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犯人探し風潮

10/18/2007 にアップした文章です。

 

休んでいたくせに口だけはいっちょまえ(一人前)なのですが、二日酔いでぼーっとしていた1日に、亀田家の記者会見があり、その翌日である今日はその記者会見批判で、ワイドショーは大騒ぎ。私はワイドショーを観ないほうがいいのですが、母がいつも見ているのでついている・・・。誰がいい悪いってぇ判断は、限りなく当事者のもので、その次に影響の余波のエネルギーや結果に伴う大きさによって、それぞれが持つものだと、朝青龍事件のときに、学ばなかったのだろうか?しかも、専門家だとか、お金をもらって記事を書いたり、出演料をけっこうもらっている人々は、これらについて学んでいるのだろうか?と、謎は謎を呼ぶのであった。だいたい、漫画家のやくみつる氏はなぜにケンカ相手に立候補したんだ?あの関連性がまったくわからず・・・。40年くらいボクシングを追っかけてきたとか、親友がボクサーだとか、何かあるのだろうか?不思議だ・・・。知っている方がいらしたら教えてください。

この犯人探し風潮というのは、私にとても危惧を与えます。なぜならば、あと1年半もしないうちに、裁判員制度が始まるからなのである。こうして、物事をあっさり「善悪」で考える人々には、裁判員というのは向かない。向く・向かないというよりは、社会がいい方向へと目標を掲げていかないという言い方のほうが正確なのでしょう。何度も書くようですが、死刑制度がある国のほうが、1.5倍から数倍、殺人事件は多い。これは、「悪いことをすると死刑にしてやる!」と叫ぼうとも、まったくのところ抑圧因子にはならないということを示しており、むしろ、国民メンタリティが、「私に火の粉が降りかかってこないように、異分子は刑務所に入れる。死刑にする」ということに向っていて、予防策や暮らしやすい生活様式や文化などを創ろうという意識が低いことになります。そんな国民のひとりであることを、私はとても恥ずかしいと思うので、死刑制度は「過渡期でしようがない」とは認めても、「死刑執行はもっとオープンにやるべき」「死刑執行はなるべく避けるべき」という態度を取っています。そのために、何ができるか?このエッセイにしつこく登場させたり、そういったグループの方々と話をしたり、著書や記事を読んだりしています。

犯人が明らかに決まっていたとしても、その動機や前後のイベント解析や、ヒトの歴史などにも注目して、妥当な刑罰(この場合は、年数になることが多い。死刑や無期懲役事件に当たる人はある意味、宝くじ的にラッキーでしょう)を与えることが困難になってしまうようなメンタリティを、そもそも裁判員が持っていたのでは、どうしようもないのよ・・・。

そうなると、加害者側への「更正チャンス」を根こそぎひっさらってしまうことになり、日本が弱点として明らかに持っている更正プログラム推進に、またもや重しを与えることになるわけです。たとえ、現場の人間たちがどんなにがんばろうとも、どうにかして予算を分捕ってこようとも、これでは、プログラムを与えられる側のそもそもの学習意欲がなく、効果が期待できないわけですよ。ええ、ええ、私は英語講師なので、この準備がいかに大切なのか、よくわかっています。親に連れられて無理やり習っている子たちの心をほどくだけで、相当な根気と時間を要しますし、失敗することもままありますから。他にも、心理カウンセラーとしてもこれは以前書いたように同様で、「自分でお金という代価を払ってまでも矯正したいと思うかどうか」が問題のバロメータになっており、セラピーに来る人々は、その段階ですでに7・80%ほど直る方向に向いているわけです。が、受刑者の場合は、国民の税金でまかなわれており、本人の純粋な「悔悛・贖罪」に左右されます。この場合、裁判での経験というのは大きい割合になるのは、言うを待たぬでしょう。

これを踏まえて、亀田親子をどうしてこんなにもつぶしにかかるのか?というのは、自称ヒューマニストの私としては、たいへん気になる風潮なのです。いっぺんにダメ出しをしたあと、誰かがちゃんと受け止めてあげるんだろうか?それとも、人気があるときだけちやほやしておいて、Money Making Machineは壊れたからもうゴミ箱行きなのか?と不思議なわけですよ。明らかに、今回の反則連発は、亀田一家の落ち度ばかりです。それについての記者会見も、確かに理想形ではなかったです。というか、大毅選手は朝青龍くらいに心身消耗していたように見受けられたのですが、よくまぁ、あの本人を目にしていろいろな責めを言えるなぁ、と、鬼のような態度にもけっこう感心しましたね。まぁ、それがプロだというならば、スポーツ記者をやるよりは、戦場記者でもやればいいのに、と思ったのですが・・・。

もちろん、これまでの彼ら一家の歴史というのがあり、「つぶしたい」と心から思っている人々も実在するんでしょう。が、そのつぶしたい人々の動機というのが、いまひとつ不明瞭。たとえば、対戦相手だった内藤選手は、とても寛大です。彼は、「オレが何か大毅選手に言ってあげられることで、彼があの落ち込みから救われるのであれば」などの発言をしています。

(しかも、同じ日にアメリカ議会がダライ・ラマ14世に、金メダルを授与したという映像が流れて、やっぱり彼の神々しいくらいの寛大さと、この「一家つぶし」のコントラストに気が行くんですねぇ・・・。ダライ・ラマの英語での受賞挨拶を聞いて、あの福福しい顔を見ただけで、涙が出そうになりましたね・・・。しかも、コメントの中に、大国である中国に対しての思いやりまで入っている・・・。でっかいヒトなのです。カケラの嫌味もありませんでしたから)

そもそも、ボクシングを愛する人がボクシングを冒涜されたからといって、どの程度の権利が生じるんだ?と、私などは思えるのです。私も、大場政夫の試合を見たらしいんですが、それはさすがに記憶にはなく(父が言い張っていただけだと思う。母も同様に、0歳児の私をおんぶして、上野の森美術館でミロのヴィーナスを見せた、情操教育になった、などと言い張る←こういう一家なのよね・・・・)、自分でも日本だけではなく、世界戦もたくさん見てきたし、ボクシングは好きですが、特に誰かを制裁する側に廻るほどの立場だとは思っておらず・・・。意見は言いますが、制裁は当事者でどうぞ、と思います。

このへんが陽さんとは違うんでしょうね。陽さんは、どんな意見であっても活発になることはいいことだとおっしゃる。私は、ヒトひとり(この場合は家族なので複数)の人生を左右するような発言は、もうちょっと慎重にしてもいいと考えるのです。英語圏に長年いて、匿名や「とりあえず発言する」ということも、対象によってはいい結果を得られることも多いのだけれども、対象が人の人生そのものについて他人がとやかく言うことなのか?というのは、やはり根底にあります。「プロであるならば」と陽さんはおっしゃるのですが、それならば、タレントだってもうちょっと制裁を受けてもいいような(爆)。コメンテーターと言われる職業の方々や記者だって制裁にあったほうがいいような(爆)。

しかも、朝青龍がいつ戻ってくるのか、どうなるのか、みんな今では知ったこっちゃーない風潮になっており、この熱し易く醒め易い流行もどきの制裁は、どうなっちゃうのかなぁと、不安でたまらず・・・。斉藤さんの稽古中の「かわいがり」についても、まだまだトップで制裁を加える態度なんじゃないんだっけ?とも思うんだけれども、そうでもないらしい・・・。不思議である・・・。

昨日は、二日酔いで頭がぐるぐるで、胃腸がむにゅむにゅと合唱をしており、本当に1日を無駄に過ごしてしまったのですが、またもや忙しい日々に戻ります。西さんからも誕生日プレゼントで、企画書の直しを急いでやってもらいました(笑)。明日は、英語講師仲間とランチです。わーい!ここのところ、ツキがあるとしたならば、けっこうツキを感じているところなのです。けれども、犯人を捜したあとにどうするのか?というこの風潮は、やはり気になりますなぁ。みなさんはどういうスタンスですか?

 

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