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信頼できない人々

06/21/2008にアップした文章です。

 

よく出てくる言葉ではありますが、この信頼というのはとても重い言葉です。が、なんだか意味を薄く使っている人々もかなりいて、うんざりさせられることも多くあります。私などは、「じゃ、使わなければいいのに・・・」と、かなり簡単に出てしまうのですが、そのへんの率直さがゆえに、オフィス勤めをしたことがありません。あ、Temporaryは別としても・・・(汗)。私の世界観の中で、何がかなり重きを置いているのか?と言えば、この信頼で、映画などでもSnitch、Rat、Informantと呼ばれる「ちくり屋」は大嫌いです(笑)。いや、存在としていてもいいと思うし、仕事や役割としては有りだと思うのですが、私が近い存在としてお付き合いしたいと思えないのですね。

 

信頼:信じて頼ること。

信じる:(1)疑わずに本当だと思い込む。心の中に強く思い込む。(2)疑うことなく、たよりとする。信頼する。(3)神仏などをあがめ尊び、身をまかせる。信仰する。

頼る:(1)力を貸してくれるものとして依存する。頼みにする。(2)依存する。(3)助けになるものとしてそこへ行く。(4)言い寄る。

思い込む:(1)そうだと固く信じる。(2)必ずやり遂げると固く決心する。

疑う:(1)得られた結果・結論が正しくないのではないかと思う。うたぐる。(2)その人が悪いことをしたのではないかと思う。うたぐる。(3)はっきりしないことについて、よくない方に、否定的に考える。

 

うーん、難しいなぁ・・・。

 

こうしたことを考えるときに、性善説や性悪説をまだ唱えている時代遅れな方々がいらっしゃいますが(とはいえ、孟子は天才のうちのひとりだろうから、あまり大きな声では言えないんですが・・・、たぶん解釈からして違うのではないかと・・・>参考http://park5.wakwak.com/~tanaka02b/zakki/log14.htm )、結論は「そんなもの混ざり物である」という簡単なことが答えです。時と場合によって、ヒトは生まれ持ったいいものをダメに使ってしまうような行動をすることもあれば、生まれ持ったあまりよくないものをよりよく使える行動をすることもあり、しかも善悪などは、時流や場合によって違うし、登場人物の世界観によっても変わってくるので、固定した考え方を持つこと自体が、あまり意味をなさないわけです。ただ、こうした見方というものを基礎にして、物事は発展してきているので、基礎を押さえておくのは大切です。

 

ヒトは複雑な遺伝子を持つことができる存在になってきたし、文字を持つことで記録することができるようになってきたので、善悪をも、教育をも、「既存」として組み込むことができるような機能を持ちえるようになってきました。それらを純粋に、先天か後天かと分けて考えることがしにくいことは自明です。

 

なので、その流動的なものの中にこの信頼も位置しており(まぁ、すべての物事がそうではあるんですが・・・)、絶対的価値として常に安定した信頼を置けるヒトやモノや団体などに囲まれると、精神的にはかなり安定します。いわゆる期待値です。数値化して何がおもしろい?と言われれば、実も蓋もないのですが、私は物事を数値化して、ラクに考えられるのであれば、その手は有りだと思っているのです。

 

ゼッタイ!がないこの世の中で、私は西さんのことを99.9%信頼できます。0.01%は、彼も不死身ではないので、フィジカルに肉体がヘタレているときには、きっとダメなこともあるのだろうというくらいの期待値。相当にいい信頼度です。奇跡的なくらいかもしれない・・・。まぁ、私がゆるい人間だし、信頼に求める定義そのものが、それほどハードルが高くないこともあるのですが・・・。

 

他人に対しての依頼心というものがそれほどないことが、私の美徳のうちのひとつなので、私から他人への信頼度が低くとも、おつきあいはしていけるのかもしれない・・・、とハタと気づく・・・(爆)。

 

英語講師をやっていて、特にそうはしたくもないのだけれども、宿題を出さなければならないコースや、個人仕様にしたカリキュラムの中で、やっぱり宿題ができなかった場合というのは、日常茶飯事のひとつとして存在します。それに関しても、私はヒトによって期待値を設定してあるし、コースによってもだし、時期的なことや、その人の仕事にもよると思っているので、がっかりすることはまずありません。ぶっちゃけて言えば、宿題をする・しないは、その人のBenefit(利益)であり、私のものではないわけですし・・・。私が、生徒さんへの思い入れを深くしすぎて、わが子やわが家族や己のように怒ったり焦ったりするのは、宿題ごときで使うのはバカげています・・・。

 

これらの期待値というのは、今ある資料をしっかり解析して、その予測を立てることで、その予測が当たるかどうか?という科学的なものなのですが、実際、ヒトはそれを日々やっていることをあまり意識していません。経験値・体験則というものなのですが、イチイチ数値化する人々というのは、あまりいないのでしょう。私はそれをしている人々を見ると、とても安心するんですけども・・・。「ああ、このヒトは放置しておいて大丈夫だな」と(笑)。自分がラクになるのであれば、なんだかそれはとてもうれしい事実なので(爆)。

 

ヒトの性格について、いろいろな側面を考えるときに、やはり究極問題として想定してみることができるのが、「最悪の状態のときに助けてもらえるか」ということです。私は、ラッキーなことに、「あのとき出会えなかったら今の私はここに居ないかもしれない」と、たまに言ってもらえています。生涯にひとりでもいいくらいの褒め言葉なのですが、なんだかびっくりするくらい言われて、最近慣れつつあってよくない傾向です。教えるっていい商売よね・・・、お金までもらってるのに、こういう副産物があるのね・・・←オマケだと思っているので、とてもオトク感があるんだよねぇ・・・。

 

私は、誰かの最悪状態を見極めて何とかしたいと思うやつなので、Snitch, Rat, Informantのようなちくり屋にはなりたくなく、権威に対してへいこらするのはとてもじゃないですが、拒否です。それが会社や学校であろうとも、国家であろうとも、同じことですね。たとえ、拷問されても口は割りません。誰かの不利益を私が意識的にもたらしたなどということを、知りながらその先生きていくなどということは考えづらく・・・。生徒さんで、「英語学校の費用がかかる」と言われても、それは当然だと思うし、なかなか成果が上がらない焦りなどもあり、それをイチイチ誰かにちくるなどということはしたくもなく、「このクラスでおしまいにします」と言われても、それをフロントオフィスにいちいち報告する必要すらないと思っており、守秘義務がある事項ではなくとも、言わないことにしています。小中学校から今までずっと、誰かに何かをちくるという行為に関しては、どうしても美しいとは思えずにおり、「ねぇ、知ってた?」という公の知識ではない個人のゴシップすら、積極的にはしたくないですね。信頼が地に落ちます。

 

とはいえ、自分が簡単に他人を疑うとも思いたくはなく、やっぱりこれは難しいなぁ・・・。期待があまり大きすぎるのも危ういことではありますが、あまりにヒトを疑いまくるのもさみしいことです。が、私はあくまでポジティブなので、きっと疑う必要があることを疑い、リスクが多いことに関しては期待もせず、じっくり物事を見ていると信じたいところです。大切なのは、自分に信頼がおけるかどうか?から始めることなのでしょうね。ええ、私は自分が「ラクをしたい」という欲求が強いことには強く信頼がおけます(爆)。そのためにであれば相当がんばれるので、まぁ、いいことにしておきましょう・・・。

 

信頼できる・できないというのは、やはりある程度おつきあいしてみないとわからないのでしょうが、少なくとも自分が信頼に値する人間でいたいと念じることは大切ですね。

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