かしい気持ちになったことが最初の、神様スタンダードだったのかもしれないです。そのあと、いろいろな人々を見ていて、「大人なのにダメじゃん。ちっともアテにならないじゃん」などと、何度も何度も落胆したという経験から来ているのかもしれない(爆)。神主をしている叔父ですら、約束したことを忙しさにかまけて忘れることがあったり、そのくせ「神様とみんなを繋げているんだよ」などと言われて、なんとなく夢も希望もなくなったような気がする(笑)。

そのあと、日曜学校に行ったときにも、カトリックだったので新約聖書を読む時間があったのだけれども、どうしても、Jesus Christが十字架に磔にならなければ、人類が救われないという哲学的意味がわからず、とても単純に、「どうしてそんなにパワフルだったのに、磔の刑から逃げ出さなかったのか?」という全能(Omnipotent)への懐疑があったようです。人々のために死ぬことで、そのあとに復活することで、どうして人々が神の目の中で救われるのか?もわからなかった・・・。

小学校4年くらいのときに、シスターたちに「洗礼を受けないか?」と言われたのですが、私は3・4年保留にしていました。なぜならば、キリスト教に帰依しなければ救ってくれないような、狭量な神様であれば、こちらから要らない、と、とても尊大で傲慢だったからです。しかも、ちょっとだけ賢かった私は、選ぶ自由があるのであれば、何も10歳くらいで宗教など選ぶ必要がないではないか、と思っていたこともあり、シスターたちに、「この世にはどれくらいの宗教があるのか?」と、厚顔無恥に質問すらしていたのです。

そういった態度は、そののち、創価学会やその他の新興宗教の誘いなどもぶっちぎり、30歳を過ぎて、宗教学を教養課程で取ることになり、「あー、遅延しておいてよかったなぁ」とつくづく思うようになるわけです。

というわけで、私は苦しいときに神頼みはしません。こういうところが、どうもニホンジンなのかもしれず・・・。けれども、ちょっとニホンジンから離れてくるところは、儀式典礼としても、私は宗教は要らないよ、と思うところかな。まぁ、儀式典礼そのものが要らないという破廉恥なやつで、他人のことをまったく鑑みないと怒られてしまったら、「はい、ごめんなさい」と正座をして高説を拝聴するしかありません。

そんなわけで、私は結婚式もしなければ、指輪も持たず、写真も撮らず、披露宴もせず。だいたい、いつ結婚したのかも憶えておらず(爆)。他のことでは相当、記憶力がいいのですが、興味がまったくないんでしょうね、コレについて・・・。5月だったことだけがわかっており、この前、5月にネコをお迎えに行ったときに、西さんがMarriage Certificateを見つけたので、年度もわかったはずなのですが、すぐに忘れた(爆)。あ、そのCertificateは棄ててしませんのでご安心を。

いろいろなアクションものや戦争モノ、スパイモノなどを読みますが、私はサバイバルしたいと、脳みそや技術を駆使しますが、運やタイミングについては神様に頼むことはしないと思うんですね。雪山にもしも行くようなことがあって(現時点では行かないとは思うんだけれども・・・)遭難したとしても、「捜索隊が早く来ますように」とは願わないだろうと予測します。小さいスケールで、ささやかなことで、いろいろ苦しいときを試されていますが、神頼みしたことはないのです。どうもかわいくない(爆)。

恋にしろ、試験にしろ、タイミングが左右することにしろ、「そんなもん、努力して作戦立ててダメだったら、あとは受け容れるしかないよね」と思っているのである。ベストを尽くしたあとの諦めは早いのだ。ただ、こういう考え方を貫けたほうが、ガン告知をされてからも、予定よりは少し長く生きられるような気もするのね・・・。実際は、個体差があるし、ガンが見つかる時期にもよるし、どこの部位のガンなのか、にもよるのだけれども・・・。

目下の地獄のスケジュールでの苦しいときというのは、電車が間に合わないことや、授業準備をしていないことくらいしかないのだけれども、まぁ、なんとか廻っていて、結果オーライばかりです。神様は見ているかもしれないなぁ、と思うのは、授業準備が間に合わなかったときには、生徒さんのほうから脱線質問が来て盛り上がったり(笑)、本題に入る前の基礎の復習が必要だったりして、なんとなく救われている・・・。電車が間に合わないで遅刻したことはまだ一度もないのだけれども、いつか起きるかもしれない。そんなときは、もう平謝りするしかないので、それだけですね・・・。神様に頼んでもしゃーない・・・。

というわけで、あなたは神頼みで救われたことがありますか?あったら、ぜひぜひ教えてくださいね。