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幼稚になることの功罪

01/23/2007 にアップした文章です。

 

幼稚さというのは、大人になっても持っていられるものですが、コレを出せる人と出しにくい人と、大雑把に分けてしまえば2つに分かれます。西さんも私もたいへんに出しにくい。飲んだり食ったりしていて、わずか数回、幼稚さが覗けばご愛嬌なほどで、基本的にはシリアスで堅い人間だと見られがちです。幼稚さを備えていると、張り詰めていた糸がピーンと張っている状態を、どこか緩めてくれる役割もするので、悪いことばかりではないのです。要は、どこで使い分けるか、を知っていれば、幼稚さもよりよく使える美徳になりえます。が、幼稚さがなかなか出せない自分に対する吐露を今日は・・・(笑)。

幼稚:(1)おさないこと。年が小さいこと。幼少。(2)考え方・やり方などが未熟である・こと(さま)。(3)技術・構造などが単純である・こと(さま)。
単純:(1) (ア)こみいった点がなく簡単な・こと(さま)。⇔複雑 (イ)考え方などが一面的で行き届かない・こと(さま)。(2)他種のものがまざっていない・こと(さま)。純一。(3)制限や条件のない・こと(さま)。

昨日読書していた折、石川達三の『四十八歳の抵抗』の中で、「集団行動をするときには、人間は幼稚になる。<中略>幼稚になれない人間は集団の中で孤立する」とありました。はっとしたものです。

余談ですが、この本は、昭和20年代くらいには、「中年(今は壮年と言わねばならないらしい)のバイブル」とまで評判を得ており、1956年に映画化もしました。他にも『金環蝕』や『青春の蹉跌』があります。彼も社会派と呼ばれる作家で、彼のほとんどの作品は絶版となっています。私は相当に好きなのですが・・・。第1回芥川賞受賞者でもあり、表現をすることで国に立ち向かった証拠として、発禁処分を『生きてゐる兵隊』で受け、禁固4ヶ月、執行猶予3年の判決を受けています。Wikipediaからの抜書きですが、「日本ペンクラブ会長時代は、「言論の自由には二つある。思想表現の自由と、猥褻表現の自由だ。思想表現の自由は譲れないが、猥褻表現の自由は譲ってもいい」とする<二つの自由>発言(1977年)で物議をかもし、五木寛之や野坂昭如など当時の若手作家たちから突き上げられ、最終的には辞任に追い込まれた」とあります。わいせつ表現はあまりしないほうがいい、ということを辞任に追い込まれても貫いたのか、と感心させられます。ただし、彼も性表現はしているのです。そのへんを猥褻とするかが線が微妙なところなのでしょう。

あー、長い余談だった(爆)。

私は、どうもこの幼稚さの欠落のせいで、小学校くらいから孤立する場面が多かったことがあるのだと思い立ちました。学習スピードが速かったために、未熟さを削ぎ落とし、考え方や立ち居振る舞いにも子どもらしさを失い、失敗を減らしてきたがゆえに、同年代の子どもたちからは怪訝な顔をされ、大人たちからは一方では褒められても、心底愛されることがなかったような気がします。技術・構造などが単純であることが、幼稚さのひとつの特質であれば、ヒトはどうしても成長すれば、それを超えることを目指すわけで、私の中では、「成長しているのに」「やれと言われたことをやっているのに」「できるようになったのに」放置されている、愛されない、かまってもらえない、と嘆いたことが多かったことに突き当たりました。

そこで私が欠落しているのは、今でも大好きな単純作業なのですが、年齢の割りには高等なことができてしまった私に、教え損ねた事項がいくつかあるのでしょう。たとえば雑巾絞り。私はこの雑巾絞りが小学校5年生までできませんでした。汚いものを手にするかのように、指先でつまみ、絞ることを厭っていました。朝、朝食と通学の前にやれねばならぬ日課の中での、私に決められた労働役割には、「拭き掃除」がなかったためです。雨戸を開け、換気をし、玄関と庭の掃除をする、というのは、掃き掃除に徹していたためです。他にもいろいろ欠落していたのですが、希望としては、その後、きちんと習得したことにしたいですね(笑)。

西さんにもそういうところがままあり、私はそれを彼と私の類似点として愛しているのではないか?と思い至ります。彼の幼稚さ、いわゆる単純さや欠落、成長しなかった点、至ってシンプルなところ、などを気づいて、おもしろおかしがれる人間は、人口としてはそう多くない。彼が賢かったり、勤勉だったりすることや、健康管理ができていることや、無口で朴訥なこと、その他、表面化している美徳については、誰でも気づけることなのです。誰でも、西さんを「とっつきにくい人」とみなしておつきあいをし、少しでもお茶目だったり、単純だったりするところを見つけることができると、ほっとするようです。そこを愛してくれるようになる。

ところが私は、強い性格のためなのか、外見のためなのか、そこすら愛されない(爆)。「完全無欠のはずなのに、どうしてこんな愚かしい単純なことができないのか?」と責め苦になるわけです。どうも世の中は不公平だなぁ(笑)。いや、完全無欠じゃないんですって・・・(汗)。そんな人間はこの世に存在するわけがない・・・。

思い当たることに、私は騒々しいことが子どもの頃からどうも嫌いでした。当然、先天性の脳内ケミカル分泌の異常は、子どもの頃からであり、ハイパーで物事を複数こなしていく癖も当時ですら同じでしたから、底抜けに単純にできることのように見えることとは裏腹な遊びには熱中したものの、それが複雑で奥深いものだと肌で感じながら、考えながら遊んでいたことは確かです。もちろん、当時の知的レベルで、ですが・・・。そうして私は孤立する数が多くなり、時間も必然的に増えて、しまいにはOLなどには金輪際なるもんかと思うようになり、渡米までし、なんだか外れてしまったのだろうなぁ、と思うのです。なるべくしてなった、というような、これほど辻褄が合うこともないだろう、と感じるような・・・(笑)。

今はラクですよ。大人になったら、嫉妬ややっかみなどもなく、人々にはバラエティがある。おつきあいの範囲も、老若男女いろいろいるので、その差異については特にとがめられることもなく、孤立する必要も、昔に比べればまったくないです。そのせいで、どこか大いに欠落している人間に対しても寛大だし、まだまだ成長や学習の余地があることも身体を張って証明しているかのように、まだまだ学校にも行きたいと思えば、いろいろなところに顔出しをして、やっていないことや私が知っていた日本について変わったことの確認をしている日々です。

幼稚さを表現できることは、武器でもあります。私の場合は、「恥ずかしいから」という気持ちではなく、「幼稚さを殺ぐために成長して身につけて前進しまくった」ので、幼稚さがどんどん奥に引っ込んでしまったのですが、実際は幼稚さはたくさん内包しています。

Childish(子どもじみた)であることはあまりオススメできませんが、Childlike(無邪気な)であることは天衣無縫でシンプルで屈託がなくて、時として本当に純粋さを全うできることで、あったほうがいいです。その場面と、いっしょにいるメンツとを見極めることができれば、Childlikeな時間が持てることは宝物です。

実際は、物事というのはシンプルなことの積み重ねや組み合わせなので、やはり時としてChildlikeに戻ってみるのは、謙虚であるためにも大切なことだし、ヒトというのは同じようでやはり違うのだ、ということを意識させられるためにも重要なことです。私はそれが欠落してきたので、人間関係でうまく行かないことがあったのだというような気がしています。あー、だから「人は子どもを持って一人前」と単純に決め付けることもあるのね(笑)。

関連して、つい最近、お友だちに赤ちゃんが生まれました。おめでとう♪思いっきりChildlikeに同化して、睡眠時間が減る、物理的にたいへんな子育てを楽しんでください♪

 

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