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沈黙はぬるいシャワー?冷たい滝?

10/03/2007 にアップした文章です。

 

よく話す母と、出入りの激しい西さんと、ネコにしてはかなり静かなネコたちと、というメンツで暮らしていると、このコントラストにはびっくりすることが多いのです。西さんも出入りが激しいので、連絡事項は多いのですが(彼はカエルコールは必ずする人である)、飲まないと必要なことすら話すのは億劫なほどの無口なので、私は大人になってから、沈黙の心地よさを解したのです。それまでは、自意識過剰だったこともありますが、「いじめ」でよくあるように、沈黙は冷たい滝だと感じていたのですが、今では沈黙は心地のよい温いシャワーのように思えています。ただし、無条件なわけではなく、揃ったコンディションは必須。

いやー、小さい頃の我が家はにぎやかだったです。母の母とその内縁の夫、両親と弟のほかに、叔母が2人と叔父が1人(父の弟妹)が、必ずひとりは同居しており、それが私が小学校4年生まで続きました。しかも、その人数ではじめのころは2部屋。それが足りないことが自明になり、もう1部屋を、大家さんに増築許可をもらい、父がほとんどひとりで建てたわけです。父は中学卒業以降、数年、名古屋に大工修行に出ていたので、けっこう上手だった・・・。3部屋に大人5人に子ども2人。今考えると、とてもとても狭く、今の私では到底耐えられない状態だったのです。母ももう耐えないだろうなぁ←耐えられるキャパは持っているにしろ、もう精神的に耐えることを選ばないと思うのだ。子どもの頃、そんなにぎやかさだったので、「音のない世界に逃げることは可能か?」と、暇さえあればやっていたのですが、(当時は知らなかった)自分の血流の音をとても静かに感じることもあれば、ゴォーーーォっという音にイライラし、「音のまったくない世界などない!」と怒ることもあったのです。が、そんなとき、父は「ヘレン・ケラー」を持ち出してさらに私を叱るのでした・・・。そりゃ、そうなんだけど、ありがたいと思わなくてはいけないんだけど・・・。

子どもの頃から私の舌は滑らかで、口数も多く、ボキャブラリーも必要に応じて、どんどん増えていきました。大皿料理しか出さない食卓でサバイバルを試されたのと同様に、たくさんの人々が好き勝手な音声を発する中で、口を開かないと、invisible, unheardな存在が長く続くと、必要なモノも手に入らず(たとえば洗濯物だとか。ただでさえ与えられている数が少ないのに、雨や紛失などでよく手に入らないことがあったのよ・・・)、やはりどうしても自己主張をしなければ、サバイバルはできなかった・・・。

好き好んで話していたのかどうか?と問われると、今となっては疑問です。なぜならば、私は、木の上でも川原でも図書館でも、ひとりになることをむしろエンジョイしており、閉塞的な家の中よりも戸外を好む傾向はあったし、物心をついた頃から今日まで、「もしもPhobia(恐怖症)があるとしたならば何?」と問われると、平均値ほどでしかないのですが、狭いところがイチバン苦手です。英語ではちなみに、Claustrophobia(=閉所恐怖症)と言います。

小学校3年くらいからは、早朝ドッヂボールという名目で、ひとりで朝早く通学するようになりました。子どもの足で軽く20分以上ありましたが、私はかなり満足していましたねぇ。うるさい=下品、という価値観を持った人に出会ってしまったのも、小学校3年の夏休みくらいだったので(あるいは、初めて、子ども嫌いか、子どもに話しかけられてうっとうしがる他人に出会ったというだけなのかもしれず・・・)、自分も「静か」を体感しようと決意したのかもしれないなぁ。そのせいで、没頭できる読書はどんどん好きになったのかもしれません。

他のいろいろな自分の特性から、他人と交じり合って集団行為をするのが苦手だということが、歳月につれて表面化してきます。そうなると、もうひとりで行動することがどんどんできたほうがいいわけで、天国のような孤独は増える。ただし、それを他者は孤立と感じる。私だって、追い込まれた孤立はイヤだよ(爆)。けれども、自らそれを選んだ場合には心地よく、10歳くらいにはいっぱしのLoner(一匹狼)の基礎素養が身についていたかもしれず・・・。ただし、その後からしばらくまだ奮闘しており、中学卒業くらいまでは、Peer Pressure(仲間抑圧:http://cst6480088.exblog.jp/3801506)の洗礼を私も受けていました。

コレを基本にして、バイトに明け暮れたり、渡米したり、西さんを選んだり(やはり何度も別れるという選択肢が生まれることもあったのですが、これまでずっと別れないことを選択し続けてきたわけです)と、沈黙は温いシャワーのように心地よいということが、軌跡にも如実に現れています。

だからこそ、帰国してイチバンたいへんなのが、音なのかもしれません。

聴覚過敏なのか?と、日本に戻ってきたばかりの頃はよく思いました。とにかく、すべてがうるさい。車の音や電車の音、人々の声、スピーカーから流れる意味不明な音、そこらじゅうで流れている電子音や電気音や排水や空気の流れる音、などなど、アメリカ生活では邪魔に思えなかったものが、邪魔に思えたのは、おそらく空間の狭さから来ていたのでしょう。私の耳はおそらくかなりいいほうなのだろうと思います。母の耳が少し遠くなってきているので、それと比較してるんじゃないかって?いえいえ(爆)。歌を歌ったり、英語や中国語やスペイン語の発音を聴き取ったりで、かなり感じる場面が多いです。が、聴覚過敏なのかどうか?精神的なことが影響はするんでしょうね・・・。

最後に、森の中で、鳥の声と葉音と風と自分の足音だけを聞いたのがいつだったのか、ちょっと思い出せないくらい、遠い昔のことのように思えてしまうほど、音が多い!深夜にひとりでエッセイを書いていたりしても、PCの音は確実です。冷蔵庫もうなっているし(爆)。そうなのよ、うなりに聴こえちゃうんですねぇ・・・。

ネコたちの寝息は平和な音なのですが、ゴロゴロもたいへんにうれしい音なのですが、学校から流れる下校放送などや、子どもたちの笑い声なども和やかな音なのですが、マイナス要素を持っている音は、この世にけっこう溢れているわけなのよ・・・。

ソプラノな声を持つ私ですらむかついてくる、女性の奇声や、ダラダラと切れ目のない発音など、電車の中だけでも耐えられないくらいにイライラすることがあります。そこに電子音・・・。消音していても作動しているとなぜか聴こえてくるんですよねぇ・・・、携帯や液晶画面やiPodからの音。電車があれだけうるさいのに、電車には寛大なのに、どうしてか音を区別できるせいで、アレもイライラになる。

そうなると、やはり沈黙を求めたくなり、家で母がひとりでさみしかったために、ガガガーッと機関銃のように話してくると、さらに疲れが増してしまう。私の耳に入れた数々の音の1日量などは、彼女には関係ないことなのでつらくも当たれないのですが、正直疲れが増すことは確か。最近、そんなことでは、私の体調を健康にキープできないと思い、ひそかに耳栓を買いました(爆)。買った時点で、「もしかすると私は聴覚過敏なのか?」という疑いが出たのですが、それよりも「さらに何か精神病があるんじゃないか?」と不安になったことは確かです←大丈夫だとは思うんだけどねぇ・・・。

そこで少し考えたのは、日本の都会に生きる人々は、私が今感じていることを、もう何年も何十年も耐えてきて、順応しているのだろうな、という仮説推測。だとしたら、すごいって・・・。生理的機能を少しずつ損ないながら、それでも生き延びているので、これが進化の鍵になるのかもしれないですな>ほら、キリンの首が長くなったとか、豚の鼻が伸びたとか、そういう類の小さい積み重ねの進化なのだけれども、数十万年も費やさなくても、確実にヒトの視力は悪くなったし、聴覚も来るんじゃないかと・・・。

私はやはり心地よいシャワーが欲しいです。冷たい滝には感じませんから・・・。ええ、私は相手が話しかけてこなければ、あるいは話すほどの事件が会う以前にあって報告したいか、相手に謎があって質問するか、以外、同席していても何分でも何十分でも口をききませんよ(笑)。

 

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