課題を考えてステップを踏む

03/08/2008 にアップした文章です。

 

私はダンスがそれほどできるわけでもないのに、ステップを踏むというメタファーがやたらと好きだなぁ(笑)。ゆとりがあれば、ダンス教室だって行きたくないわけではないのですが、ゆとりは今のところはない・・・。いや、仕事をしていてゆとりがそれほどたくさんあってはいかん、とも思っているのかもしれず・・・。課題というこの言葉はあまりに堅いのですが、英語ではTaskといい、軍隊の目標ターゲットから、宿題まで、幅広く使われています。なので、私もついつい日本語でも、「課題」と使ってしまうことが多いのですが、これは最もしてはいけない翻訳ではないかとも思いつつ・・・(汗)。この漢字から想像できるのは、ある範囲(課・チャプター・部署など)のテーマなのです。なので、個人がどこからどこまでを範囲にするのかは、至って自由な気がするので、堅く考えなくてもいいんじゃないかとも思う・・・。

 

課題:(1)仕事や勉強の問題や題目。(2)解決しなければならない問題。

 

うん、やっぱりTaskでいいんだな・・・。翻訳の仕事が入っているので、まず日々のスケジュールの次に優先順位が高い課題は、翻訳の締め切りに間に合わせて納品することです。ダブルスペースで13枚しかないので、余計にやる気がフツフツと湧いてきておらずいけません・・・。

 

私は家を出る直前にシャワーを浴びるのですが、その理由は、喫煙者なので、髪がタバコくさいから、という単純なもの。禁煙に成功したら長い時間をかけない限り、この習慣は改まることはないとは思います。母などは、どんな基準でお風呂の時間を決めているのか、まったくわからず・・・。足湯をするときもあれば、半身浴のときもあれば、しっかりあったまるときもあれば、シャワーのときもあり、絨毯や毛布を洗ったついでにお風呂に入ることもあり、彼女には「一貫した法則性」を同居している私ですら、見出すことがあまりできず・・・。が、彼女は彼女なりの法則性があるんだろうから、あまり気にしないことでうまくやっています。

 

こう考えると、生きていくということは、平凡な日常ですら、「解決しなければならない問題」を山積にされて、それをひとつひとつこなして=生きるってことに思えるなぁ、ということ。やることがない人というのは、きっとあまりいないに違いなく、「歯が汚い」→歯磨きしなくちゃ、と感じないためには、何も食べないことや、口を開けて息をしないだったり、喫煙はダメだし、飲み物も水一辺倒でなければならず、やっぱりこなしていかねば、次には進めないのである。

 

ここのところに来て、私は受験生を無事に合格させたのち、やっと「成果が出る教え方」というのを、強くつよく意識するようになったことがわかります。それまで不真面目にやってきたわけではないし、ちゃんとTOEFLであれ、TOEICであれ、英検であれ、それなりの結果を出してきたのです。まぁ、主にがんばったのは私ではなく、生徒さんですけども、彼らが知らなかったノウハウや心持や勉強方法やら、論理などを教えてきたのですが、それを体系化していなかったことに対して、この頃、猛烈に反省をしているところなのだ。

 

大枚を叩いてレッスンを受けてくれている生徒さんには、大きな声で言ってはいかんのですが、私は授業準備というものを、細かくしないのです。グループレッスンでは、教材がしっかりあって、その内容に大きくそぐわなければいいので、たとえば「関係代名詞」であれば、中学・高校でやったことのレベルに合わせてから始めていくので、そもそも細かくやっていると、ロスが途轍もなく多くなるわけです。文法的に押さえておけばいい基本の基本を書き出しておくだけで、あとは、やりとりの中で広げる範囲を決めていきます。あまりに「ここまで網羅」と広げすぎたり、例題までを考えておくと、生徒さんたちが不自由だし、記憶や学習のメカニズムと矛盾したものになるからです。

 

ところが、基本中の基本を、どうしてこれまでその場だけで披露して、書き出して体系化してこなかったのか?と、生徒数が増えてきた中思うわけです。ある人には耳寄り情報を披露しておいて、ある人にはしていないという杜撰さ・・・。現場処理もいいこともありますが、悪いことは多い。

 

しかも、私はその場で生徒さんに教えてもらう思いつきというのもたくさんあり、それをどうしてイチイチ書き留めておかぬのか?と無念でなりませぬ。だいたいのことは記憶できるのですが、体系化することはマッピングの基本なのだ。そうすると、私を指名してくる生徒さんが増えるという図式になるわけです。いや、もう充分なんですが、たまに期末テスト前で4コマ空いたりするときに、新規の生徒さんを増やすという色気くらいあってもいいんじゃないかと・・・。

 

そうなんですよ。今の私にはこれが課題。

 

いろいろ思い出すのは、朝の小学校の通学路。どうしてあんなにも自分に課題を作れたものなのだろうか・・・と。暇だからなんでしょうが、頭の中に浮かぶのは、今日の課題ばかり。勉強に関してはひとつもないところが、私が私である由縁なんですが、ドッヂボールで球をどうやってスピンさせるか、だとか、大車輪を誰にも見られないあの時間にどうやって組み立てて練習するか、だとか、ひまわりの種をどうやって拾うか、だとか、水着を着替えるときに最短記録を作るだとか、本当にくだらないことばかりなのですが、私はそれぞれの課題を、できるまでやってきたからこそ、私になれたんだなぁと、いまさらながら実感するわけです。

 

どうして課題を途中で投げ出さなかったか?これですよねぇ・・・。

 

あまりに達成できるものばかりを選んでいたとも思えず、かと言って、それほど簡単なものばかりを見繕っていたとも思えず、あくまで結果論から言えば、今の自分の才能や実力よりは、一回りか二回りのものをステップ方式で何段階も上を見据えて作っていた課題だったということ。

 

図書館の子ども部門の本を制覇したときもそうですが、まずは著者から始めていき、その次に棚の段になり、棚全体になり、角になり、どんどんとアイルが進んでいき、いつしか気づいたら終わっていた、ということになる。このステップ方式はとても有効なのだけれども、それをどうしてか子どもの頃にあれほど習って学んだはずではあるのに、大人になってから、それを効率よく組み立ててやろうとしないのはなぜなのか?

 

そういう意味では、私はとても素直なやつなのかもしれず、4月から始まる講座でも模範的な日曜学生になるのではないかと思っているのです。自分の好きな文房具をすでに揃え始めており、どうしてこんなに楽しいのか、自分でもよくわからず(笑)。教科書が来たら、どんなふうに使うんだったか、すぐに思い出すに違いなく、名前を書くのも忘れないに違いなく・・・(ここで私は旧姓を書くんですが、それは気にしない・・・)。

 

こんな私が西さんがフルマラソンができるやつだから、私にも耐えてくれるだろう、と考えたのは、本当にすばらしい理屈だったと思うのです。私ですら、それなりにこらえ性があるはずで、課題を次々に昇華したはずなのですが、西さんはもっとこらえ性がある(爆)。彼と初めて出逢ったのが、1988年の12月ですから、そろそろ20年になろうとしていますが、ちっとも飽きませんねぇ。別居時間が長すぎるからなのか、それともおもしろいことがそれなりにたくさん詰まってきたからなのか。両方なのでしょうが・・・。

 

そして、私は翻訳をやらねばならぬステップを、しっかり考えつつ、今日の仕事を消化してきます。

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