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教育再生会議の内容

11/30/2006 にアップした文章です。

 

今日、いじめた生徒を出校停止にする案が出ていたのだけれども、それについてまたTVや紙面でいろいろな人がいろいろなことを言うことになると思います。すでに言っている人たちもいました。私もいっしょになって便乗するのはどうかな、と戸惑いつつも、やっぱりはっきり書いておこうと思うのは、後日、あまりにピント外れだったのか、けっこういいラインだったのか、自分でもわかるという記録のため。あとから振り返ることができるというのが、記録しておくという利点ですもんね。使わない手はありません。

しかも、私は新しい試みとして、カルチャーセンターの講師をやることになるのです。新規コースなので、準備を万端にし、教科書の選択やオリジナル資料を作り、春のコースからの先生になります。英語のほかに、心理学を生活に盛り込んだ「へぇぇぇぇ」という生活改善ができれば、と、今草案を練っているところです。どんな生徒さんが集まるのか、たいへんに楽しみなのだった。

先生になる自分の方針というか、基本姿勢はしっかり持っていなければならぬ、と思い立ち、最後に先生をしたのは、日本語と英語を個人レベルのグループか個人対象にしたものだ、と、しっかり緒を締めている気分。公式に教えたのは、航空学だったので、対象者の動機はしっかりしていたしね・・・。カルチャーセンターはやはりおもしろくなければならぬし、動機付けも含めたカリキュラムにしないと、と、けっこう小学校や中学校に通じるものがあるんじゃないのか?と、相変わらず何でも自分にいい方向に考える傾向のある私なのであった・・・。

ヤンキー先生こと、義家弘之氏のHPはコレ。http://www.yoshiie-hiroyuki.com/ 彼の「出校停止」を指示していたのは、みのもんた氏。熱い口調での「いい悪い」をはっきりケジメをつける言い方は、きっとものすごいアピールなんだろうな・・・。とはいえ、私はあまり彼の意見には左右されないやつなんだけれども・・・。

出校停止に反対なのは、元警視庁捜査一課の課長さんでよくコメントをしている方や、文部科学省大臣。他にもたくさんいることでしょう。

私が少し残念なのは、「教育再生」の意義を、どうも「規則や方針」を作ることに徹しているようなこと。むしろ、システムの実験を試みるために、組織を全国規模で作るとか、実験校を募るとか、もっと柔らかい頭が持てないのかなぁ、と。現時点では、8項目あるようです。もちろんコレから練れていくのでしょうから、もっともっと広く現場からも募れるようにできないのかなぁ。どんな審議委員会が編成されても思うのだけれども、選考された委員のそれぞれは、含蓄も経験も深く、評価されるべき人々ですが、やはり「個人」なのですよ。コネがあるとしても、そのひとりの意見に寄った人々とコネがあることが多い。それを覆さない限り、効果的で有効な案が出て来難いですもん。もちろん、生徒からも、ですよ。本人たち、当事者たちの意見はものすごい大切でしょ?そう思えないで、大人たちが勝手にしかつめらしい顔をして会議してもねぇ・・・。信頼を全面的に勝ち取れるとは思えないのよ・・・。

私の個人的な意見としては、出校停止処分の中身としての「停学処分」に似たものが果たして本当に有効なのか?という疑問。私も一度、高校生のときに停学を2度くらったことがありますが(ほんと、「くらった」というのがそのときの気分なんだってば・・・爆)、登校はみなと同じくし、生徒指導部の先生に連れられて別室へと導かれ、そこで日がな1日反省文を書かされたのです。そのあと、それを読んだ先生たちから、質問の嵐。どんな意味なのか、もっと違う言葉で表現してみろ、今度また同じことが起きたらどうするか、などなどの、しつこい尋問に似た面談。しかも、「先生としては」「学校としては」の連呼で、「コノ場を丸く収めれば停学なんてしたくないテキニュアンス」でしたもんね。あんなんじゃ、「バレなきゃいいんじゃん」という結論を引き出す生徒がいても当然だな、と、ひどく第三者的に感じたものです。私が停学になった理由は、ディスコ(当時はディスコだったんだよね)に行った友だちをかばったこと。もうひとつは、家出を幇助したのですが、家出をした友だちのことをゲロしなかったこと。私はそういう10代だったし、今でも法律違反にならねば、小さい社会の勝手に決めたことは守らないかもしれません。約束したことは大切なので、私が停学程度で済むのであれば、ゲロしませんね・・・。

いじめをした子どもたちは「加害者」とみなすのか・・・。いじめの構造ってもっと心的なもので、規則を守れと軍隊式にやっても、動機付けにもならないし、心から思わないから、見ていないところで繰り返されるでしょよ・・・。そりゃ、やらないほうがいいけれども、新聞を読んでみれば、賢い10代ならわかるように、大人の社会だっていじめだらけでしょ。TVもそうだ。漫才やバラエティではいじめ大流行。どうやってその差別化を正当化できんだか・・・。不思議だよね?その微妙な「違い」がどうやったら分かるようになるのか、陰湿ではないいじめはよくて、メシの種ならばいじめはよくて、大人だったらいいのか?って子どもたちに言われたらどうすんの?

爆笑問題の太田光氏が言っていたのがまさしくコレで、「いじめはどこにでもある」ということ。いじめを模倣する子どもたちが、どうやったら「いいいじめ」と「悪いいじめ」を自分で決めることができるのか、そこを考えてみればいいんじゃないのかなぁ。私は、子どもの頃、暴力満載のTV番組(キーハンターとか仮面ライダーとかカンフーものとかね)を見ていたけれども、暴力反対を唱える大人になったし、漫才ブーム第何世代のどこかに引っ掛っていて、そういった番組もけっこう見たけれども、誰かをユーモアにしてもいじめることは避けるようにしています。「ボケとつっこみ」の機微がわからないつまらない大人になることもないし、みんなと同じ規則や倫理に沿って生きる大人にならなくていいんだよ・・・。自分で選ぶための学びの場を提供するのが大切にするのが、私の意見です。

具体的には、「経験学習」ができる授業を盛り込み、その中に「道徳」ではなく、演劇やリサーチや地域貢献学習などの項目で、いじめ問題も盛り込めばいいんでしょ。学芸会や社会科(生活科?)で、いろいろなグループ活動やリサーチはやっているはず。それをもうちょっと広げればいいだけで、その中で本人たちに心底学んでもらえるようにすればいいじゃーないの。たとえば、陪審員方式の裁判をその授業で、全員が経験する。被告にもなってみる。弁護士団にも加わる。みんなが万遍なく、いろいろな役割をやってみる。たとえば、HIVに罹ってしまった本人や、家族や地域や学校のケーススタディを体験する。医者の役、先生の役、親友の役、恋人の役、息子や娘や親の役、NPOのAIDS関連者を招いて話してももらう。捨てられたたくさんの犬やネコを殺す現場にいる役場の職員や、飼い主、犬やネコ、捨てるバカ飼い主など、の役割なんかも割り当ててみればいい。年間、犬は10万匹近く、ネコは30万匹近く殺されているんだから。

その中で、誰かがいい悪いを決め付けるのではなく、話し合う場・学ぶ場・自分で自分はどういう人間でどんなモラルを持ちたいか、を選び取る場、を提供できれば、大人にそれ以上のことを押し付ける権利はないでしょう。私は心からそう思います。

あまりに無責任だって?いやいや、マインドコントロールしようとするほうが、私にとっては罪悪だと思うけどな・・・。加害者っていう烙印を押して、いじめに参加した子たちは生涯それを背負って大人になっていくの?烙印を押す役になる先生たちだけが苦しめばいいわけ?また教育委員会や文部科学省の責任を軽減することにならない?参加型授業を作ることって、そんなに難しいことじゃないと思うんだよなぁ。少なくとも、私はカルチャーセンターで、それをやる講師になろうと思っています。

 

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