ブログ

裁判員制度さらにふたたび

カテゴリー:ブログ

07/03/2007 06:00:00にアップした文章です。

 

 

昨日、裁判員制度について、学術協力研究をしている大学の先生に会い、興味深い話を聞いたので、書いておくことにします。私も小賢しいやつなので、いろいろ意見を言ったのですが、やはり現場にいないので、どう考えても私は詳細はわかっていないことでしょう。社会科学が科学として認められないことが、日本の体質の果敢なさで、(儚いという漢字を使っていたのですが、この場合にはこちらの漢字ほうがいいのだと、京極夏彦に教えられたところです・・・。果敢=思い切って物事を行うさま。決断力の強いさま。がないことなわけです)、どうやらあくまで社会科学は科学ではないらしい。人文なのだね・・・。

裁判員制度が破綻するという見方をしているサイト:
http://cgi.members.interq.or.jp/enka/svkoya/blog/enka/archives/2007_6_29_655.html
http://t-m-lawyer.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_309d.html
http://www.satokenichiro.com/asubisaiban.htm
http://q.hatena.ne.jp/1119307805

賛成のサイト:
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/7009/mg0202-1.htm
http://blog.livedoor.jp/izumix22/archives/50919709.html うーん、微妙だけど。

あ、あまりためになるようなまとまったことが書いてあるサイトが見つからない・・・。ということは、みんな模索中だったり、系統化できていない意見のほうが多いということなのか?そうらしい・・・。

まず論点のひとつは、陪審員制度というアメリカのシステムが日本に合わないというもの。これには思慮の深い意見もあるのだけれども、かなり軽い気持ちで、相当にフィーリングで言っている人たちが多いのは確か。なぜならば、日本のこの文化的偏りという、独特ではあるが予測できる風潮が証拠そのものであるから、人々は苦慮したり、思慮したり、沈思して行動していないことがいかに多いのか?の答えになっているわけです。何であれ、二元性のもの、二者択一の選択には、白黒がつかないものが多いのだけれども、白黒つけなければならないことがある。それは、大人であればかなり体験していることであり、それについて責任を取り続けていると思うのです。そう願うよ・・・。裁判員制度が日本に合うか合わないか、やってみて蓋を開いてもいないところで、ネガティブなことだけを並べ立てる人々というのは、リスク換算をきちんとしているのかどうか、ちょっとダウト・・・。

もうひとつ、この制度を導入している政治的動きを踏まえてみると、これだけ憲法改正や公務員制度や教育問題、社会保険庁等のドラスティックな法改正をたくさん展開していることで、確かに、これひとつ取れば、「怒涛の中でうやむやに突進してしまえ!」という目論見が見えないわけでもない・・・。

が、私は思うのです。古きよき時代など、きっとなかったのだろうと。有史以来、みんなが倖せだった時代などはありえないし、西郷隆盛がいみじくも残した通り、「新しい時代は焦土の中からしか生まれない」というのは真理かもしれない。まぁ、真理でないにしろ、やりやすいことは確かです。なので、それを考えて、裁判員制度で、一度ダメ出しの徹底をやるのもまたいいのかと、私などは他人事ではなく考えています。欧米諸国との文化との遭遇から150年ほどのあいだ、試行錯誤をしてきましたが、抜本的に見直し、アジア諸国との関係も解決する糸口を掴むためにも、私は、焦土化というダメ出し満載を望んでもいたりします。もちろん、うまく行くことに越したことはないのだけれども・・・。

なぜならば、日本は長いあいだ、インテリゲンチャの人々に言われ続けてきたわけです;資本主義の仮面を被った社会主義国家だと。それは、文化心理学でいうところの、全体主義と個人主義のせめぎあいの中、形式的には個人主義に概ね賛成して仮面を被ってはみたものの、実際の内容としてはのらりくらりと社会主義を貫き傾倒してきたに他ならないのかもしれず、一度、行くところまで行くというのもありなのかと思えるわけです。

さて、裁判員制度で最も危惧されていることは何なのか、私個人はあまりにサイトが多くて、統計が取れなかったのですが、先生の談によるといくつかあり、デモの段階では、みんな至極まともな意見を交し合うというもの。ところが、本番でそれだけの討議を期待できるのか、まったくアテにならない状態だということなわけです。しかも、「多くの日本人は他人を裁きたくない」と伺ったのですが、私個人は、それは違うと思うのですね。「匿名であれば他人をバンバン裁く」し、「全員一致に近い多数決であれば他人をバンバン裁く」のですよ。この匿名性というものは、大きな効果があり、自己責任というバカげた単語にも表象されるように、責任を取りたくないという消極的な日常の態度を表しています。井戸端会議や川での洗濯会議は、日本やイタリアだけの特有のものではなく、世界中のどんな主婦たちも家事を共同エリアでやっていたときにゴシップを続けてきました。自然が厳しすぎるところ以外はすべて当てはまる現象です。男も同様で、サウナやビジネスディナーや接待、スポーツ観戦やメンズクラブなどで、ゴシップはずっと続けてきたわけです。そうした、匿名性のものや、限定される可能性が少ないものであれば、人々は積極的なわけです。

私は、たとえひとりでも、自分の名前を新聞にでっかく書かれようとも、後日、それが冤罪になることが図らずもあるかもしれないにせよ、裁判員制度には賛成ですし、実際の決議で1対11に票が割れても、自分がとことん考えたことは譲らずに、Hang Jury(評決に届かない陪審員グループ)になってもかまわないと思っています。人を影響したいとは微塵も思いませんが、私と違う意見の人たちの論理が通っていなければ、その通らぬことを伝えるつもりでいます。

私は楽天的なので、同胞に間違って裁かれることがあっても、英知もかたや信じており、科学捜査などももっと進むと予測しているので、自分が冤罪に落とされたときのことにも、100%ドアが閉じられたとは思わないでいられると考えています。そのためにたくさんのハリウッド映画を見てきたのだし(笑)>逃亡者(Harrison Ford, Tommy Lee Jones。逃げられると思った?しかも実話のドキュメンタリーもたくさん見ていますしね。

そもそも、中国圏での人命の値段が低いと日本人は悪口を言いますが、アメリカに比べたら日本だって、人間の命の値段は低すぎるよっ!知的財産の値段も低いし、名誉の値段も低い。それに関しても、有罪無罪やその刑期に関しても、専門家の判例に拠った判決だけではなく、自分の意見が反映されるかもしれないことに、どうして躊躇できるもんですか。

優しい日本人がしっかり判決できず、再犯可能性の高い若年層を軽く見積もり、すぐに再犯が起こることを危惧する動きもあるようです。そのためには、同時に、更正プログラムをしっかりせねばならず、手をつけるところはたくさんあるんだよね・・・。

やっぱりやることが山積なので、一度焦土化したほうがいいのかもしれないのかなぁ・・・。いや、できるところまではがんばろうよ、と、同胞に声を掛けたい私なのです。また広島・長崎原爆投下について、大臣が不思議な発言をしたようですが、本当に祖国に愛を持てない状態にしないでほしいですな。かと言って、私は政治家になんて、1000億円積まれてもなりませんが・・・。