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英才を育てる方法

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07/06/2007 にアップされた文章です。

 

ここのところ、少子化のせいか、ひとりの子どもに掛かる負担があまりにも大きいような気がしてならぬ私なのです。私自身には子どもがおらず、ネコにしろ、だんなにしろ、母にしろ、親戚や友だちにしろ、期待などしていないので、まったく彼らは勝手に伸び伸びと、そりゃぁ、おもしろおかしく暮らしているように見えます。もったいないオバケが出ると信じている母は、今朝も洋裁の先生から10畳敷き分のカーペットをもらってきて、何の因果なのか、ものすごい量の洗剤や柔軟剤を使い、体力を使い、お風呂場で一生懸命洗っていました。そんな時間と労力と水と洗剤を使うくらいの価値がそのカーペットにあり、一体何に使うのか?と、不思議に思ってはいたのですが、「彼女の気が済むならいいわね♪」と流してみた(笑)。

 

英才:すぐれた才能。また、その持ち主。秀才。

英才教育:特にすぐれた知能や才能をもった児童・生徒に対し、その能力を伸ばすために行う特別の教育。

 

私は、自分で自分の英才教育を開始したつもりもなかったのですが、いつの間にか賢いほうの半分に属すほうにはなってしまい(世界人口でまだ埋もれた英才を「潜在英才」と見ると、私はまったく平凡です)、そうなれた理由をいろいろ他人に聞かれる場面が多いのです。そんなときの私の答えは単純;ただ単に先が知りたかったから。

 

私の小さい頃のたったひとつの宝物は、文盲であることから逸脱した時期がかなり早かったということのみ。幼稚園の頃には、もうひらがな・カタカナ・アルファベットが読めていた、ということ以外、英才教育のために親や祖父母が何かをしてくれたという記憶は、ゼロです。ところが、私の生命力や先天的気質などがそのコンビネーションとマッチしたのは、物語を読むと、どうしてもその先が知りたいということだったわけです。校長センセがよくおっしゃる好奇心です。未知ということがどうも我慢ならぬわけです。未知である状態にいる自分は、小さい頃はいつも「お味噌」「お豆」扱いで、たとえば8時だからもう寝なさいだとか、親の言うことを聞けと、怒鳴られたり、決断もさせてもらえなかったり(傘と長靴の色を自分で選べないとかさ・・・)、親の身動きが便利・自由になるように規則正しい生活と同じパターンを強いられたり、と、なんだか理不尽なことをかなり感じたものです。

 

その中で、たったひとつだけ、大いなる希望が持てたことが、「先を知る」というすばらしさ♪まぁ、別の言い方をすれば、余りある時間を持て余しており、そんな贅沢ができることにまったく感謝がなかったのだ(爆)。

 

最近、その存在を知ったので(すごい遅さ・・・)、ちょっと真剣に見ているのが、『菊次郎とさき』というドラマ。本を読むのがベストなのでしょうが、図書館で検索したら、借りられている・・・。奇しくも、私が見たときの室井滋扮する北野さきの言葉が、「貧乏は教育がないからいい職につけない。いい職につけないから貧乏・・・」というサイクルを、果ては家族全員で大合唱するくらいの場面から見ちゃったのですよ。たまたまZappingをしていた午後だったのですが・・・。

 

私も長いアメリカ生活で感じたことがたくさんあり、どんな社会問題でも、このSocial Ladder(社会的階層の階段)というのは存在し、それが因果深いサイクル(環)になっていることは感じてきましたし、実際の社会学や心理学の学界論文にも大いに結果として出ていることです。

 

ところが、アメリカには、「アメリカンドリーム」というステキな言葉があり、外国人、特に移民の勢いで腰を落ち着けた人々はそのサイクルをぶち破ることができてしまうことが、たまにあったりするわけです。

 

両親がそもそもLearned helplessness(学習してしまった無力感)をいくばくか以上に感じており、一生懸命働いていても、生活は大してよくならない、と諦めてしまっているところがあり、子どもたちにせめて教育を受けさせてやりたくとも、家賃が高い=学区のいい地域、には引越しをすることはままならない。Ghetto(貧民屈)まで行かずとも、基準以下の公共や福祉サービスを提供できる市町村や郡も確かに実在しており、そこに留まっている限りにおいては、Controllabilityがない子どもたちは、自らスキルをつけていくことはなかなかできないわけです。ところが、その学区が基準以下の地域に住んでいても、赴任してくる先生たちが熱心であれば、奨学金などを探してくれるようなチャンスはあるのですが、神童クラスでなければそれも実現しない・・・(少なくとも、北野家の兄弟たちは秀才ではあっても神童クラスではないと私はみなしています)。

 

私がラッキーだったのは、たとえ都下といえども、ベッドタウンに住んでおり、回りが平均以上に裕福な家庭が多かったことや、のんびりした自然を家族に、という家長である夫や父が理想像となった戦後の経済成長が持ち家を可能にしたことです。図書館はソコソコ充実していましたし、学校の授業もそれほど悪くはなかった。私の両親は私には勉強をしろとは言わず、中学を出たときに就職させないでくれと頼んだときに、彼らが納得したのも、東京に住んでいたことがよく作用しました。「イマドキ高校くらいは出ておかないと」という一億中流意識を持つようになったせいです。大学に進学しようとしたときにはちと揉めたのですが、学費を自分で出し、生活費を入れるという条件で叶いました。私は当時、英才ではなかったので、奨学金の道もなければ、ポルノや水商売をやろうという豪胆さも持たず、コツコツ働いたわけです。

 

けれども、やっぱり早期教育や英才教育に反対なのは、何をするにせよ、本人の意志・動機が何よりも大切だから、というのが理由です。コノ前は、授業が終わってから生徒さんたちとお茶をしたのですが、60代だって英語の3ヶ月の成果はすごい。「苦労をしてきたあと、自分の時間を持てて、毎日書くジャーナルが楽しくなってきた」などと言われると、たいへんにうれしいです。

 

How to 本が多い中、英才教育についての本がかなりたくさんあります。あれを読んで実践できるかどうか?がまず相当に怪しいじゃーないですか(笑)。そもそも読者側の日本語読解力に疑問ありありです。

 

私が考える英才教育というのは、便利すぎて人間が手を使ってやらなくてもいい発育・発達が、現代の世にはたくさんありすぎるので、その抜かしてスキップしてきてしまったことを取り戻すこと、から始めるのがいいのだと思うのです。たとえば、校長センセが書いてくださった鉛筆削り。危険を伴う器具がひとつマスターできれば、次のものをマスターする時間は短縮できます。球技をひとつだとか、ダンスをちょっとだとか、義務教育は紹介レベルだけで、その紹介の入門をマスターするのが必須なのでしょう。たとえば九九。びっくりしちゃうのが、九九を言えない人って実在するのね・・・。そんな人たちがホームレスでもなく暮らしていること、むしろ額に汗して暮らしている人々よりラクに暮らしていることが、私にはある意味冒涜のように思えてしまうのです(つい最近、TVのクイズ番組で見たんだよね・・・)。

 

あとは、リサーチをする能力を身につけること。「先を知るツールを持っている」ということです。小説ならば先を読む速読力(別に速くなくてもいいか・・・)や根気や漢字能力等。読めないときにはどうするか。意味がわからないときにはどうするか。誰に聞いてもわからないときにはどこに聞けばいいのか。こんなに便利なネットでどのように調べればいいのか。などなど。

 

それさえ身につけておけば、あとは潜在英才を引き出すのは、かなり簡単になってくると思えます。むしろ、新しい習い事や塾などに行かせて、リズムある暮らしや健康を損ねるほうが、絶対的必須に近いスキルを育てなくすることに貢献してしまうのでしょう。悩んだり忙しかったり自分が持てない状態で、「先を知りたい」という好奇心が魂を引っ張るわけもなく・・・。

 

ということで、今晩はリアルタイムで『菊次郎とさき』が見られるので、ちょっとうれしいです♪私もあれに10年+したくらいの生活をしたのですが、武少年のナレーターである「この時代に生まれて育ってよかった。この両親に生まれてきてよかったと感謝した」という気持ち、涙が出ました。自分で自分を天才にした武少年は、もらったものをすべて生かすようにする心を持てる人間だったのですね。誰かの言うとおりにならない人間を育てるのって、けっこう楽しいと思うんだけど、どうでしょう?(ちょっと自己防衛・・・汗)