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するかしないか

12/03/2007 にアップした文章です。

ここのところ、生徒さんと話していて思うのは、「知っている-知らない」も確かに大切なのかもしれないけれども、第一義的に大きな問題じゃないだろう、ということ。それよりも分かれ目は、「する-しない」だろうな、と。なぜならば、ヒトはやはり生命体であり、動物の一部であるとみなせ(動くものはすべて動物と総称してもいいとは思うのだけれども、まぁ、最初に決めた人のおかげで、その後ロボットなどが出るとは思わなかっただろうからな・・・)、私などは「じっとしていろっ!」と命令されたほうが苦痛で、努力しても動いてしまうわけだ・・・。行動的という形容詞があるのだけれども、あれも曖昧だよなぁ・・・などと思っているわけである。

行動:(1)実際に体を動かして、あることを行うこと。実行。おこない。〔行為とはほぼ同義だが、行動は人間の集団や動物のふるまいについても用いられる〕(2)〔心〕〔behavior〕外部から客観的に観察できる、人間や動物の行為や反応。
行動派:理論より行動を重んずる人。行動力のある人。

発達心理学の観点から行くと、可動性(Mobility)が大脳発達への入り口の大きな分かれ目になるのですが、これが行動範囲を大きく広げること。それにより、瑣末な神経の発達や、それぞれの神経部位を関連して繋げる能力が高まるがゆえに、です。この2つ目が大切。チーターは動物の中では最速で、時速110km/hで走れるのですが、いかんせん、正確さは微妙。でもおもしろいので、この一覧表を見てみてね。http://big_game.at.infoseek.co.jp/facts/fact5.html 身近にいる動物ではネコが速いらしい・・・。やっぱりネコ科なのか・・・。でも短距離なんだよねぇ・・・。これらのスピード王は、ひとつの方向に走ることに長けているだけで、たくさんの行動を統合した行動ではないことに注目。ヒトがすごいのは、たくさんの身体的機能を使って、複雑な作業ができるということで、ひとつだけ秀でることを断念し続けてきたわけです。手先の器用さなどがそれですね。

だからぁ・・・、行動という定義の中に、静的なものを入れないのはどうかと思うわけなのよ・・・。反対しますか?たとえば、思考というのは行動の中のひとつじゃないのか?身体を実際に動かしているのだけれども、外から見る限りにおいて判断できるのは、眉間にしわが寄っていたり、声を掛けても気づけなかったり、目を瞑っていたりとか?客観的にはできないだろうか?と、ここも厳密には定義しきれないのだろうな、と思うのです。ある人にはできるが、ある人にはできないかもしれない。読書なども、目は動いており、手はページを括らない限りはわからない。が、頭の中身はパチパチ動いているんですけれどもねぇ・・・。

と、行動というものに対する不明瞭な点をクリアにしておいて、私は静的なものも行動に入れるとしました>もう自分の中では決めたので、反対されてもダメだな(爆)。

そして、今度は実際に、「する-しない」について。身体的に発達できた部位を使う場合、「する-しない」を考えてするかどうか?最初のうちは、「やると決めて意識した上で行動に移さねばできないこと」が多いのは事実。おそらく、呼吸をしたり、睡眠や排泄行為以外、つまり本能として備わっているもの以外は、ほぼすべてのことに関してある程度の学習が必要です。たとえば、睡眠にしろ、規則正しい時間に寝たり起きたりすることは、ある程度の環境から押されるヒントや、思い入れや習慣全体に対する基本的考えなどが必要です。たとえば、子どもであれば、幼稚園の始まり時間だとか、母親(おねむの時間よ、とささやいてくれる人)への愛情だとか、決まったテレビ番組の終わりや始まりなどが学習材料となります。

大人になってからは、この「する-しない」は、個人の決断や環境準備に掛かってくるわけです。「知っている-知らない」よりも大切だと思えるのは、自分が大人になれたということを自覚しているかどうか?が生命力を生んでいる源だということを、体感していさえすれば、「もう1個くらいのちょっと難しい行動を取れるかどうか」は、個人が己を知っていれば選べる。ところが、自分がささやかな存在だと卑下していたり、これまでにできるようになってきたことに対してのヨロコビや感謝が薄い場合には、選べない。ここなんでしょうね、生命力って。さらに延び行く、さらに生き延びる意志が持てるかどうか。

私はこの年齢になっても、まだまだ、母親が偉そげに(いや、実際にえらいことをしてもらい続けてきているんで、それほどの口答えはできないんだけれどもねぇ・・・)、オムツ外しをしたことや、やっと歩けるようになったことや、貧乏で好き嫌いに困ったことや、頭が悪いんだかいいんだかわからなかった対話や、その他、とりとめのないことを、ひたすら思い出させてくれる。ありがたいことなのですが、たまにイライラしているのは、まだまだ私が未熟すぎる証拠なんでしょう。

私とて、ネコたちを見ていると、彼らが生まれたばかりの頃や、生後50日の頃のことを思い出します。それからいっしょに暮らしてきた日々、彼らができるようになったことやしすぎて迷惑なことやその他、特に憎しみがあって思い出すわけでもないので、母だってなつかしかったり、愛情のおかげで言っているのでしょうね。そのあとに来る言葉は、「まだまだ何かできるよ」ということが括弧(  )付で添えられているのがわかるわけです。私も、ネコたちにはそんな気持ちですから。他人なので、それほど押し付けがましくもないし、期待を抱くほどではないにしろ、事実としての肯定、「できるよっ!」というのは、英語の生徒さんたちにも持っている。

だから本当にあとは「する-しない」の「する」を選んでもらえたら、と願うばかりなわけです。生きてき続けたことそのものが、すでに奇跡的なことだと思えるか思えないか。いろいろなことができるようになったことについて畏怖のようなオドロキを感じるか感じないか。そんな気持ちが持てるくらいのゆとりが、日々に持てるか燃えないか。あなたはいかが?

私は、なぜか子どもに人気が高いようで、電車に乗っても、なぜかまったく知らない他人の赤ちゃんが、私の顔をじーっと見るのね・・・。そのたびに感じるのが上記の奇跡的な可能性。この赤ちゃんが私を見る理由は、私の顔の表情のくるくるさ加減なのか、顔の作りがアジア人なのに大雑把なのか、目線の鋭さなのか、何なのか、まだピンポイントはできないんですが、確かです。笑ってもらえるあいだに、上記のようなことを感じるときに、なんだか泣きたいような気持ちにもなるんですな。自分が歩んできた長いながい道のりを振り返ったりもして・・・。

私はじっとしていられないやつなので、とにかく動く。母ほどではないにしろ(笑)。なんだか今も母は何かしているんですが、それには生産性が伴っているのかどうか・・・(苦笑)。いつも何かしており、朝にもう2箇所も医者に行って、ごみも棄てて、朝ごはんも食べて、掃除も済ませて、洋裁の直しもやって、さらに何かをしているんで、ものすごい量はこなしているんだけれども、どうなんだろうね・・・。彼女の場合は、「する-しない」は決断でもなんでもなく、すでに、身体的な考えない領域においての、反応みたいなもんなのでしょう。あ、インフルエンザの予防注射くらいは考えたとは思うけど(爆)>母は毎年、12月初旬に受けて、2月いっぱいまで保たせる作戦を取っています。

とにかく、失敗しても動いたほうがいいだろうとは思うんですよ。身体を動かすのがつらかったら、頭だけでも動かす。どうやってやればいいかわからなかったら、言語を持っている強みで、知っている人に尋ねればよいだけですし。最初の1歩が最もたいへんで、2歩目からは本当に簡単なはずです。このへんは山登りの極意なので、校長センセや西さんがよく知っているんで、何かいい言葉があるに違いない。

私は持病のせいで、起きているあいだじゅう、余分にパチパチ考え続けるしかチョイスがなく、くたくたに疲れて、頭がから揚げ状態になって眠りに就くんですけどね・・・(汗)。とにかく、行動に移せるものは移したほうがいいです。しましょう!

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