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社会生活における普遍性

Oct 13, 2005に書いた文章です。

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最近、AOLの掲示板で、しゃしゃり出てしまった自分のせいで、投稿に明け暮れています。1日2回も見回りしており、責任を全うするのはけっこう難しいぞ、とため息混じり・・・。始めてしまったので、途中からしか読んでいない意見にも、誠意を以って答えていくしかないわけです。ウルトラC級の特に難易度の高いことを書いているわけではなく;「ぶたないで!」と頼まれたら、ぶつのはやめましょう。ぶたれたときには、しっかり苦情を言いましょう。誰かがぶたれているのを見たら、自分だったらどうするか?と考えてみるのはどうですか?と、お砂場で習ったことを繰り返しているに過ぎないのですが、お砂場から出て行けという理不尽な意見も加わり、「なんで?なんでこんなことも幼稚園で学ばないで大人になってんの?」と、驚愕さえも覚えるけふこの頃です。

ここにはっきりそのやり取りの所在を書き、私が誰なのかを書くことで、私はここで悪口を言っているつもりはなく、掲示板にも本人に向けて、コレにごくごく近い主旨を、言葉を換えて書いていますので、ご安心を。

普遍性を持つものは、とても少なく、それを「常識」「当然」「絶対」「みんながそう」と決め付ける態度に、辟易してしまいます。自分が生まれて育って歩んできた道が世の中の基準。コレ、どうにかなんないものですかねぇ?私は前出のエッセイで書いたように、干支の違いや、自転車を買える家や乗れるようになる時期、ひらがなとカタカナの学び方、盆踊りや玉入れ、いろいろなことで、この違いを、すでに幼稚園で学びましたけど、それをどうして大人になって活用していけないんでしょ?

たとえば、人殺し。私は人殺しという行為すべてを悪とはできません。人を殺してしまったら将来、自分の世界観が大いに揺れることがわかっているので、私は今後も人殺しはしないと決意していますが、アクション映画のTerminatorみたいなことがあったら「100%殺さない」とは言えません。それは、決意の中の例外です。いろいろな人殺しがあります。テロもあれば、シリアルキリング、保険金殺人、依頼殺人、交通事故もあり、事故もあり、正当防衛もあります。それぞれのケースを詳細に検証してからでないと、正当性と不当性を見極められないがゆえに、裁判が存在します。すべての殺人を100%悪としていない世の中に住んでいるというのに、それでも、大雑把に「殺人は悪である」と、いとも簡単に言い切ることができてしまうのはなぜでしょう?自分がどこの誰とも知らぬ誰かに、首を絞められている最中に、もがいていて、手がナイフや石に届いたとき、使わない人のほうが多いのでしょうか?それとも?そういう意味でも、すべてに正解があると、簡単に言えてしまう態度は、私には信じがたいことです。

日本に定住しなくなって、ずいぶん長い歳月が経ち、父が死んで以来、11年ほど、私は1ヶ月以上、日本に続けて留まったことはありません。そういう意味では、掲示板でのやり取りやチャットなどは、かなり広い意見を選民せずに交せる場所でした。私は、「日本はダメになった」「近頃の若い人たちは」というお決まりな文句を言うのに、たいへんな抵抗があります。私も純血日本人であるし、日本人として育ったことも、これからどうあがいても変えられない事実であるし、何より日本を愛しています。が、事実、日本が変わっていることも否めません。夕立が来なくなっていることや、コロッケを1個おまけしてくれるお肉やさんのおばちゃんもほぼ見なくなりました。そんな想いを、簡単に、「日本はダメになった」「イマドキの若いもんは」とはとても言えないですね。こんなところが、こういう場合には、こういうバックグラウンドや傾向が、こういう統計で、こんな影響が、などなど、いろいろなことを考えます。そのパチパチ考えた上で、「当然例外はあるとは言えども、こうだよね」とは言えますが、「絶対」「みんな」「当然」「そんなの常識」などなどの簡単な表現は使えません。私が「絶対」を今のところ使えるのは、「生命体はいつか必ず死ぬ」だとか、「ある現象を説明するための証明は可能だが、無(ゼロ)であることを証明することは不可能に近いので、天才以外には絶対にできない(たとえば、神はいない、という証明)」「生命体は度合いに個体差はあるが、絶対に変化する」などくらいですね。

もうひとつの、社会的普遍性を証明できない事柄に関して、姑息に使われるのが、「多数決のマジック」です。「みんなそう思ってる」のみんなって誰よ?(爆)コレについては、私は母に自転車が買ってもらえなかったときに学びました。「みんなが買ってもらってるのに私だけ買ってもらえないなんてつらいよ」と訴えかけたところ、「みんなって誰だか言ってみ」と問い詰められ、結局4人しか挙げられなかったですもん(笑)。こうして、私の知恵は鍛えられていったわけです。母は近所で、同じ小学校に通っている子どもたちの名前を20人近く挙げて、「そん中でだってたったの2人だけじゃない」とさらっと却下しましたね・・・。「同じ学年に4クラスあるでしょ。40人づつのクラスなんだから、120人じゃない?その中の4人はみんなじゃないよ」と(笑)。母は、貧乏だから、と言い疲れていたんでしょうね。彼女もこうして賢くなって行っていたはずです。

多数決で、ある違う意見を取り囲むのは、とても卑怯です。私はよくその憂き目に遭っていました。おかげで強い意志を持つことができるようになったので、今となれば感謝ですが、その当時は苦悩の日々でした。とは言え、私の苦悩回路の耐性は幼い頃はかなり短かかったので、その場で楽しいことを見つけて、休憩しておき、また立ち向かう、を繰り返していたんですが・・・。うーん、その名残は、今でもけっこう垣間見れるかもしれない・・・。

私は中学2年のときに、卒業生である高校1年の元不良グループに公園に呼び出され、取り囲まれ、いちゃもんをつけられたのですが、そのときでさえ、怖かった心を抑えて、「何で1対1じゃないんですか?」と口を利く生意気な?冷静さがあったので、今となっては、多勢に無勢でも何とも思いません。その時も殴られたりしないで済みましたし、その後、執拗な追いかけもなく、それっきりで終わりました。歯がガチガチ鳴るくらい怖かったのですが、口を一文字にきゅっと結び、言いたいことは言わないと、と堪えていたら、解決してしまいました。

笑い話としては、私はいつもLoner(孤独者)なので、誰かを取り囲んで、多勢に無勢をしたことは金輪際ありません。一度くらいは体験してみたいもんですが、チャンスに恵まれません。仕事などの会議形式であっても、私の意見が少数意見になることが多いし、小さい頃から鍛えておいてよかったなぁ、とつくづく思います。Ice Hockeyもメジャーリーグにはなっていますが、各種メジャーリーグの中でも少数派ですし、特に女性で日本人で、とどんどん区分をつけていけば、恐ろしいほどの少数派なんでしょうね・・・。

子どももいなければ、妻らしいこともしてこなかったし、学生をできることなら生涯続けたいという目標のために行動しているし、いろいろな社会生活場面において少数派で来ました。が、居心地が悪いだとか、臆病になることは、今はもうまったくないです。30代の前半頃までは、駐在妻の会などで、私もそれなりに未熟なイライラや、グルグルとした堂々巡りをしたものですが、そこから抜けることができたので、もう大勢は怖いことはないですね。

自分が考え抜いたことであれば、誇りを以って突き進む、というのは、すでに私の癖なので、掲示板でもリアルでも、どんな小社会でもなかなか変えられない頑固なところです。が、ここは頑固で大いにいいんじゃないか?と、にんまりしています。

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つい最近、生徒さんと話したのですが、内向的な人は、あれこれと外的現象を話すだけで留まらず、ひとつの話題を深掘りしたい傾向があるよな、ということ。私は心理テストでも相当に内向的で、この商売を果たしてできるのか?という数値が出るほどです。多数決にはビビリまくっていたのに、それを外に表象しないように意固地にやってきました(笑)。ですから、こうしてアレコレ自分の脳内で考えることは楽しい。そのいくばくかをレッスンで展開できる題材があることが楽しい。そして自分が存在する限り、この脳内深掘り探索はいつまでも続くんでしょうね・・・。

 

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