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死刑制度と死刑執行

 06/23/2006 にアップした文章です

 

ここのところ、山口光市母子殺害事件の裁判のニュースがトップを飾っています。真剣にニュースで、事件とその後の軌跡を見させてもらいました。報道内容に偏りが多いとはいえども、なるべく濁った雑音を省き、私なりに事実を構成して、咀嚼したところです。

私は過去18年、陪審員制度のある国に住み、州や郡規模で行われ、そこでの裁判が上に上がっていく事件を数々見てきました。自分が被害者になってからは、少し粘着気味に、憑かれたように見ていた時期もあります。自分の痛みよりも大きな痛みが外にあることを知ると、自分をまた叱咤し、幸運に感謝する日々が続きました。

私の個人的ポジションはこうです;日本において、過渡期にあるうちは、「死刑制度」はあり。が、死刑執行は手を尽くして回避するのがベスト。

米国においては、死刑廃止をどんどん勧めたほうがよい。死刑執行はマイナス事項のほうが断然多い。

これについては、正否があるわけではありませんので、意見として読んでいただけたら、と思います。

日本の司法行政について、18年変更がなければ、判例を重んじる制度であることで、陪審員制度とはまったく質が異なります。判例についての疑問点は、50年前の社会環境と現在の状態が違うことを加味できない弱点です。今件も、18歳と30日の被告に対して、少年法を重んじるべし、という弁護の声が大きめにアピールされる点もあり、それに反して30日はきちんと過ぎているという主張もまったく筋が通っていることです。「殺人という罪状には、殺人という同等の刑が科せられるべき」というのも、一理あります。「目には目を、歯には歯を」ですが、このハムラビ法典は誤釈されていることが多く、実際には、「目を失わされたものには目を補うための、同等かそれ以下の保障を」という意味で、復讐行為を鎮めるためのものでした。多くの場合は、経済的保障を指しており、実際に目をくりぬいたりすることを禁じるためのものでした。ハムラビ法典が正しいかどうかもまた本論とはまったく関係はないのですが、これを旗印にするのはお門違いだということです。

復讐の気持ちについては、やり始めるとキリがない。そんなことを社会的に赦していたら、世の中は悪意や憎悪で満ちてしまいます。江戸時代にはあだ討ち制度がありましたが、それもほんの限られた人口に許され、届出を許可されるまでには複雑なシステムになっていました。満員電車の中で足を踏んづけられて踏み返す、というような単純な行為ではなく、生命に関することです。人ひとりの人生を左右することです。

私が、死刑制度に反対なのは、第一に上告の権利を与えられているがゆえに、一審で「終身刑」になるよりは、ずっと納税者への負担が大きくなることです。日本の裁判予算案を見たことがないので、はっきりは言えませんが、最高裁判所までの国選弁護士や検事や裁判長などの手当てすべてや、建物の割り当てによる費用などをすべて入れると、かなりのお金になるはずです。

アメリカではコレが最も大きく誤解されている点で、「死刑を科して早いところ執行してしまえばいい。あんなやつらを納税者が養う必要なんかない」というもの。フロリダ州で行われた「シリアルキラー」というボキャブラリーの根源であった、Ted Bundyの死刑執行までの裁判には、フロリダ州は8ミリオン(当時の為替に直すと11億2千万円)もの莫大なお金を費やしました。最初から終身刑にしておけば、彼が80歳まで生きたとしても、40数年間で、わずか2千万ほどしかかからなかったはずです。

他にもたくさんの死刑囚をテキサスやカリフォルニア、フロリダなどが生んでいますが、これらの裁判には、人の当然の権利としての司法制度内の上告や審議会があり、執行されるまでには、『志願』という最短でも3年はかかります。死刑囚は労働ができません。危険とみなされて独房に入ります。がゆえに、彼らにつく刑務官の数も増えるのです。それも納税者のお金から出ています。

死刑囚ではない終身刑囚には、労働も課せられ、自給自足に近い施設も全米にはいくつもあります。農園を造り、外注された工事現場などに赴き労働し、自分たちで料理をし、クラフトや高校卒業検定などのクラスなどを設け、きちんと機能しているところも実際にあるわけですから、「不可能」とは言えないわけです。その中での「贖罪」への道を模索している宗教関係者や財団なども、身を粉にして働いています。

精神病病理的なシリアルキラーなどは、映画『羊たちの沈黙』などにあるように、臨床のケーススタディとして大いに使うほうが有益です。実際に、FBIの心理分析官などは、定期的なインタビューを行っています。1994年代に処刑されたJohn Wayne Gacyの脳はスライスして、標本として保存されています。本人からの寄付でした。薬物注射による処刑だったためにできたのですが、絞首刑や電気椅子などでは脳細胞はきれいに保存されません。今の脳医学では、異常性はまだ解明されていませんが、保存しておくことに意義はあります。Patricia Cornwellの検屍官シリーズの最新版;Predatorでは、MRIによる生きたままの脳のデータを取るために、科学者が奔走している姿が描かれています。本人の同意さえあれば、私は、そのほうがよっぽど社会のためになると思うのです。彼らしか持っていないかもしれない生身の異常性があるとしたならば、それは人類が続くために、よき社会にするために解明できるならばしたほうがいい・・・。

さらに、死刑制度がある国のほうが、殺人事件が多い、という統計は、グリーンピースだけではなく、警察や統計局などの公的資料でまとめられています。結論としては、「死刑があってもそれが抑止力にはまったくならない」ということです。

大体、よっぽどの知能犯でなければ、広いアメリカであっても、死刑制度のある州に引越しをして連続殺人をするケースはごくごく少ないです。Jeffrey Dahmmerは死刑制度のないところでたまたま17人の少年を殺し、数百年の終身刑となりましたが、結果的には刑務所内での勤務中、囚人仲間に殺されてしまいました。刑務所で暮らすのがどれくらいつらいのかを物語っている事実が垣間見えます。

死刑という刑にならねば、「自分も殺される恐怖」を味わえないという主張も納得できます。が、生きながらの地獄もやはりつらいと思いますし、比較にはならないのではないでしょうか。私には、目には目を、になっているケースが多いと思います。

さらに、殺人者を生んでいるのは社会全体、そのメンバーである私たちひとりひとりにもやはりいくばくかの責任はあるわけです。政府が行う殺人に共鳴することは、私はしたくないと思うのです。その責任の取り方が、「黒い羊を殺す」という結論なのは、私には両手を広げて賛成できません。遺族の気持ちはわかりたいと思います。

私も被害を受けたことがあります。生きていられるからこそ、トンネルの先の光を見つけることができました。「死んでしまったことがないからわからない」と言われれば、本当に等しい、同じ体験ではありません。私は被害に遭った直後も、加害者に対して「憎む」というほどの強い気持ちを持たず、相手への憎しみはほんのわずかな悪循環をめぐったあと、自分が被害に遭ったことを責めました。そのせいで日常生活を日常として暮らせるようになるまで3年もかかりましたが、今、結果論としてはよかったと思っています。

死刑制度と死刑執行は、まだまだ考えていかねばならぬ分野です。私たちひとりひとりが、自分の意見を持つ時期に来ているのかもしれません。

 

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