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見ない・読まない・聞かない選択

06/26/2006 にアップした文章です。

日本に戻ってきてたいへんだなぁ、と思うのは、やはりTVやニュースの杜撰さ。アメリカの場合、チャンネルの数が多かったため、徹底的コメディや徹底的ナンセンスばかりを放映する傾向のあるケーブル局などの傾向がわかっており、三大TV局と言われているものには、秩序や最低ラインというものがありました。特に、ニュースは、「速さ」の他に公正さや的確さ、報道モラルをしっかり兼ね備えており、ゴシップ的にならぬようにすることが、ニュースキャスターたちの誇りとキャリアアップにもなっています。彼らのそもそもの知識に基づく世界観や、リサーチ力(インタビューなどもするので人柄も含む)、プレゼンテーション能力、スピーチ力などなど、一定基準にそれぞれが到達し、さらにプラスαの魅力があるキャスターがほとんどでした。当然、視聴者にも好き嫌いがあるので、平凡さをむしろ売りにしたり、声質や発音などを売りにしたりする、などなどそのへんはバラエティに富んでいます。

「これから日本で生活するんだ、がんばろう」と思って気づいたことは、TV局に一定の基準や特徴傾向がさほど感じられないこと。東京では、NHKの1.3、TBS6、フジ8、朝日10、東京TV12(当時の地上波)が一般的な、ケーブル料金を払わずとも見られるチャンネルなのですが、どれも平均化しており、私の子どもの頃よりも混沌としていて、個性が失われたように感じています。特に、NHKの四角張ったところが減り、視聴率を上げるためなのか、数々の不始末の失墜を回復するためなのか、緩い番組が増えています。出演者も民放とさほど変わりがあるようには思えなくなってきています

これってすごいことなんですよ・・・。18年不在だった私は気づくのでしょうが、ずっと日本に住んでTVを見ていたみなさまには、ふと立ち止って意識することができないかもしれない。もしかすると気づいているかもしれないけれども、時代の流れなのだと、飲み屋あたりでの話題になるだけなのかもしれない・・・。

ウォレスとダーウィンが先頭に立ち、進化のさまざまな法則は、その後生物学界の主流をも奪い、どんどんと見出されてきました。種が進化するには、「混沌」;これは大切です。ふれあい、錯誤し、よりよきものを選び取り、どうでもいいものは退化することがプロセスです。時間は莫大に、気の遠くなるほどかかりますが・・・。次に「多様性」;どんな物事であっても、種類がたくさんあることが大切です。人種であっても、黄色・白色・黒色と3種しかないように思われていますが、あくまでその3つはプロトタイプであり、実際はその3つはたくさんのスペクトラム(色彩の帯)を間に挟んでいます。国際結婚を否定し、「純血保守」を理由にごちゃごちゃと理想化するカルト集団がいますが、彼らだってそもそも純粋の意味では純血なわけがない・・・。おびただしい、係累化しきれないほどの混合種をたくさん持つことにより、人類も他の生命体と同様、進化してきました。むしろ、大脳の発達を見れば、もっとも成功した種だったとも言えます。その肝心さは、「可動性;Mobility」にあり、実際に個体たちが移動することで、多種多様さの環境に刺激され、学習し、取捨選択してこられたことがあります。

日本はケーブルでもっとこの進化を遂げていくのかもしれません。が、民放にはプロトタイプとしての彩り個性と最低限の倫理観があったほうがいいのでないか、というのが私の意見です。

なぜにそう思うのかというと、日本がいくら経済大国になったとしても、その後、アメリカ経済を追いかけている様相を多少見せています。実際に、貧富の差がじわじわと現れており、平均的な中流階級の厚みがベルカーブでも減ってきました。アメリカの収入を図にすると標準分布にならないのです。上位12%の人口の持つ財産が、アメリカ全体の80%を占めます。残り80%を82%の人々が分けている状態なのですよ。健全だとは言いがたいのです。たぶん、Bill Gatesがかなりコレに加担してるな・・・。Tiger Woodsとかいろいろ心あたりはある(笑)。日本も、最終的にそれほど極端にはならぬとしても、確実に貧富の差はついてこようとしています。なぜこれが大切かというと、ケーブルに加入できない人々は、当然お金のない人々。バラエティに曝されなくなるわけです。教育や住む地域に加え、携帯電話の利用や車・旅行などのレジャーや読書率などなど、さらに貧民の「チャンス」を奪う現象に加担することになります。一定の教養を与えられないマスコミであるのならば、ないほうがまし、と思う私は極論なのでしょうか?

日本のTVの杜撰さを感じるのは、「芸能人や著名人と呼ばれる人々がそれに甘んじて、自分たちの日常的会話を公的にカメラの前で見せていることによりお金を得ている」こと。公的電波を使って、見る価値のある新しい考えや基本的な考えを見せてくれているというよりは、そのへんの喫茶店や電車の中での会話を垣間見ているように思えます。特にニュースでひどいなぁ、と思うのは、事件関係者の過去を洗いざらい調べたかのように報道しているが、実際は「知り合い」程度で、真実の証言からほど遠く推測範囲であり、近所の人々の印象を「あたかも真実」のように取り扱う態度。そのゴシップ性は、報道のモラルなどカケラも感じられず、それに慣れた視聴者が、「にわかエキスパート」になっているのを見ると、悲しくもなります。マイクを持ってカメラの前に立っている記者や解説者は、被害者や加害者などの当事者の立場に立てているのでしょうか?憶測や推測で物事を語っていいのだ、という態度を、子どもたちや大人たちに「ロールモデル:役割を担う模範」として示していることと同義だということはわかっていないようです。

TV局のようにリサーチ機能が高く、すでに一定のアドバンテージがある人々が、あのような「エセ」が通用するんだよ、と見せることは、腹立たしくてなりません。アメリカであれば、抗議の嵐なのですが、どうやらそのような抗議は日本ではないようです。がゆえに、アメリカは報道専門のケーブルチャンネルがあったり、裁判専門のケーブルチャンネルがあったりと、「言論の自由」と「真実性」を分けた番組の工夫を凝らしています。が、三大TV局では、ソースをしっかり提示し、間違った報道を行うとDan Ratherのように進退の責任を取られるようになります。大統領を責める勇気を持つためには、自分のキャリアを賭ける態度はステキではないですか。

(当然アメリカでも「なんちゃってニュースアンカー」はいます。が、いずれ自然淘汰されてキャリアにはならないのが弱肉強食です)

日本でのニュース番組は、久米宏のニュースステーション、筑紫哲也の番組など、ニュースと時事問題をごっちゃにして、自分の観点を視聴者に押し付けている傾向が強いのが目立ちます。真実だけ報道しておけばいいものを、なぜに国民のために「代理で考えてあげる」のか、ここのところはわからない。時事問題を大いに語るのであれば、ニュース番組ではなく、大昔あったように「時事放談番組」に出演すればいいのです。校長センセがコメント欄で教えてくださっていましたが、各局により政治的スタンスがあり、その色を前面に強調しようとする功績を焦り、真実の上に「憶測」「記者や解説者の意見」を出しすぎるのはいかがなものか・・・。ニュース報道と解説は別モノである必要があります。

お笑い番組など徹底したペーソスはそのままでいいのかもしれません。が、私にはわからないのでちと悲しい(笑)。私がわからないのだから、わからない世代の人や地域文化に住む人も多いかもしれません。さらに、芸能人がクイズに出てバカさや知性を比較対照しているのを見ているのもつまらない・・・。それより私が出て賞金もらえたほうがなんぼかマシだわ・・・。

多様性を殺してしまうニュース報道は、やはり見ていて悲しいものがある。それに騙されていないかどうか、自分でチェックしてみてくださいね。見ない・読まない・聞かない選択肢は必ずありますから。

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