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いじめ問題報道への疑問点

 10/20/2006 にアップした文章です。

 

いじめの発祥はかなり古いはずであるのに、どうして今になってこのようなクロースアップなのか?と、会う人ごとに質問してみているのだけれども、「なるほど」という答えはいただいていないところです。私が学生のときにもすでにこの問題はあったし、それについて取り組む人々は多かった。社会問題を織り交ぜる事件モノ・ミステリなどの著書を見ても、校内暴力→いじめの構図は取り上げてあり、「いまさら感」を拭えないでいるところです。

いろいろな検索をしてみましたが、「いじめ」で引っかかるサイトは天文学的数字になります。どうやら、「いじめ」という言葉の発祥そのものは、1970年代後半、80年にかかる頃のようです。そもそもは、70年代後半の世相が反映され、http://www.konayami.com/25n/25n050520.html それに影響された若い世代がそのまま文化を日常化したもの、ということなのかもしれません。それまでは、圧倒的な暴力表現だった若い鬱憤が、お笑い(第何次なのかわからず)ブームでの他人を人前で笑いの種の対象として誹謗中傷するだけではなく、逆に「ネクラ・エアカ(根が暗い・明るい)」などに代表されるように、その嫌悪の対象に対しての陰影をつけていくことになります。私の中学までの学校問題は、非行と校内暴力で、職員室に呼び出されることは「体制」に抗っていることとされ、トイレや体育館の裏に呼び出されることは「反体制」に抗っていることとされていました。私はどちらにも呼び出されたことがあります(爆)。どういう主義だったんだろね・・・。嫌悪の対象に陰影をつけるだけではなく、処し方にも陰影をつけ、正々堂々とすること(暴力を正当化するわけではないが、証拠が残りすぎる稚拙なやり方ではある・・・)を放棄し、集団生活の利点をうまく利用して陰湿性に磨きを掛けたのが、「いじめ」のそもそもの発展の仕方だと思われます。

いじめではなく、「村八分」「無視」「寄って集って集中攻撃」は、おそらく江戸時代の寺子屋から存在しました。その後、藩校で受け継がれ、昭和になっても集団が集まる中での文化として、必ずランダムに残っていったはずです。私の学校でも、暴力対象にならぬ子たちはこの「村八分」「無視」、あるいは逆の明るい顕れである「寄って集って集中攻撃」の餌食になりました。そもそもの子どもの持つ先天性や性質や置かれている環境要因(特に家庭)により、この2種の禊(みそぎ)を通過できる子たちは、私の感想では当時5割以上はいたのです。私も校内暴力の禊はクリアしたわけです。ある特定のグループに無視されようが、他のグループでのサバイバルはできたものです。クラス40人中、本人を除く30人全員が「無視」することなどありえなかった。「村八分には積極的に反対派」「マイルドに反対派」「中立派」「マイルドに賛成派」「積極的に賛成派」と、5つくらいの階層に分かれており、自分の意思をそれなりに反映させて、学生生活が送れていたはずでした。が、いつしか「反対派」「賛成派」の単純2派になり、「反対派」になるといじめに遭う憂き目になる。反対派に属せないほどの子どもの集団能力を悪く露見させるような計画性に発展して行ったことは、本当にそこに若い「悪意」を見る気持ちです。逆の明るい現われである「寄って集って集中攻撃」をされる子は、それを乗り越えればクラスの人気者にすらなれました。一発逆転です。忘れ物をする子には、話題が忘れ物になれば必ず振る、運動神経音痴で必ず振る、貧乏や衛生感などで必ず振る、など、物事の質により分けられていたものが、いつしか「どんな物事であっても、捻じ曲げてでも集中攻撃」という傾向になったのは残念なことです。ある一定の挙動ではなく、好き嫌いや容姿や特質ではなく、いつしか「存在の全否定」へと極化していくわけです。

「いじめ」という言葉が発生したのは、言語学的にも「苛める・虐める」を縮めたものなので、この時代(1970年代後半)くらいだと言って安全かと思います。私の体験は、ラッキーだったのかどうか未だにわかりませんが、少なくとも校内暴力からいじめ時代への過渡期だったことが検証できます。少なくとも言えることは、私はどちらにおいても積極的な加害者にはなっておらず、今、それについてほっとしているところです。

さとみちゃんに尋ねてみたところ、彼女の中学校時代は、ネクラでむしろいじめの対象になるかもしれない人物が、大卒で数年しか経っていない女性教諭に暴力を振るっていたという事実を話してくれました。しかも、3人で・・・。そのリーダー格の少年の親御さんも教員で、都立のトップ高校の受験に滑り、滑り止めの私立に行ったが中退したという噂を聞いたのが最後らしいです。さとみちゃんは26歳なので、私とは18年のギャップがあります。すでにいじめ全盛・日常に小・中学校時代を過ごした感があります。

さとみちゃんの返答は、文部科学省が「いじめによる自殺の数」を虚偽に作成していたことで、今クロースアップされているのではないか、ということだったのです。それにしても、そんなアホらしい数値を誰が信じているのか、それを10年近く放置してきた社会全体にも責任はないのか、と私は問いかけたいところです。誰も信じてないよねぇ?←信じていたら問題ありありです。

森村誠一を読み続けているのですが、いじめ問題については各所で出てきます。昔やくざの斬り込み隊長役をしていた組長が、自分の娘が服役中にいじめにより自殺したことをきっかけに、一切のやくざ稼業から足を洗い、出所してからは守衛や倉庫番などをするに至ります。その平和な日常で出会った中学生の少女がいじめに遭っているところを目撃し、彼女を徹底的に守ることから事件に遭遇していく、というストーリーがありました。

あまりに馴れすぎたいじめ問題に、これまで対峙してこなかった大人たちが、社会問題として取り上げるのは遅すぎていないのでしょうか?いろいろな団体がありますが、実際に成果がどのくらい上がっているのか分かりかねます。心理学的・社会学的な研究対象として充分な成果を上げて然るべき歳月が流れています。Self-Esteemと学業成績についてを、いじめ問題と絡めて深い関連性を示し、打開策を提示しようと自負している大学の教授だか、小学校の副教頭がTVに出ていました。うーん、なんだか遅いよ・・・。

しかも、こうした社会生活の中で、ヴィトンやプラダのバッグが流行すれば手に入れる人々、あのダイエットがいいと言えば飛びつく人々、どこの大学や高校に権威があると信奉する人々、グルメレストランに足繁く通い寸評する人々、などなど、集団生活心理に躍らされまくっている大人たちが、子どもたちの「よい手本」になっているとは、私には到底思えないでいるのです。あと1回、マーケティングの授業が残っているのですが、そこでも「ブランド」「権威」「幸福になるための製品」について、私個人は疑問を抱き続けているところです。本当に社会に貢献していることになるのかどうか、どうも不快感を拭えない。

昔むかし、リリアンもやらなかった私。プロ野球カードも集められなかった私。習い事もまともに選べなかった私などなど、今思うによかったほうに作用しており、ここには感謝です。集団が呈する圧力や徹底した冷たさに、私は子どもの頃から曝されてきました。そのせいで、私は集団を頭から信ずることなく、むしろ、どこか柔軟な「正義」や「悪」を考えることができるようになったと思います。確かに文部科学省が「いじめによる自殺」の数字を操作ちっくなことをしたことはよいことではないでしょう。が、それを放置し続けてきた社会の一員であるひとりひとりの罪がやはり微細ながらあることは、ぜひぜひ認めたほうが社会のためになることです。

つい最近、カトちゃん&ケンちゃんをTVでなつかしく見たのですが、あれらも社会に影響する絶大な力を持っていたのだなぁ、と、今日検索をしてつくづく感じたのです。当時でも悪質TVプログラムの汚名を着せられていましたが、心理学101(初期のビギナー用クラス)で、「暴力や悪質TVは子どもに悪影響を及ぼすか?」というディベートをしたことを思い出しました。答えは;1.子どもが生まれ持った先天性による 2.子どもが現在育っている環境要因(複数)による、で、まったく大丈夫な子どももたくさんいます。刑事番組を見て、刑事になりたいと正義感を燃やす子もいれば、同じ番組で犯人に注目し、いかに網の目を潜り抜けるか考え抜く子がいるのと同様です。プロレスにしてもK-1 にしても同じことです。この心は、「自分ではない誰かのせいにして安堵する」という短絡的な社会の一員の無責任さを暴露しているようで、私としては心もとない気分になるわけです。

私は、誰かに染まるだの影響されるだの、という傾向を少なく生まれもち、それを頑固に徹して暮らしていますが、そうでない方々は要注意。いじめもまたひとつの影響力です。

 

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