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嫌われたくない心

08/23/2008にアップした文章です。

私はこれをとっくのとうに卒業しているので、生きていてかなりキラクです。いつからなのか?と不思議に考えていると、おそらくもう高校生のときには、かなりどうでもよかったなぁという確信が・・・。そもそもの嫌われてもいいや、というめばえは、開き直りから出発したので、オソマツなのではありますが、それをよりよく使っていこうという、けなげでしぶとい生命力があったことは確かです←かなり言い訳がましいのか?(笑)人に嫌われるのが怖いだとか、怖いまで行かずとも不安だという人は多いです。私が見てきた中でも、そうした行動を取る人々は多く、思ったよりも根底的重圧になっているし、行動規範になっているようなところはあります。それがなかったら、どんなにいろいろなモノごとにその情熱やエナジーが使えるか?と考えてみると、ぞっとしませんぜ・・・。

 

嫌う:(1)(人や動物が主語となって)(ア)いやだと思う。(イ)(好ましくないものを)避けようとする。(2)(無生物を主語として)それがあると具合の悪いことが生ずるから避ける。(3)区別する。えり好みする。打ち消しの語を伴って用いる。(4)好ましくないとして退ける。(5)連歌・俳諧で、句の配列上、同類の言葉を付けることを避ける。また、ある特定の語を特定の場所に使うことを避ける。

いや:(1)きらうさま。欲しないさま。(2)不愉快なさま。(3)好ましくないさま。

好ましい:(1)感じがよくて、心を引かれる。好感がもてる。(2)望ましい。そのようになればいい。(3)好きである。好みに合う。(4)風流好みである。凝っている。(5)色好みである。

 

改めて、嫌う・イヤの意味を並べてみると、かなりネガティブではある(笑)。

 

すでに何度か書いているのですが、私は嫌いな人というのは、極端に少ないのです。全体的にトータルに嫌いだということはほぼなく、ある部分をピンポイントして嫌いなので、私に対してそれが向けられないのであれば、あるいは私がそれを引き出すようなことさえなければ、特に気にしないのです。が、長くつきあっていれば、そのイヤな部分というのはかなりの数が出てきてしまうことになり、それをお願いしてみて、それでもダメであれば、やはり離れていくことになるのでしょう。が、大人になってからは、ケンカして別れてしまうようなことはなく、だんだん連絡を取らなくなり、消滅していくことが多いのです。

 

やっぱり私も大人になったってことなんだろうなぁ・・・(苦笑)。

 

なぜ嫌いなのか?という根本的理由は、生物学的なものから生じており、「その行為あるいは言動が、私という生命体にとって危険極まりないから」ということから発しており、それ以外であればかなり何でも引き受けるのです。

 

では、逆のことを考えてみると、私が嫌いの元を渡してしまう側にもなっているので、やはり、私が誰かに「その行為あるいは言動が、生命体である他人にとって危険」ということはままあるに違いないのでした。私は、躁鬱病のせいで、たいへんにハイパーなので、その率はとても高く、小さい頃のことを考えれば、怪我の危険にお友だちをさらすことは多かったです。が、特に強制していたわけでもなく、私が勝手にやるところを見て、それで安堵し、やってみてケガをする、というのは枚挙に暇がないほどあったので、ある子のおかあさんは、「もうくーちゃんと遊ばないで!」と怒鳴ったというのはよくあった話です(笑)。木登りもあったし、切り倒しになっている粘土質の台地が顕わになっているところに、丸い穴を開けて断崖絶壁風のところを登るのもあったし(正式にやればロッククライミングみたいな・・・)、それがスロープになっていたら、切り傷なんていっぱつのトタンを拾ってきて、そり遊びはするし、坂道でブレーキをかけずに自転車で下ったり、手放し運転を何mできるかなんて毎日だったし、知らない動物と遊んだり、ザリガニやカエルやおたまじゃくしを取るために水にはバシャバシャ入るし、大きな河川でも泳ぐし、穴を掘ったり、危険だらけな遊びばっかりしていたからなぁ・・・。

 

青くなられたのは、ゴルフボールをバットで打つようなバカなこと。あれは当ったら、打ち所が悪ければ本当に即病院行きだったでしょう・・・。

 

なんだか書いていてぞっとしていますが、私、よく生き延びているよなぁ(爆)。奇跡の連続だったのか・・・?

 

とにかく、小さい頃から、近所のおかあさんたちには評判がよくなかったので、そこで嫌われていることに落胆していたら、せっかくの楽しい遊びも楽しくはないので、へこたれなくはなりました。その評判に対して、母はものすごい剣幕で怒るのですが、改めるわけなどなく、父などは横で笑って応援をしてくれていたので、それで相殺ゼロのような気持ちにすらなっており・・・(爆)。

 

中学に入って、幼い恋愛事件などがあってからも、私は嫌われることは私の宿命なのだなぁと思っていたくらいで、特に気にしていなかった模様です。いや、最初はたぶん気にしていたのですけれども・・・。好きな男の子に好かれないような噂を流されたりすることで、なんだかそれなりに塞いでいたような記憶もあるのですが、けっこうそれもどうでもよくなってきていたのは事実。高校は志望校に入れなかったこともあり、高校生活すべてが灰色だと思っていたせいもあり、その中で誰かに嫌われたとて、大したダメージでもなく・・・。バイト先では嫌われたことがなかったので、そこでも相殺されていたのだろうと思います。

 

その10代の頃にすでに気づいていたのですが、本質的な私の欠点について、親切でやさしい人は、含むような言い回しをせず、しっかり目を見て、説諭してくれたものです。ところが、ただの感情から発しており、妬みや嫉みなどから発している悪感情は、大勢を巻き込み、噂を流し、というまぁ、面倒くさいエセ民主主義の段取りを辿るんですよねぇ・・・。

 

で、私としては小娘だったのだけれども、もう本当にどうでもいいや、と思っていた。負け惜しみでも何でもなく、「万人に好かれても身体が1個しかないんだからしょうがないじゃん・・・」と、心から思っていたんですが、それがよかった。決めてしまったら、未練などほぼなく、渡米できるために邁進できたからです。

 

うつ病のところで調べたところも、人間関係のまずさからうつ病になる人が最も多い。それは、他人の顔色に左右されなければある程度のルールが守れない人間だという烙印が押されてしまうからなのかもしれません。そのルールを決めているのが誰なのか?というのに、私は小さい頃からずっと闘い続けてきて、渡米して、「そんなの自分で決めればいいじゃん方式」を採用することに自信を持ってきました。もちろん、論理的でなければならず、法律を犯してはならず(とはいえ、ゴルゴ13とか大好きよ♪笑)、他人を多少不愉快にさせようとも、職場であれば、仕事を達成させることのほうが大切です。

 

誰かに好かれることで、どうも面倒なことが多いということがわかってきた私は、ひとりで行動するのが大好きになってしまい、今日も、アマゾンからまた洋書が届いたので、没頭しようと思っているところです。ついでに、ストップウォッチが届いて、これで商売も円滑に行くのだ♪

 

嫌われたくない心を強く持っているかどうか、チェックしてみるのはきっといいことだろうと思うのです。わざわざ嫌われる必要などはありませんが、私はBitchyだと言われてもそれをむしろ褒め言葉だとすら思います。あまりに強い、嫌われたくない心を持っている場合、女性では化粧の時間などがきっと長いのだろうし、洋服を選ぶ時間もとてつもなく長いだろうし、お金もそれなりにかかっており、それについて誰かが褒めてくれないことに対しての落胆も大きいに違いない。そういった他人からもらうものに関しての期待感を持つことは、決していいことでもなく、小さい頃に親を頼っていたような、純粋な愛を求めていたような、「見て!見て!私ってこんなにいい子なのよ」という危なげな心を、大人になっても強く持っているのは、なんだかそれこそが危険です。

 

他人の期待に応えるよりは、自分に期待をかけて、自分に応えてやってくださいな、といつも私は思っているのです。

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