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議論の動機

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08/20/2007 にアップした文章です。

 

ここのところ、陽さんと反対意見で書きあい、彼の板にまで訪問して書いているのですが、どうも議論する動機というのが、私の側に希薄でどうしようもない・・・。ついつい面倒な気持ちになってしまい、いけません。失礼千万なことです。10数年前にAOLの掲示板が出来て以来、けっこうな数は書いてきたのですが、昨今、そんな情熱はなく、見ることすらしていない現実です。言いたいことを伝えるには、「受け手に反映する」という部分も大きく、キャッチボールにならないこともあり、書き手の至らなさだけではないことがあります。まぁ、私の場合は、書き手の至らなさがとても多いんですが・・・(汗)。しかも、匿名でいつまでもどこまでも話をしていても、現実に行動に移していなければ、机上の空論になることは間違いなく・・・。せっかく日本に戻ってきたので、行動に移せるチャンスが増えた私としては、ネットで議論している時間よりも、現実に動こうとする動機のほうが強いのかもしれません。

論議:(1)ある事柄について意見を出し合うこと。意見をたたかわせること。《論議》(2)仏教で、問答により教義を説き明かすこと。講論。問答。特に、それが形式化されて法会の一部分となっているもの。(3)(多く「論義」と書く)声明の曲種の一。(2)を形式化して唱え方を定めたもの。(4)(普通「ロンギ」と書く)能で、役(登場人物)と地謡(じうたい)、または役と役が問答のように交互に謡う部分。また、その謡。
動機:(1)人が行動を起こしたり、決意したりする時の直接の(心理的な)原因・きっかけまたは目的。(2)〔英 motive; (ドイツ) Motiv〕(ア)〔心〕 人の行動を決定する意識的・無意識的原因。動因。(イ)〔倫〕 行動を規定する根拠となる目的意識を伴った欲望や衝動。(ウ)〔法〕 犯罪および意思表示・法律行為を行う際の内的原因。原因。(3)モチーフ(2)に同じ。

Debateのように、ルールが定まっているものとは違い、物事への価値観・世界観は、最終的には個人に委ねられるものです。それがわかっているがゆえに、私は論議への情熱がいまひとつボルテージ低の状態なままで、おもしろい遊びとも思えていないし、他人の意見を変えたいという情熱はマイナス値なので、どうも動機希薄なまま、「礼儀として返答」している風が否めない。特に、負けず嫌いの対象が他人であることがないので、あっさり引いてしまう手もあるのだけれども、私は相手が去ったり休憩したりするまで、万事に関して自分からは去らないので、パチンコでもあっさり勝ち逃げができない性質である(笑)←パチンコ台というのは機械が壊れるまで、あるいは撤去されるまで続くものなので、いつ止めるか?は限りなく自分に掛かっているのですが、どこで切れ目とするのかを判断するのは、とても難しい。入れたお金+いくらにして帰るというのを最近励行しているのですが、元金にまで減ることもあり、それ以上取られることもたまにあり・・・(汗)。が、今日は先日の無作法を嗜めるためにも、+3万強で逃げてきました。

今回のことも、陽さんはなぜにこのような同じ傾向である話題に食いつくのか、その真意や彼の性格や世界観を見る参考になるにしろ、私のほうに「自分の住む世界でないもの」に関しての関心が希薄なところがいけませんです。無論、無関心ということではなく、自分がしゃしゃり出て、物事をさらに複雑化させることを畏れているというのが発露なのですが、陽さんは、どうも匿名にしろ、意見はたいへんにいいと思っているご様子。私は、匿名というのは、自分の中では究極的手段なので、誰かが私をネットで検索すれば、自然とこのサイトにたどり着くように工夫をしています。わざわざ知らせることはしないが、身元を隠しているわけでもなく、捜す情熱がある人たちにはちゃんと成果が上がるようにしている、という具合。

責任が伴わない行為を、鼓舞するのは、封建時代にもあり(たとえば目安箱)、本当にいい制度だと思います。が、自認する限りにおいて、弱者ではなく、また弱者でもありたくないので、自分がナニモノなのかをはっきりさせて発言に責任を持ちたいと思っています。間違ったら謝ればいいことですし、糺してくださるありがたい方々もたくさんいます。ただし、それも事情にもより、人にもよるので、強制することでもなく、匿名がいいと思うのであれば、どしどしやればいいことです。ただし、リスクは他人に負わせるものではなく、自分が負うものだという認識は必要です。悪口を言うときなどだけに使う場合には、それがその人の人格となります。

意見を出し合った段階でよしと思ってくださるのが、私としてはイチバン、時間も掛からず、気分も左右されず、ある程度の刺激にもなり、知らないことを知ることができるのですが、長い長いやりとりになると、どうも義務感ばかりが生じてしまい、動機はテンデ下がっているのに、情熱がキープできません。亀田戦のときもそうだったのですが、今回も、なぜか同じスポーツというくくりで、たいへんにうんざりしています。不遜な態度だとは思うんですが、繰り返すのはどうしても自分のためでないと、やる気が目減りするのは否めないのです。ワガママなやつである・・・。

いつも論議の折にくっついてくるのは、インターネットという媒体を使っているがための匿名性であったり、言論の自由であったりします。それについても、私はしつこいほどに、すでに何度も自分のスタンスを書いているのですが、さらに「他人に押し付けるものではないが私の意見である」と書いているのですが、いつも蒸し返すことになります。しかも、陽さんは私には優しいのですが、某所ではたいへんに厳しい方で、罵詈雑言や罵倒に対して、容赦ないのです(笑)。私にもソレが向けられたら・・・仮定形で考えると、どうも暴力被害を受けた気分になり、気分がよくないのは事実です。私にはゼッタイに向けられない!という「もしも」を残さずにノホホンとはしていられないわけで・・・。

一昔前に参加していた掲示板でも、「多数決での排斥」がしょっちゅう起こっていました。陽さんのスタイルがすばらしいのは、決してインターネットでも仲間を持たぬこと。中立の立場にいようとしすぎるような、ひどい正義漢なのかもしれません。ちなみに、西さんもそういう人なので、私は彼に公的に守られてきた、という気分はまったくなく、最後の最後に私がひとりぼっちになってウォンウォン泣いて済まないことになったときに、ようやく助けてくれる感じですか・・・←もうちょい早く出て来いって!?(爆)

校長センセが数日前のコメントに書いてくださったように、私は自分でしか紡げない、既存のアイディアや言動のコンビネーションを組み立てることで、密度の高い時間をたくさん持ちたいと思っています。誰かの正しいや誰かのすばらしいが、私に適応しないことは、すでに自明です。誰か他の人にとっても、多数や正論の正しさやすばらしさが適用されるわけもなく、私は「他人にしたくないことはなるべくしない」ということは意識しています。なので、亀田選手や朝青龍に代表されるような、「大勢の人間からの叱咤や悪口」は、自分もしないことにしているわけです。それを「当然」とも思いたくなく、理という正攻法を使いたくもありません。人が傷つくのを見るのは、私にはやはり自分の身が切られるようにつらいことです。私もやはりそんな立場に追い込まれたことがありますし、誰かを追い込んで死ぬほど後悔したことがありますから。心理学部だったせいもあり、人が人に揉まれてどんなゾンビになるかも見てきています。それでも私に、陽さんと同じ理で、他人を責めるのを認めろというのは、残酷なお話です。

動機がこれほど希薄なので、陽さんが私と論議をして遊んでくださるのも、さぞかし甲斐がないことでしょう、と申し訳ない気分なんですよ。しかも、私は出たり入ったりの仕事で、まともにPCに向ったら、やはり陽さんよりも、自分のために続けているこのエッセイのほうが優先していることはバレバレ(爆)。こうして「友だち甲斐がないよね・・・」とこれまで何人かの方に去られてしまいましたが、なりたくない自分にはやはりなれない。カンベンしてくださいね。