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感動のバロメータ

10/21/2006 にアップした文章です。

 

いわゆる嘘発見器というのがあるけれども、あの脈拍やその他の身体的変化を測るブツは、本当に嘘を発見するために作られたものじゃーないでしょうに、といつも思ってきたのです。人の感情やそれに伴う副交感神経の作用による身体的変化は、何が原因なのかピンポイントできたらすごすぎる・・・。というわけで、司法では、嘘発見器はデータ・証拠として提出できないことになっており、前調査段階の資料として留められています。

でもねぇ、この嘘発見器(Lie Detector)をかわせる人々はスパイ訓練やら軍隊などにかなりたくさんいるらしい。FBIでもそれ専門の研究セクションがあるくらいだから、相当な穴があることなのでしょう。素人である、犯罪予定もない私としては、こんなテクニックを持っていても宝の持ち腐れなので、むしろ、その逆である「感動のバロメータ」について考えているところなのです。

シリーズとしては、「ため息」「あくび」などを考えてきたのですが、他にもジェスチャーやら、感嘆詞など、いろいろ思い当たる節もあり、癖である腕の組み方やら、顔のどこの部位をすぐに触れるかなど、けっこうキーになる動作はありあり。私がやってしまうのは、コンタクトのときでもメガネを上げる挙動をしてしまうこと。イマドキのメガネはとても軽く(チタンが多い)ので、特にメガネがずり落ちているわけもないのですが、なぜかやってしまうのね(爆)。

私の感嘆詞はもっぱら英語です。痛いことがあったときには、Ouch! Fuck! Godemn! Oh, God!などなど、バラエティはあるにしろ、教会内ではあまり言えないCurse(呪い)言葉も頻用するかもしれません。日本語でこれらのことは言わないので、第二言語だから安心して使っているという傾向があり、おそらく「羽目はずし機能」としてストレス発散のためによく作用している気がします。しかも、英語をそれほど詳細にわかっている人々もおらず、特に聞き取りのための耳がいい人々に囲まれているわけでもなく、特に大きなボリュームで話しているわけでもなく、まぁ、いいのです・・・。

独り言も英語が多いのですが、コレは18年半の名残だと思われます。西さんは私の日英ごっちゃ日常会話をまったく気にしていませんが、生粋日本人家庭の風景ではないのかもしれません。母はわからずとも、わかっているように返答していますので、彼女もついぞ慣れてしまったのでしょうね・・・・。

私の感動のマグニチュード最大級と言えば、大自然の風景に圧倒されているところです。そのときの感動のバロメータである反射は、言葉というよりはむしろ「震え」で、体温が上がっているのか下がっているのか自分でも微妙すぎてわかりません。おそらく一気に副交感神経のどちらもが動いているので、一挙に上がったものを下げようとしている感じなのでしょう。そんなときは言葉を出すゆとりなどなく、たたただ脳が痺れている感じで、心臓がバクバクしています。川でも海でも山でもいいのですが、私というちっぽけな存在など無いことにしてしまうような、数億年の歳月を感じさせる自然に、たいへん小さくなってしまいつつも、希望を見出せるのが、私の感動の最絶頂です。椎間板を2枚失ってから、スキーはやってはいけないことになっていたのですが、失ってからもやりましたよ、スキー。どうしても自然に接したい気持ちは抑えることができず、たとえ技量が落ちていようとも、あの銀世界の中に埋もれるだけでも大いに価値があることだったわけです。

そして週末に行こうとしていた高尾山は、見事に銭湯に化けることになっています。なんだかねぇ、くたくたなのよ。疲労が蓄積している感じで、マンションのお風呂に浸かったくらいじゃー、とてもじゃないけど取れそうにはない疲労感。高尾山のほうが効果的かもしれないのですが、そこにはハイカーやら家族連れやらがいると思うと、どうも二の足を踏んでしまう。ならば、本を携えて、出たり入ったりを繰り返したほうがきっと疲れは取れるのではないかと考えたわけです。今話題の岩盤浴は、どうしても私はダメです。どうも雑菌の宝庫のような気がしてしまうわけです。平均値よりもOCD(Obsessive-Compulsive Disorder)ぎみなところがある私には、岩盤浴は生理的にダメなところのようです。が、銭湯は大丈夫なので、病的症状ではないのでしょう。傷口がないことをしっかり確認しているので、週末には母が気に入っている銭湯に行こうと真剣に思っています。

TVに話しかけ返事をし、電話でしっかり話し手に頭を下げる母の娘として育った私は、やはり感動のバロメータとして、不思議な立ち居振る舞いをするのではないか?と自分で疑っていたのですが、私の行動全般は、かなり合理的で無駄が無い。ロボットでもあるまいし、少しは人間らしさや個性を全面的に押し出せばいいものを、かなり合理的らしいのです。タイプが速いなどの特徴は、そこに無駄がごく少ないことを示しています。読書のスピードも同様で、そのページをくくる姿はたいへんに合理的なようです。むしろ、比較として、無駄が大いに多い西さんが見ているから、私の行動には無駄がない、ということになるのかもしれません。うーむ、それじゃ、あんまり意味がない比較だ・・・←それくらい歴然としているということ。

けれども、感情がその場でまったく「無」というわけではないのです。ハイパーな私は、何をしていてもそれなりに感じ考えているので、それを「思わず」表面に出すことになってしまうか、それとも「表現する贅沢なゆとりがあるかないか」に左右されているような気がするのです。あれ・・・、それは誰でも同じなのかな・・・。いや、違うか・・・。まずは、行動をしながら「感じ考えているかいないか」という事実の違いがあり、その次に「何を感じ考えているのかを意識できねば、それに伴った感情表現はできにくい」んだよね・・・。なので、「表現する贅沢なゆとりがあるかないか」の場合、私は「意識していてもゆとりがない感情を持っている」ということになるのかもしれません。

うーん、なんだかここまで細微に考えていると、まるっきりしつこい人のようなのですが、しつこいところはしつこいのかもしれません。全般的にはあっさりしていて、しすぎている、と言われるほどなんですけどね・・・。ただ、人の心理については、なんだかしつこい。勉学に関してはしつこいのかもしれません。漢語をこれくらいしつこくできればな、と最近考えているのですが、漢文はたいへんに苦手だったので、今も西さんを便利に使っています。

特に、そもそもの問題点は、感動のバロメータの「そもそもの感情量」で、その範囲以内でのスケールを決めることにあります。たくさんの人間を画一化し、ひとつの統計に乗っけてしまうのも手なのですが、それでは片手落ちなので、ある個人のスケールについて考えると、まぁ、そのデータは果てしないものになってしまうのですよ・・・。でもねぇ、それが教師や上司や、弱者であったり成長過程のど真ん中にいる人々をケアする立場の人であれば、その果てしないデータを取っていただきたいと思ったりもするのです。少しだけしか見せぬ感情のバロメータを読み取れなかったがために、痛ましい事件が起きることがあれば、つらいのは自分も同じです。

西さんの「感動のバロメータ」はたいへんに微妙で、物事を外に外に表現しないで成長したあと、渡米してから表現したほうがいいと切り替えたので、その表現する分野や度合いについて、私はまだまだ開拓中です(笑)。どうしてこんなにも自分が人読みが好きなのか、つくづく因果だなぁ、と感じているのですが、ま、楽しいからいいんだよね♪ちなみに、校長センセ、詮索ではありませんよ(爆)。

 

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