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能率がいいということ

04/27/2007にアップした文章です。

私は効率という言葉を使うのですが、母はどうも能率というのが好きな言葉のようです。どう違うのか?を、今朝、満員電車の女性車両に揺られて考えていたのですが、やはり辞書が必要なようだなぁ、と、途中でギブアップし、『真田太平記』の続きを再開しました。信じがたいことに、私は900ページ弱ある大成を、通勤に持って行っているのです。でも、それくらい根性が決まっていると、満員電車の中で25度角ほどで開いて読んでいても、みんな嫌な顔しませんね←無理やり周囲を説得させるというのはいいことなのかどうか・・・。さらに、今朝は、間違えて京王新線のほうに乗ってしまい、新線新宿駅だったので余分に歩いてしまい、すごいエクササイズでした。ひぃ。新宿駅から、都庁近辺の副都心までの朝の通勤風景は、絶景なのだ。

ここでもまた能率ということを考えてしまった私なのである。うーん、おそらく、私の脳と性格は、何かについて「中途であっても答えを見つけないと気がすまない」ので、何を見ても強引に繋げて考えることになっているのでしょう(笑)。

能率:(1)一定の時間内にすることのできる仕事の割合。仕事のはかどり具合。効率。(2)〔物〕 モーメント(3)に同じ。
モーメント:(3)定点に関するある量の効果を示すために、定点からその量までの距離をその量に掛けたもの。力の回転の効果は力のモーメント、運動量の効果は運動量のモーメント(角運動量)などで表す。能率。
効率:(1)機械作業などをする際に、その仕事量とそれを行うのに要したエネルギー量との比。(2)(費やした労力に対する)仕事のはかどりぐあい。能率。

英語ではどちらも、Efficiencyなのです。結局、日本語を眺めてみても、どちらもさほど変わりはないように思えるのですが、やはり違う・・・。能率の能とは、Abilityなのだから、そもそものAbilityが違うということをわかってその率についてを語っている前提のある言葉なんだろう・・・。ところが効率の場合は、一定量(たとえば機械だとか、むしろ主語・主体を仕事や目の前に詰まれている課題)にして考えているということが、じーっと見ているとわかってくるのだわ・・・。

だから、母は自分の才能のひとつである、整理整頓能力や根気強さについて、「もっと能率よくやりたい」だの言うんだわ・・・。さらに、大昔、内職をやっていた頃にも「能率」はよその奥さんたちがパートで時間給を稼いでいたこととの比較のようなものがあったのでしょう。時間給観念というのは、内職の場合、行ったからもらえるものではなく、自分の能力との勝負と思っていたようなところがあり、捗るかどれくらいできるかいくらになるか、等、彼女にとってはまさしく「能率」だったんでしょうねぇ。

ところが、同じ語彙なのに、物理学の言葉の定義も能率という日本語を充てている。どうして効率ではなかったのか?と、私には不思議が残ります。当時の物理学者の独断だったのだろうか?←今でも不思議な輸入外国語がたくさんあるので、特に言葉に繊細な人でなければ、似ているからいいや、そういう感じ、と済ませることは、昔もあったに違いないと信じているところアリ。

効率の「効」は、Effectから来ており、相手があってこそのもの、という前提が成り立ちます。私が英語が明解で合理的だなと思うのはこんなところなんだな。自動詞・他動詞というのを習ったことを覚えているだろうか?Effectには、どうしても目的語が必要なのだ。他動詞なんだもーん。英語では、Transitive Verbといいます。

効率という言葉を私は、このエネルギー量との比、という意味をまさしく込めて使っているのです。どうしてこんなに日本語に忠実なワタクシなのでしょう(笑)。「これくらいやったんだから、この程度の結果を出したい」という欲がなせる業なのでしょうか?校長センセがおっしゃる範囲での「人間の知恵」に相当するのが、母の「能率」のところになるのでしょうが、私としては、どうも自分を機械化・均等化・スピードアップにこだわりぬき、この「効率」という言葉に魅了されまくっているのです。

躁うつ病でエネルギーがたいへんに余っているかのように見えるのですが、所詮はヒトですから、上限はやはりあります。ある程度のアイドリングを保っておかないと、ストーンと急に鬱状態になることがあるので、起きたら眠るまでは走り続けないといけない感じ、という強迫観念なのか、事実なのか、があるわけです。なので、私は胃腸に悪いと思いながらも、夜ご飯のあと、満腹になってそのまま寝てしまうのは、かなり平和な気分です。明け方早く起きてしまったとしても、そのほうが私の精神状態や脳にはいいわけです。内臓には悪いんだけどね・・・。無理やり起きていたり、疲れていないのに寝ようと思うのはダメです。適度に疲れた挙句の果てに鬱状態になると、ただただ眠り続けていられるのでいいのですが、疲れすぎて眠れなくなったりしたり、疲れが足りなくて眠れなくなったりするともうたいへんです。この微妙なところは、極限状態の運動などを続けていた方にはご理解いただけるかもしれません。適度な閾(Threshold:刺激に対して生体が反応するかどうかの限界、それには範囲が伴う)というのがあるのです。

そして、なぜか脳内の話なので、ここには感情がくっついてきてしまい、「これくらいやったんだから、この程度の結果を出したい」という望みは、どこかで反映されてしまうのですなぁ・・・。それには、「能率」という自分の能力との戦いでは、感情的過ぎてダメなのです。時間が一定かどうかもわからないのでダメなのです。能力のどれくらいをどんなふうにどのくらいの長さ使ったか、などと軸がたくさんになると、面倒すぎてダメなのです。他にも光や匂いや色や空間など、いろいろな誤差のある感覚がインプットされて日々が成立しており、自分の都合を軸にして考えるよりは、「まずやりとげなければならないもの」「まずはTask(課題)ありき」にしたほうがずっとラクなことになるのです。まぁ、今だからこう言えるのであって、10代の頃の感情の浮き沈みの激しいときには、刺激が数々多かった頃には、本当に振り回され通しでした。だから、それがわかった頃から、「能率」よりも「効率」をより使っているのでしょう。それはわずか10年ほど前のことです。けれども、その頃には、日本語についての繊細さは進歩がなく、英語での合理性を分けながら使うことに邁進しており、私は、Efficacy, Validityという言葉を、しょっちゅう使い始めたのだ(笑)。

無限なのではなく、逆に「瞬時にして使い物にならなくなってしまう能力を持つ」危険性が高い私には、「能率」なんてぇのは、贅沢な言葉だということが、やっとこの午後わかったぞ・・・。言葉で説明できるほどにやっとわかったということです。それよりも、「やらなければ前に進めない障害・課題・したいこと」として捉えておき、その仕事量と自分が掛けなければならないエネルギー量を考えるほうが、ずっと危険性が低いのだ。さらに、スピードも速めつつできるかもしれない、と希望も持てる。

だから、自分がなりたい職業や欲しいものなど、二の次にしてきたのかもしれない・・・。その割には、わりと先々のことまで考えられるようになり、かなりよくなったじゃん・・・と、なんだかこの午後は自分を褒めてあげたい気分だい。小学校の頃は、泥だらけになった靴下の洗い方がひどい、だとか、洗濯物の干し方はこうするのよ、だとか、箒はこう持ってちりとりはこう使う、などと、「能率」という言葉を使っていろいろなことを仕込まれたのだけれども、親心だったんだろうなぁ。「あれは能率じゃなくて、やっぱり効率だよ」と、今でも思う私は、親不孝者だなぁ・・・(苦笑)。

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