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条件つきの愛 その1

11/18/2006 にアップした文章です。

 

世知辛い世の中だと嘆く人々は、実際のところ、江戸時代の文献からいくつも読めます。私はそれ以前のことは真剣に読んでいないのですが、その理由は庶民がモノを書き付ける習慣があまりなかったことのせいです。文盲率があまりに高かったため、書き物を残しているのは「幸運にもいい環境に生れ落ちた人々」なことが多く、生活の格差などを考えるとあまり興味が湧かないせいもあります。ドラマや小説は、かなりなグレイラインがたくさんあるので、生文献による学界論文などが読めるとさらにいいかもしれません。もーね、人を斬るのはすごくたいへんで、2人も斬ったら刀が脂と血と骨のせいでボロボロというのは18歳くらいになってから知りました。それまで時代劇で10人斬りなどを見て喜んでいたことが悔しかったです(笑)。

歴史を学んでいいなぁと思うのは、進化の恩恵を受けていることを改めて感謝できること。冬になって凍傷の心配をするでもなく、夏は暑ければ氷をふんだんに使える。気候を講じた物事だけではなく、文化的なところも目を瞠るほどの進歩です。それがゆえに、サバイバルのために「社会生活を営む能力」の方向性が変わってきたのかもしれません。私のようなLoner(孤独者)傾向がある人間でも、充分に生きていけるわけです。ありがたいことだ・・・。ちょっと考えてみると、それほど広くもない私の交友関係や義理などは、昔ちっくな「自分の手に負える範囲」を守っている本能なのかもしれないです。そうか、私の野心は自分で考えるほどデカくはないのだ・・・←相当な大発見・・・。

そこで考えるのは、私がこうして交流関係を「手に終える範囲」のみキープしていることが「条件をつけないでいい愛」を成立させるのに困難なのか?容易なのか?と、その数と傾向について考えているところです。考えさせられている理由は、昨今の携帯電話でのメル友の数をニュースや街角インタビューで見たせいなのだ。1日にメールの数が100以上ってぇのは、ちょっと信じがたい。すごい子で1000ってのがいた・・・。西さんがニッポンのビジネスマンをしている頃でも、日々のノルマメールは250から300通くらいだったので、ちょっと驚いてしまったのです。私は仕事を始めた現在でも、1日50通くらいです。少ない日は20くらいかな(笑)。

そしてなぜそれが「条件ばかりで成り立つ愛」に繋がるのか?飛ぶよなぁ、考えが・・・(爆)。が、私の仮説・推論としては、「交際範囲が自分の手に負える範囲のほうが、条件が少ない状態での愛を成り立たせることができる」というもの。この愛というのも、愛情が通う関係ということで、人情でも性愛でも親愛でも、すべての愛情についてを指しています。逆に、ネットや携帯での広範囲での交際とその増える人数は、愛情が希薄になったり、条件付で成り立つ関係が多いのではないか?という推論に繋がります。

聡美ちゃん世代が過渡期なのか、それとももっと早いうちにどんどんその交際範囲の広さに伴い、個々の人間関係は希薄になっているのか、やはりコレも地域差や個人差に支配されまくってしまうのか・・・。こうして数的なことを考えていると、どんどんドツボに嵌まっていきます。だったら考えるな!ってところなのですが、いやー、止まらないのよ(笑)。

私は愛情に条件をつけるやつらが最も苦手です。「愛という名の下に」何かをしようとするのは、たいへんにかっこわるいことである、と考えているのです。特に対象物や対象とする人を必要とする愛を持ち出されると、たいへんに不愉快になってしまうのです。ここで私に矛盾を感じる方々がいらっしゃるかもしれません。私は健康と愛がこの世で大切なもの、というふうに謳ってきています。でもやっぱりちょっと違うのよ・・・、条件付の愛ってぇやつは。

条件:(1)物事を決定したり約束したりするときに、前提あるいは制約となる事柄。(2)物事の成立あるいは実現に必要な事柄。ある事態を引き起こす原因。(3)〔法〕 法律行為の効力の発生を制約する、実現が不確実な将来の事実。(4)箇条。項目。

なんだか堅いのですが、ビジネスでもなく愛情に対峙しているのに、条件をつけるのはどうもやはり美しくない。究極のところが、西さんが車椅子や半身不随や痴呆症になっても別れないかどうか?という問いなのですが、私は別れませんね。西さんが存在する限り、彼が他の女性と人生をメインに歩んで生きたいと思わない限り、私は西さんとは別れるつもりはありません。死ぬまで親友なのは、もう決まりきっている事実ですし、そこから本人がどうあがいても逃げられるものではありません。

私は誰かとの関係を切るということを自分からはしてこなかったのが、この「条件付の愛情」をとても嫌うせいなのです。相手の条件に私が見合わないのであれば切ってもらってけっこう。が、私はそもそも条件などたったひとつしか出していないので、それさえ守っていれば裏切られることなどないわけです。

「あなたがなりたい自分になろうとしていること」

それに私という人間が邪魔であれば、その人が去るのも切るのも致し方ない。私がその人になってほしい人間像などは持っていないのであるから、その人のなりたい自分の中に私を阻むものがあれば去るしかないわけです。これまで私から切った人々は少数ながらいます。それはなぜなのか?その人が心の底から欲している「なりたい自分」と裏腹な行動をし続けており、何度「なりたい自分」をアピールしてもダメだった場合。アピールしている最中に私が切られてしまうことが多いので、確信犯ではあるのですが、「いやいや、私がそうしろと命令したわけでもないし、そうしてほしいと提案したわけでもないし、そうあるのが正しいと言ったわけでもない。あくまで自分がこうありたい、こうなりたいと話したことだよ」というわけなのです。自分を裏切り続ける人を見続けていくのはつらい。ジャンキーなどがそうです。私には薬物依存症を救う器量も知識もないので、さらに近づかせてもらえないのであれば、相手から切られるのを待つか、何度も言いたいことは伝えて切るしかなくなります。

が、この世には条件つきの愛が多すぎるよ・・・。「勉強してくれたらママはとてもうれしい」「いい成績だから、がんばったから大好きよ」「養ってくれるなら結婚してあげる」「同じシュミで楽しいから大好き」「理系の頭だから、私にないものだから大好き」「俺だけを信頼してくれるから好き」「秘密を守ってくれるから好き」「浮気を許してくれるから好き」などなど、キリないですね。

私が怒るときには、「ねぇ、こんな自分でいて楽しいの?どこがうれしいの?」と問い詰められるので、西さんも母もその他友人もたいへんに苦痛だと思います(笑)。「どんな自分になりたいって言ってた?これが、あなたがなりたがってた自分なの?」などと言われたら、私だって今本当につらいっすよ(笑)。ネコたちと暮らしたいですもん・・・。でも、少なくともそれに向かって「なろうとしている」ことで誇りがくじけていない状態です。

好きなタイプの異性を考えるときに、あれこれ優しいだの強いだの経済力があるだのきれいだの、といろいろなことが言われていますが、本当にそんなことでいいのか?と近頃思うのです。そんな条件で愛情生活を決めちゃっていいのか?しかも、広範囲の浅いつきあいをしていて、その中から選んじゃっていいのか?と。

ふと、「注射我慢して泣かなかったらガム買ってあげる」と言った母を思い出しました。泣かなかったのに買ってもらえなかったことのほうが多かった(爆)。こうして愛情を条件つきにすると、行動の基準を条件つきにすると、いいことなくなると思うんだよなぁ・・・。今週の土日はひとりで仕事なので、たいへんに暗い気分だったのですが、いいこともあったので立ち直ってきています(笑)。まだまださらに数的見地を見てみたいと思います。明日に続く・・・。

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