言葉と真意

11/24/2007 06:00:00

英語を教えているのを生業にしてお代をいただいていて今思うのは、けっこうみんな言葉を「濫用」しているんだなぁということ。それには、日本語が言語的にHigh Contextであり、多数の人々とシェアできてしまうという側面を持っているからなのですが、ひとりひとりの言葉に表された真意というのは、伝言ゲームのようにずれていき、いつしかまったく明後日の方向を向いていることも多いんだろうな、などと、つくづく感じているところです。特にすべてを厳密に表現する必要を必要としないことが、日本という小さな国に生まれ育ち暮らしているよさでもありますが、外部の人々との接触においてはその長所が欠点になっていく・・・。さらに、そもそも真意を持たない場合も多かったりすることが、私には少し不気味でもあるのです。

言葉:(1)人の発する音声のまとまりで、その社会に認められた意味を持っているもの。感情や思想が、音声または文字によって表現されたもの。言語。(2)ものの言い方。ことばづかい。(3)言語を文字に書き表したもの。文字。(4)語彙(ごい)。単語。(5)謡物・語り物の中で、節をつけない部分。《詞》(6)和歌に対して、散文で書かれた部分。また、和歌の詞書(ことばがき)。絵巻物の詞書。(7)意味。理性。ロゴス。(8)(「てにをは」に対して)体言・用言などの総称。詞(し)。(9)語気。ものの言いぶり。(10)ことばのあや。たとえごと。

真意:(1)まことの心。本当の気持ち。(2)本当の意味。

私がこうして手間が掛かっても、辞書による意味をここにいっしょに載せる癖をつけているのは、私が頭の中で構築するプロセスや意味を、なるべく記号として表すことができたら、との願いをこめて。ひとつの語彙であっても、ズレが生じていれば、読後の齟齬は末広がりになっていくのを危惧して。英語は語彙が多く、場面や意味により使う単語を選ばねばならぬことも多いので、なんとなく繊細になっているのかもしれず。

そもそも、人が頭や心にある考えや感情を100%に近く表象できるとは、私は毛頭考えておらず、私は「言い切れた!」と感じたことは、人生の中でいまだかつて一度もありません。これを諦観と呼ぶのか、前提としてさらにまめまめしく言葉を選んでいくための己の標榜とするのかは、またもや個人の選択です。私は後者でありたいと考えており、その考えの根底には、「ヒトの脳は宇宙と同じくらいの複雑さや未知を内包しており、それを簡単に表象できてしまえるわけもない」という希望にも満ちているわけです。

伝言ゲームのときの結末は、和気藹々になり、ぎゃはははは!とおかしいだけで済むんですが、これが日々の仕事の能率や学習に影響してくることは確かだろうな、と、会社勤めをまともにしたことのない私は、学業については強く思いますね。それに、他人の気持ちがわかったような気になっている人々や事件や物事をわかった気になって話している人々を見るのも、私からはたいへんに歪んで見えます。「本人に聞いてみたのかよ?」とよく思うんですが、ここは私が当事者でない限りは、なるべく神経質に気にしないようにしています。しかし、これに慣れてしまうと、自分もそんなことを次から次へとしてしまうような危うい環境に身を置くことになるので、よくよく考えてみるトライアルはいつもしてみるし、本人に直接聞く努力というのは怠らないようにしているし、情報が集まらない段階で何かを思い込むということも極力避けています。

日本語の美辞麗句や決まり文句になっている挨拶などは、美しいです。が、それは日本人の内々でのことで、やはり英語でのメールにあれを翻訳したものをつけるのは邪魔でしかないのですが、そういう認識がなければ、やはりこの日本のどこかで、外資系にお勤めだったり、海外業務担当だったりする方々は、きっとアレらを翻訳しているんだろうな、と。生徒さんにもよく聞かれる質問があり、彼らの救われるのは「どの程度」という質問で、季節の挨拶やその他は、「人としての関係はあくまで獲得していくものであり、メインはビジネス」という主旨を伝えています。私は、合理的に過ぎる人間のようで、日本の会社の日本人から来たメールでも、挨拶は「ありがとうございます」「よろしくお願いいたします」くらいしかくっつけず、しかも思っていないときには書きませんね。言質と取られることが後々あったら面倒だから←すごい徹底ぶりなんですが・・・(笑)。人間関係は、無条件にくっついてくるものでもなく、仕事以上のおつきあいがしたいのであれば、証拠の残るメールでやるのはいかがなものかと思うし、仕事時間中にやるものでもなく・・・、と私はかなり体制に洗脳されているかのように誤解されがちですが、実際はそれほど構築を重ねていきたい人間関係というのは、実際に出会ったときに結ぶ、ということに決めているのです。海外とのやりとりはなおさらでしょう。

仕事場でもらうメモやプレゼンやメールは、まずは「必要最低限」にするのがマナーというもので、それに枝葉をどんどんつけた形で表すのが最良の方法でしょう。小学校の教科書などもそういう方式になっているはず・・・←なっていなかったら怖いんだけれどもどうなのかしらね・・・(汗)。そもそも、第一目的である営利団体の一員であるゆえに、人の顔色よりは目の前にある仕事の課題をクリアにすることのほうが重要なので、簡素化して物事を混沌とさせないほうがいいわけです。そのためにもメールはできたわけで・・・。物理的な量が増えてしまうがゆえに、美辞麗句や挨拶は省略しても許される環境づくりをしたインターネットについては、ポルノサイトや買い物の便利さだけでなく、この点もぜひぜひ評価してあげてほしいものです。

歳を取ったから、という理由ではなく、私は2チャンネル言葉を始め、短縮日本語やカタカナ英語がたいへんに苦手です。私の空白の在米期間がそうさせているところが最も多いのでしょう。しかし、鑑みるに、私は10代の頃から言葉については選ぶ傾向をたくさん持っていたようです。真意をなるべく伝えたいと努力することには怠らない態度を持っていたのは、今と同様一貫しています。文字が読めるようになって、ずっと読書をしてきたことが支えになっており、滞米中も日本語の本は本当にありがたく思って読んでいましたので、私の日本語は1988年+ちょっとだけの進化しか遂げていないようです。あ、そのあと行ったり来たりしていた頃の2年間や、帰国してからの1年も足されることにはなりますが、知識として持っていることと、自分の語彙として使えるようになることとは格差があるようです。

ええ、私はコラボだとかセレブ・リストラとなどという言葉は不正確なので使えませんね・・・。英語の意味とかけ離れた意味や場面で使われており、不正確な意味なので使えないのです。

チューボーと半角のカタカナで書く言葉が、幼稚な・幼い・中学生レベルの、という意味であることは、もう6・7年前にわかったのですが、それも私は使えないですし、援助交際の略である「援交」という言葉も使えない・・・。私はあれらを売春以外の概念で捉えておらず、何が新しい語彙を受ける要因なのかわかっていないようです。なので、知識としては持っているけれども、自分で積極的に取り込み、外に表現するときに使えていないです。私の真意とはかけ離れる語彙群だとみなしているということですね。

相変わらず、時代遅れな構造のまま生き抜こうとしていることが、またも露見してしまいましたが、まぁ、いいんじゃないかと思っています。会話が通じない日本人の相手には、まだ出会っていませんが、それは私の行動範囲も狭いからなのでしょう。特に、自分を押し殺さねばならぬようなところに進出拡張するつもりもないので、きっとこの態度は続くのであろうと思われます。

自分の真意が伝わらない言葉をいくら語彙として持っていても、使わないのですから、知識として聞けばわかったり、わからないときに聞けたりすればいいのではないかという態度は、英語がまったくわからなかった時期に身についたもののようです。そうやって、自分で「この場面で使えるか使えないか」「この人に使えるか使えないか」「これは意味として正しいか正しくないか」と格闘するという面では、母国語強化が大切だなぁとつくづく思うわけです。

ここのところ、京極夏彦読破のノルマ(どうやら読書ではノルマは次々と作れるらしいんだが、他のことではてんでダメ・・・)を着々とこなしており、今週は月曜から金曜日で、2000ページほど読破しました。やっぱり母国語は速くていいねぇ・・・。英語だったらこの半分だろうな、と思います。いや、もうちょっと行っていてほしいのだけれども・・・。真意が伝わる努力は京極夏彦からはひしと伝わってきています。


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