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11/11/2007 にアップした文章です。

 

英語を話すようになって思うのが、距離感や空間に対するセンスが磨かれたなぁと思うこと。いや、もちろん、私は航空学校に行ったこともあり、そもそも生まれ持った距離感や空間センスは悪くはなかったのです。日本のワイドショーで、狭い狭い駐車場に神業の技能でお客様の高級車を停める人を取材していたのですが、なんとなくわかる気がした。私は、日本にいた若い頃は、駐車場に停めるのは得意だった。運動技能なのか?おそらくそんな部分も大きいとは思います。けれども、どこから来るのか?ということをちょっと考えてみる・・・。

距離:(1)二つの物・場所などの空間的な離れ方の大きさ。へだたり。(2)抽象的な事物の間に感じられるへだたり。(3)人と人との間に感じられる心理的なへだたり。
空間:(1)物がなく、あいているところ。(2)上下・四方の広がり。(3)〔space〕(ア)〔哲〕 時間とともに世界を成立させる基本形式。その客観的実在を認める立場(主として唯物論)や、先天的な直観形式とする主観的な解釈(カント)などがある。(イ)〔物〕 物質が存在し、諸現象が生起する場。物質や時間から独立した、無限の容器としてのニュートンの絶対空間(三次元ユークリッド空間)が古典物理学の前提となっていたが、相対性理論では時間を含めた四次元リーマン空間が導入された。(ウ)〔数〕 通常はユークリッド的な三次元空間をいうが、広義には、ある集合でその要素の間もしくはその部分集合の間に一定の数学的構造を考えるとき、その集合をいう。n 次元空間・位相空間など。
感:(1)物事を見たり聞いたりして起こる心の動き。(2)心が強く動かされること。感慨。(3)接尾語的に用いて、…の感じの意を表す。

基準になる位置というものの把握が、そもそもは肝心なのです。自分の実体について、もちろん昨日書いた世界観をぐるぐるといじって、「うげぇ、現実や記憶や存在っていうのは、かなり曖昧じゃん・・・」と思ってしまうと、今の自分には実態があるのか?と疑ってしまうので、ナマミに対しての感謝や量感や体積など、やっぱりぼーっと霞んでしまうのでしょう。私は、生きているということそのものを否定したくもなく、否定する必要もないと考えているので、今、現在、ここに存在していることには、大きな実感があります。でなければ、三次元(上下・左右・前後)をこれほど駆使できているわけがありません。よしんば、浮世のまぼろしでもいいのです。脳の錯覚であっても、私は実感できていますから。その仮想現実の世界であったとしても、その仮想現実なりの法則性にはしっかり乗っています。

さて、私が距離感や空間に対してどうしても気にしてしまうのは、ナマミである自分が「脆いもの」という防衛があるからなのです。車に向って行けば死んでしまうし、暴漢は避けなければ殺されてしまうかもしれない、という仮説あり。心的なものはさらに面倒で、前知識や経験がまったくないところで学習するのと、脳が一旦受け取ってしまった印象や認識というのは、すっかり消して新しい情報をインプットするほうが、作業が倍以上になります。積み重ねの存在である人間にとっては、記憶というのは、よく作用もしますが、悪くも作用するいい例です。PTSDを体験した私には、その面倒さや苦労というのは一入(ひとしお)で、もう二度と、脳に定着してしまうような悲惨な記憶は要らないよ、と思うのです。なので、距離感や空間に対して慎重になってしまいます。余計な人間関係に対して恐れているのか?始める前に資料が充分であれば、そもそも始めない。距離が保てる関係であれば、その距離を保ったまま続ける。その境界線を跨いで侵入してくるようなことがあれば、あっさりと切り捨てる。切り捨てることは面倒ですが、冷酷で厳しい私は、人にNoを言うことはできます。つらいかどうか?は天秤に掛けてみると、もっと物事が面倒になったら、さらに苦労が募るので、そのときのNoは苦にはなりません。自然消滅ができればいいですが、できない場合にはNoは言いますし、そもそも私は自然消滅が好きではないようです。

そうです。距離や空間センスというのは、世界観に繋がっており、自分がどこに位置していて、自分の位置を確保するための大切なツールです。

私は、恋愛の最中であろうとも、ひとりで眠るのが好きです。ネコたちは別なのですが、誰かと同じ布団に眠るというのは、脳の休息にならないのです。ネコたちは眠りが浅く、私を第一優先にしてくれており、いい位置をコロコロと変えてくれるので、彼らがそれでOKであれば、私は休息できるわけです。ここ7年ほどは別居状態ですが、西さんとは大きなベッドにいっしょに眠っていたのですが、時間は別すぎて休息に影響を与える場合には、別々に眠っていました。試験や出張など、イベントが増えると、別ベッドの回数は増えますが、まぁ、永遠でもないのでよかったのです。が、日本の住宅は狭く、布団で眠っているので、今は別々。

電車の混雑が嫌いなのも、衛生観よりも何よりもまず、自衛のための距離空間センスが優先します。痴漢経験が多かった高校時代のことを、どうしても不快に思い出す。肩に掛けているバッグを前に廻して、本を読む体勢を作り、自分の空間を確保します。まぁ、それほど混雑した時間帯に乗らなくて済んでいるのですが、それでも私には1日の中の最も大きな試練です。駅前の混雑も同じで、人や自転車や車が向ってくることには、どうも未だに慣れない。

これらのおかげで、私は前置詞をそう苦労することもなく、英語では学べるようになりました。論理はもちろんあるのですが、感覚的なもので身につくわけです。

距離空間センスが必要なのは、ほとんどの運動がそうです。私は、小さい頃から運動神経はよかった。あんなに遊んでいたのに、何の成果もないんじゃさみしいですしね(笑)。可動性(Mobility)に書きましたが、ヒトは動き始めることで、脳の発達の速度を上げます。ですので、運動をなんらかの形で続けることはかなり大切です。西さんなどは、たいへんな優等生で、彼は雨の日でも走らないと気が済まない。故障があっても、走れないのであれば歩く、といった具合です。運動音痴という人々は、おそらく、成果を見つめており、プロセスを楽しむことができていないからなのでしょう。昨日の自分との差だけを見つめればいいものを、他人と比べてしまうことにより、途中で自分は運動嫌いだとみなしてしまう。

実際は、筋肉がゼロのヒトはおらず、箸を持ち上げるにも、立ち居振る舞いをするにも筋肉は使っており、運動はしているわけです。今よりも一回りか二回りくらいの運動はやったほうがいいです。脳のワイヤリングをしっかり保つためにも大切なことです。その運動により、距離空間センスは磨かれたり、保たれたりします。運動音痴であれば、歩くことができていることから認知すればいいだけのこと。赤ちゃんからここまではとても遠い道のりだったのに、しっかり生き延びてきているわけです。それについての感謝こそあれ、自分を卑下するのはよくないことです。むしろ、可能性を見つめていただけたらと思うのです。

が、たまに見かけますよね・・・。他人の靴を履いて気づかないヒトやコートや上着を着て気づかないヒトって実際にいるんですね・・・。そんなヒトは、距離空間センスが低いです。お気をつけください。運動能力うんぬんだけではなく、「気を使わないだけ」なこともよくあります。忙しすぎたり、休息が充分に取れていない場合には起こりえることかもしれません。私は、一度もそうしたことは経験したことがありませんが、実際に、会社や飲み屋さんやパーティーその他でそういう人は2ダース以上くらい見かけました。びっくりです。

自分が世界のどこに位置しているか?大地を踏みしめているか?を常に意識していることはないですが、意識したときに認知できることは大切です。試しに配偶者やお子さんに、違うお茶碗や靴やスリッパを出してみては?気づけなかったらちと問題あり・・・(笑)。