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日本語の衰退と日本の行方

09/04/2006 にアップした文章です。

 

USから帰ってきたばかりで、母にリムジンバスまで迎えに来てもらい、家に着いたとたん、気が抜けてしまって、またネコのことをあれこれ考えたあと、TVを見ていました。爆笑問題の太田光氏が、『メールを全面的に禁止する』という法案を、TV番組の中で力説していたのですが、私もあのメール文章はまったく解読できなかった・・・。結局、否決されたのですが、内容については一理も二理もあることが多く、この点たちを改良するため「メール全面禁止」は安直であるものの、日本語の衰退にはどうにかして着目していかねばならぬのだろうな、と思った次第です。

奇しくも、コメント欄で校長センセが資料を書いてくださったように;

最近の若者向けの雑誌記事は、800字が限度(それ以上の長さだと、読者:若者:が読んでくれないとか)

ペンクラブのエッセイは1040字が限度(ルールとして。ズラズラ長く書く人がいるから)

私の著作(ビジネスもの)の一篇は、約2千字強。

そしてきくみさんのブログは、ざっと4千字。

という数字に私は驚いていたのです。しかもこのタイミングのよさ・・・。

私のBlogを読み続けてくださる方は、昔むかしの朝日ジャーナル(今はアエラに取って変わられてしまった)なども読みこなせるし、新聞を万遍なく読むのも苦痛とは感じない傾向にあるのではないかと思うわけです。自己申請としては;活字中毒、という方も確率的に多いのではないかと推測します。

では、4千字近く書いている私は、選民主義を(無意識であろうが意識的であろうが)しているイヤなやつなのか?結果的にはそう解釈されても仕方ないところがありますが、実際のところは、第一に自分の日本語のためです。論理的に物事を日本語で書く習慣は、私にとってとても大切です。合理的な面に助けられ、論理的な文章を書くのは英語のほうがすでにラクなので、それを何とかして同じくらいの説得力で、しかも日本語でなるべくきれいに展開しようという日々の練習なわけです。

では、少ない人口にしか読んでもらえないかもしれないエッセイをなぜに毎日しつこく続けるのか?

ひとりキャンペーンだと、マスターベーションなのだと、笑っていただいてけっこうです。TVの番組中の討論でも取り上げられていましたが、そもそも人が自分の考えや意志や感情を100%伝えることは不可能です。ありえません。なぜならば、人はそれぞれユニークでスペシャルなので、一定の刺激であっても同じように受け取るわけではないのです。感性を豊かにしたり、たくさんの刺激を受けるための法則の最も有効性が高いものは、「数こなし」です。英語であろうが、九九であろうが、学習-身につけること-の基礎は、コレに始まるわけです。動機が多少低くとも、たくさんの数に曝されることで強化される。なので、せめて私だけでも、長文を書き続けてもいいのではないか、ひとりキャンペーンの展開中なわけです(爆)。

さみしくないかって?(爆)私は不買運動もひとりで展開できるし、ネコの犬化推進運動もひとりで展開できるし、まったくさみしくないです。いいことだよ!と思ったことは他人の意見に左右されずにやることは、幼い頃から続けてきたので、やはりやり続けるわけです。

本を読めない人、特に長文を読めない人は、倖せのひとつ、とても大きなものを失っているかまだ獲得できていないと信じています。つい先日も、AOLで久しぶりにポーの『モルグ街の殺人事件』を読んだのですが、わずか40分ほどで読み終わってしまいました。速読術を習ったことはありません。以前読んだことも幸いしていますが、久しぶりだったのであまり大した影響はないでしょう。長いストーリーを細切れで読むことの不利な点は、盛り上がったドラマやサスペンスや理解が続かないということです。「あー、思い出した!」と思っても実際のところは、同じ感情のレベルまで、理解力のレベルをコピーしきることはできません。細切れで読むしかない人々は、数ページ戻って読む癖を持っている方々もいらっしゃるくらいです。が、コレにも根気はかなり必要。特に伝記や人の恋の全容などなどを読み理解するには、長文が苦手な人には、スタート地点からの不利がたくさんあるわけです。しかも、陸上競技などと違って、長文が得意な人は短文もかなりしっかり読めるわけです。長距離ランナーで短距離が得意な人は少ないですが(まったくやらない人よりは多いものの)、短距離ランナーで長距離が走れない人が多いのと似ています。

私の偏見が多少ノイズとして入っていたとしても、読書ができない人々は、倖せのひとつを失っており、学習の形態や効率性も変形しており、特に危ういことで、「根気」の問題を指摘できるでしょう。以前指摘されていたことで、「思い通りに行かないとリセットする傾向」が問題視されていましたが、その要素のひとつに根気があります。自分が達したい地点に至るまでに自分で努力をし、能力を開発するには根気が必要です。その根気に関連する能力の発揮具合が、自分だけに向けられている場合はその人の勝手ですが、仕事や人間関係など、たくさんの人々を巻き込む言動にも確実に反映されていくわけです。

面倒なことになってしまうと「もういいや」ととかげの尻尾切りをしてしまうような行為に走る傾向は、若い人たちにありがちだと言われています。自分のしたことに責任を持たず、ただただ現実逃避してしまう結果が、一度うまく行ってしまうと、またもや続ける。これはある種の学習の成果です。負であっても学習は学習。コミュニケーションツールは、母国語ですから、そのコミュニケーションスキルの大きな一部である読み書きがしっかり身についていないがために起きる現象かもしれないと仮定推論を立てることができます。長い文章を読むことができない人は、当然ながら書くこともさらに困難です。そもそも人が自分の考えや意志や感情を100%伝えることは不可能なので、言葉や態度やその他を尽くして他人に物事を伝えようという意志がない限り、とかげの尻尾きりの現実逃避は有効なツールになっていきます。それがいつしか習慣となり、物事は根本解決から遠いところへと移動していきます。

ある人はそれを解消するために料理をし、絵画を描き、音楽を奏でたりします。他の人はものを開発し、デザインし、計算をします。また別の人は映画を作ったり、次世代の子どもにおまじないや遊びを伝えていきます。が、そのどこの根底にもあるのは、母国語という共通言語のマスターと根気です。根気がない人には、何かをマスターすることはできない。たまたま先天性があり、他者を凌ぐほどはできるようになっても、やはり上には上がいるわけです。

こういった杞憂を私ひとりが持っていても世の中は何も変わらないのかもしれません。が、私はひとりでも続けるのよ(笑)。指輪物語にしろハリーポッターにしろ、長い本を読破したあとは、子どもであってもとても気分がいい。私はあのヨロコビを今でも何度でも得たいと願い続けるわけです。なぜならば、私の脳みそとハートの中にあるものは、どうにかして表現し、他人とシェアしたいと願うからです。

が、言葉を尽くしている相手の言葉を聴く耳を持てなかったり、キャッチボールをしているはずなのにボールをポケットにしまいこんでしまったり、という行為を平然としていたら・・・。日本はどうなってしまうのかな、とやはり心配なわけです。さ、これからまた日本のTVに毒されないように、物事をいろいろこねくりまわして考えていく日々が始まります。まずは、日本語の大切さを決して忘れない覚悟ができたので、まともな長文が書けるよう、さらにがんばっていこうと思います。

 

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