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ネコたちのいる生活といない生活

02/18/2007 にアップした文章です。

 

いやー、でかい違いだ。彼らがいかにこれまでの私の生活を支えてくれていたのか、ということを、ひしひしと、しみじみと、確実に、ため息まじりで、たまには泣きながら、眠れなくなりながら、実感しているところです。私の100%確実な予測では、うどちゃん(長男坊・α-Male、15歳)が死んでしまったら、私は確実に数日から数ヶ月くらいは使い物にならなくなります。そのあとが、タンゴとハイジなのですが、彼らは12歳。そんなに遠い遠い日でもないのでした。さくらと寅次郎とAvyは6歳なので、まだまだあります。

なぜにネコをこんなに増やしてしまったか?という話は、すでに書いたのですが、改めて。なんだか近頃、アクセス数が多いのだ。検索してまでたどり着いてくださる方もいるので、ちょっと復習を(笑)。

私は、犬もネコも、どんな昆虫でも、動物と名のつくものならば、好き嫌いの度合いはそれほどありません。強いて言えば、身勝手な理由で、抱いたら体温が温かい♪のがいいですが・・・。あとは、やはりワシントン条約で禁止されているものは、どんなことをしてでも我が家に来ていただこうとは思わないです。さらに、肉食だけの動物だと、ごはんをあげるたびにちょっと面倒だというのもありますか・・・。アフリカウシガエルなどは、ネズミを食べるので、そのたびに生命を終わらせることになるので、あまり楽しい日々にはなりそうにありません。

小さい頃は、動物は道端に落ちていれば、すぐに拾ってきました。それ以外のオプションは、私にはありませんでした。捨てられているのか、迷子なのかわからないのだけれども、そのまま放置していればごはんも食べられず、屋根も暖もない、となると、それ以外の選択肢があるわけもない、と拾ってきていたわけです。犬やネコが多かったですが、チャボやカエルや虫もたくさんありました。野鳥もヒナが特に多かったです。

私が赤ちゃんの頃は、わんちゃんを飼っていたのですが、彼女がいなくなり(私にはその記憶が欠落している;なぜ)、私が拾ってきたのがたまたまそのときにはネコだったので、切れた状態のときから、いつしかネコが我が家の主流になりました。私が思うに、おそらく、昔であっても、ベッドタウンだった私の町内では、犬の散歩をさせるというのが、「暗黙の義務」になっており、遊びに忙しかった私には、よそのたくさんのいろいろなわんちゃんとは遊べるが、野良以外のネコと深く交わったことがなかったため、きっと家の中でじーーーーっと観察したかった、という要素もでかかったような気がします。近所のわんちゃんたちは、本当に人懐っこく、限りない愛をくれたもんですから・・・。

引越しをしていた家や、誰かの家の物置で、動物は飼い続けていましたが、大きくなると逃げてしまわれて、いつもそれを発見すると泣きべそをかいていたものです。しかも、犬はそうでもないのですが、ネコは野良化すると、ご恩を忘れて寄ってきてすらくれない(笑)。犬は、野良化しても寄ってきてなめてくれたり、いっしょに遊んでくれるのよ♪あんまり人懐っこくてかわいいと、誰かがもらってくれる、というすばらしいこともまま起こり、私たちはご機嫌でした。鳥も傷などが癒えて飛べるようになる大きさになると、二度と戻ってこないことのほうが多い(笑)。でも、当時は知らなかったのだが、人間の手がついてしまった鳥は、群れに戻れる確率が少なくなる。ま、種類にもよるのだということを知り、百科事典でいろいろ子どもなりの過去を括って見たのですが、そこでおぞましい罪悪感にさいなまれたという学習もしました。

動物が回りにいない人生など考えられない、と思ってはいたのですが、生活苦があったので、16歳からずっと働いて、留学のためのお金を貯めるのに朝から晩まで家にいない状態が続き、ネコは母に慣れ、それでも私を癒してくれました。そこで留学。そのときにはネコはいなかったのです。最後に死んでしまったネコの名は、周作。千葉周作から取ったものです。強いネコになってほしかった、という単純な願いでした。

アメリカでは、「定住をしている」という実感がなかったことと、ペットOKの契約で賃貸をしていたわけではないので、動物を飼うことは遠慮していました。なにしろ、大家さんは、「金魚もダメ」という厳しいコードを持っていたのです。ところが・・・、賃貸ではない、持ち家の隣の家にはネコがいた♪私たちがのちに勝手にMommy(おかあさん)と呼んだネコは、妊娠していたのですが、日数が来る前に流産してしまいました。見ていてわかったので、たいへん痛々しかったのですが、後ろの家に住んでいたTiffany(あだ名はネコ娘;ゲゲゲの鬼太郎のネコ娘に似ていた;とにかくネコが大好きな子だった・・・)によると、そこの夫婦は、自分の子どもに虐待する前に、ネコのMommyを相当いじめていたらしく、子どもが口応えする年齢になると、ネコはまったく放置。Neglectという名の虐待に変化したということでした。ごはんも数日あげなかったり、水さえ出さない。家の中にも入れてあげない。などが続いて、流産なんて当たり前な状況だったようです。ネコ娘によると、その流産は3度ほどあったらしいのです。私が見たのは1回だけなのですが・・・。

そして、また妊娠したのを見つけ、「そんなに流産していたのであれば、もう流れ癖がついていて産めないのかなぁ」と心配しつつ、いつもの通り、家のキッチンあたりでごはんをあげたり、彼女の気が向けば寝ていってもらっていたのです。ある日、西さんがたいへん興奮して、「ネコの鳴き声が聴こえる!」と地下室で、新生児を次々見つけたのでした。私も見に行ったところ、どうも彼女は産んだのが初めてだったせいで、へその緒もまともに切れないし、グルーミングさえしてあげていない・・・。なので、西さんにお願いし、上に連れてきてもらったのです。4匹いましたが、おしっこを出してあげて、Mommyにじっとしてもらい、ミルクをあげてもらい、まぁ、本当にいろいろしました。彼女としてみれば、「もうあっちの家に子どもたちは連れて行かない」という意志があったので、そのまま私たちの「人間手垢」がつくことをなんとも思っていなかったらしく、注射器やスポイトであげるミルクを見て、少しずつグルーミングを覚えるような日々でした。

西さんの卒業が予定されていたので、バレるまで出て行かない、と決め、そのままネコたちをキープしていたところ、Mommyはまた妊娠し、3匹の子どもが生まれました。合わせて7匹の子猫たちは、うどちゃんとチビちゃん以外はみなもらわれていき、ある日、Mommyは家の前で交通事故に遭い、死んでしまったのでした。チビちゃんは、隣の人が掛けた罠に捕らえられ、一度はSPCA(保健所のようなもの)から出してきたものの、二度目は遠くに捨てられてしまったようで、取り戻すことができませんでした。

そこで、父の病気を知り、西さんが卒業後にそのままシリコンバレーにある支社に勤務することになり、私はうどちゃんを連れて日本に戻ったのです。うどちゃんは、そういうわけで、日本に1年ほど留学していたことになります(笑)。エアコンが苦手でねぇ・・・。けれども、近所の野良猫たちのボスになり、ネコ語はあくまで世界共通なのだなぁということもわかり、楽しい日々でした。当然、父が死んでしまってアル中になった私を、最も支えてくれたのがうどちゃんです。

当時30近かった私が、これでもかっ!と、また昔の癖を発揮し、選りによって茨城県にあった「肉のハナマサ」というお店で、かん太というタビー種のネコを拾ってしまい、うどちゃんとかん太は、私といっしょにまたアメリカに戻ったのです。家を買ったので、誰にも文句を言わせず、それからどんどんネコは増殖しました。まずは、またもやかん太が交通事故の犠牲になり、その後、テストが受けられなくなった私に、西さんがSPCAで生後3ヶ月未満だったタンゴとハイジをもらってきてくれたのです。寅次郎とさくらの兄妹は、行き着けのお鮨やさんのよしさんに、もらってくれ、と頼まれてしまい引けなかった・・・。Avyもよしさんのところに来ていた野良猫です。ある日酔っ払った揚句、さらってきてしまったわけです・・・。

そのたびにうどちゃんは、α-Maleとして君臨しきってきました。そのうどちゃんともう4ヵ月半も離れて暮らしているのですが、この肌さみしさというのは、男の比にはなりません・・・(爆)(爆)。自分のネコにならば、心は持っていかれてしまってもいいな、と、つくづく思うのでした。4月にお迎えに行き、みんなといっしょに住めるようになったら、弊社の売り上げはバンバン上がりますぜ(笑)。なんたってあの無償の愛には、かないません。やるしかない心に突き動かされて、私もだらしないことができなくなりますから♪

 

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