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“めーめ コワイよぉ”

 [1999年08月26日(木)]に書いた文章です。

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私は父方・母方共に初孫です。「何でもいちばんが好き」の負けず嫌いのわたくしではありますが、こんなモノには自分の実力が反映されているわけではないんで、イチバンじゃなくてもよかったです。しかも私は旧家である、父の実家にとっては内孫ではなく、しかも女だったのでさぞかし「次は男の子を」という言葉を赤ん坊だった頃に、私に聞こえっこないと思った大人の口からシャワーのように耳に浴びせかけられたことでしょう。

父の父、私の祖父は太平洋戦争に徴兵され、戦地で砲弾の破片が目に入り、疾病退役をしました。そのとき既に右眼は失明しており、1950年頃まで以来6年ほどは、左眼の視力はほぼなかったものの、動くのには人手を借りずに済んでいたようです。

私が生まれたときには既に全盲になっていた祖父は、私の顔をはじめとして、そのあとに続く14人の孫の顔はひとつも見たことがありません。大きなしわの深い手で撫で回して輪郭や目鼻を確かめる儀式がありましたが、そのときに必ず発せられる言葉が “めーめ コワイよぉ” でした。

もちろんそれをいちばん最初に言ったのは私です。

内孫である私よりひとつ年下の従兄弟は一度もそれを言わなかったし、その妹である従姉妹もその言葉は一度も発しませんでした。日常にいる祖父の眼が白膜がかかっていることに、彼らは自然を感じてだけいて、不安や恐怖を感じたことがなかったのでしょう。

私が3歳の夏(10月生まれなのでほぼ4歳になる頃)の写真には古いトランジスタラジオ(すごいでかいですよ、その頃でも骨董品になりつつあった竹箱みたいなやつ)をバックに、祖父の膝に抱かれている私がいます。数枚あるのですが、1枚は泣いています。1枚は祖父の眼を突ついています。そして1枚は笑って高い高いをされています。そのときに写真を撮っていた父と抱いていた祖父が何を私に語り掛けたのかは不明です。しかし、そのあとから私は “めーめ コワイよぉ” を言わなくなったそうです。

幼い私にとって、視力がないことを想像するのは容易ではなかったのですが、小学生のある日弟とふたりで眼を瞑って1日を過ごそうとしたことがあります。「薄めを開けてずるをしてはだめだよ」と日本ふきんできつく目隠しをして、「危ないから家のなかでね」と言う母のいいつけを聞き入れていろいろなことをしました。ごはんを食べ、ラジオを聴き、テレビを見ている人の横でテレビを聴き、着替えたりオフロに入ったり。

たくさんのあざを作り、家のなかのものをたくさん壊し、散らかし放題に散らかしましたが、母は何も文句を言いませんでした。「おじいちゃん、すごいよねぇ」と言う私たちふたりに「そうね、おじいちゃん、ほんとにたいへんなのにがんばってるよね。でもかわいそうじゃないんだよ。おじいちゃんはおじいちゃんにしかできないことがあってすごいでしょ?」と夜に、特別にみつ豆をくれた母はなぜか満足げでした。

神主という仕事柄、祖父は万葉集や日本書紀をほぼ完全に記憶していてそらんじることができました。恐らく祖母か叔父に手伝ってもらっていたのだと思います。全盲になる前の6年間に、彼はどのような想いで全盲になる日を待っていたのでしょうか。そして何を終え、何をあきらめようと決意したのでしょうか。

盲目である印の白い杖を突き、私たちと散歩をした日々。たくさんの質問をして、草木や風景やその色や様子を詳しく知ろうとした祖父。川の流れをどう表現すれば祖父にわかってもらえるのか、とても苦心をした焦燥感はまだまだこの胸に残っています。そして音だけで聞き分けて「そうじゃないだろう?OOじゃないか?」と当ててしまう祖父をどれほど尊敬したことか。鳥の声に種類があること、風が花の匂いを運ぶこと、陽射しの強さで季節がわかること、私の足音で私がどのくらい疲れているかわかること、どれもオドロキばかりでした。私は祖父のような才能を持つ人になりたいと、視力だけでない感覚を磨く努力を、目隠しごっこをしてそれからも磨くことになります。

全盲だった祖父はどうしてもスキンシップを必要としました。手を引いたり、肩を貸したり、とにかく視力がないことを触覚で懸命に補おうとしているかのようでした。手の先に眼があるように思えたり、背中に眼があるように思えたり、人間の可能性というものを祖父にはいろいろ無意識のうちに学んでいたように思います。

祖父が15年前に83歳で他界してからいろいろ思い出すことは多いですが、私が何よりも憶えているのはオフロです。建て替え前には母屋から離れた別棟に古い古い目地の細かいタイルを使ったお風呂場があり、薪で焚く五右衛門風呂でした。しかしあまりに古かったのでその板は沈みっぱなしになっていて、浮いたところを見たことは一度もありませんでした。五右衛門風呂というコンセプトを間違って憶えていた私が、正式五右衛門風呂を学んだのは高校生を過ぎた頃です・・・。

オフロに入る前に祖父は薪割をします。中ぶりの斧を丸太の真ん中に手で確かめてから刺し、それを振り下ろしてきれいに割るのでした。それは視力がある叔父たちよりも正確で、神業に思えたものです。祖父が使う台の大きな木の幹の上に私が薪を置く役割をもらえたことはたいへんな誇りでした。祖父が真ん中に斧を食い込ませるまで支えているのです。いつしか声をかけて指図されなくても手を離していいタイミングがわかるようになりました。祖父に褒めてもらえることは天にも昇る気持でした。私の魔法使いだったからです。

1日の遊びと仕事が終って、私が父の実家に預けられているときは必ず祖父といっしょにオフロに入りました。祖父は明治生まれのわりには大きな人で175cmあり、小さな私の身体をごしごしと力を込めて洗いました。彼が繰り返し言っていたのは、「人が見ないようなところもきちんと洗うこと。神様と自分は必ず見てるからね」ということでした。彼にとっての誰も見ないところとは、性器でもなければ脇の下でもなく、耳の後ろでした。他人様を怖がらせないようにかけていた伊達めがねの柄が位置するその耳の上と後ろを念入りに洗ってくれました。私は当時めがねをかけていませんでしたが、その意味は何となくわかるような気がしました。

眼の見えない祖父が「他人が見ないところを念入りに」と言った意味、成長するたびにどんどんわかってきました。裏表のない人間になることを私に教えてくれていたのだと。そして私はそういう人間でいたいと、祖父への思慕の深さを想うたびに強くつよくまた決意します。

小学校・中学校・高校・大学・社会人・渡米と時間が流れても、私が障害者についての偏見に対してやり場のない怒りを感じるのは、バックグラウンドに恵まれていたからなのでしょうか?与えられた人生を懸命に暮らしているのは誰しも同じであることを、私はたまたま祖父を見て理解しましたが、私の廻りにはそれからたくさんの障害者が登場しました。そして私自身も障害者であることを認識します。

誰ひとりとして “めーめ コワイよぉ” と言われて胸のうちが平然としていられる人はいません。外側でなく、心意気を見る眼をみんなが持てる世の中を私は強く希望しています。

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読み返してみても、すごい祖父だったと思えます。祖父が死ぬときには泊まり込みしました。バイトをすべてストップして駆けつけたのです。悔いなしですが、そのときに使った父の実家のスーパーカブのおしりへの振動と共に、風が私の涙を千切っていたことを時折切なく思い出します。約10㌔ある道のりで、笑顔に戻すために、私は死ぬほど苦労しました。あのときの苦労に比べれば、今のつらさは屁でもないですね。

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