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車の運転

2006年に書いた文章です

しつこいほど書いてしまっているので、「耳にたこができる」を通り越して、きっと耳からたこかイカが生まれてしまうかもしれませんが、私は運転手の娘に育ったので運転に対しての技術や慣れや意識が多少(??)高いかもしれません。

これは運転がまったくできなくなった4月末の交通事故からの最大の悩みでありました。

西さんは元々無頓着な人で、運転をしていると他のことができない、他のことをちょっとしていると運転が散漫になる、という人で、10年ちょいのあいだに彼とのケンカの50%は運転中に起こっていると言っても過言ではありません…(汗)。どのくらいひどいかというと、「お願いぃぃぃ!殺さないでぇ!」というくらいですか?その敏感さは私にもおそらく大きく非があるのです。

私の基準としては、走っていて前の車がブレーキをかけている(ブレーキランプが点灯するから目が見えて色弱でなければコンマ数秒でわかるはず)のに、がんがんアクセルを踏んでいる人、というのはどうも「自殺志願者」だと思えてしまうわけです。それからふと「おおっ!」と気づいてすごいきついブレーキを踏むのかい…(汗)。「あなたってば特攻隊なの?」「反射神経ゲームやってるの?」などなど素朴な疑問ではないかと本人に確かめてみたこともありますが、どうやら違うらしい…。

答えは「自信過剰」「判断ミス」「考えていなかった」が多いことが呆れる原因です。

私の父は学のない人ではありましたが、運転にも人格が顕れていたように思われます。いつしか乗せられている私が運ばれていることを忘れてしまうような、車ごと風景に変わって行くような、テクノロジーのカタマリである車がいつしか自然に溶け込んでしまうようなそんな感じ。

少なくとも「生命の危険」にさらされたようなことは、彼が明け番のときに中央高速で居眠りしそうになったときくらいです。48時間勤務のうち、仮眠が合計で6時間もないので無理もなかったことですが、父としては「母の負担を軽くするためにできるところまでは自分が運転する」と決め込んでいて、隣で寝る母と後ろで寝てしまう弟と私からの音がなくなると起すタイミングを誤ることがあったり、休憩所が50kmごとだったのでその目測ができなかったりしたことがままありました。しかも運転手の悲しさなのか、起すことはできないし、音楽を大きくかけたり、ガムを噛んだり、窓を開けて冷気を入れることもできないのですね。それが彼の運転中の習慣で、これを許すと職業にも反映すると思ってしまったのでしょうか?少し哀しいですね。職業病な過信の一部ではあるかもしれませんが、その頻度というのは納得できる範囲だったような気がします。彼はプロとして事故を起したことがないです。何万回イグニッションにキーを入れてエンジンをかけたことがあるでしょうか?それでも一度もないのです(ぶつけられたことは1度ありますが、怪我はしませんでした)。

母は父を乗せて運転することを極度に嫌いました。あれこれ注意されるからです。私の母は小学生の6年間一度しか運動会のかけっこに参加したことはありません。あとの5回(?)はトイレに隠れていたのです。運動神経がまったくなかった、と自分では自嘲しています。運転にはそーんなにとびきりの運動神経が要求されるとは思えないのですが、何しろ教習所の教官に家まで送ってもらった人ですから…(汗)。父はそんな母を「回数こなせばだいじょうぶ。馬鹿だなぁ、そんなに緊張するからいけないんだよ」と言って笑っていましたが、それも彼女には堪えたようです。「できる人は何とでも言えるわよね」って泣いてました。私はこんなときも「人それぞれだなぁ」と思って感心していたもんです。父の華麗な運転に、母のうらめしい気持ちや焦り。けれども職業であったので譲らない頑固な父。そのプロとしての業績がいくばくかある父に負けて引っ込んでいじけている母。私は自分が運転ができる日が来るのが楽しみで仕方ありませんでした。「自分だったらどうだろう?」と。

16歳ですぐに教習所に通うために、一発試験場原付免許を取りました。もちろん家から駅までも通学に使えるからです。バスで徒歩+バス+徒歩かかるところを、原付+駐輪+徒歩というのは半分強にできるくらいの時間の節約でした。おまけに経済的にもものすごい安さで、父にも母にも褒められる♪こうしてバイクには16歳から馴染み、いつしか自分が歩いたり走ったりする延長線上にバイクが派生しました。もう自分の一部でした。自転車よりもずっと速く便利で疲れませんでした。嬉々として乗りこなして、心臓や名前やご褒美を与えるくらいに一体化していました。

18歳になり、形ばかりの受験が終わりすぐに教習所へ通い始めました。バイト代だけでは大学の入学金にも満たない金額しか残っていなかったし、予備校に行く予定もなかったからです。2月の半ばすぎにはもう受験も一通り終わり志望校には惨敗していたこともわかっていたし、もしも受かっていたら両親がどこからかお金を工面してくれるだろうか?と期待もしていましたが、とにかく教習所だけは通おうと行き始めました。ただの1時間もオーバーしないで試験場の試験にこぎつけたのは、おそらく私には本当にお金のゆとりがなかったことと、高校という鬱積した環境から抜け出せる希望とでもう新しい生活をスタートしていたせいがあるのかもしれません。受験と教習所で使った残りのお金で、1982年当時で37万という格安な中古車を買いました。これで地方のお仕事にも好きな時間に安く行ける♪とオオヨロコビでした。

父親は私が規定時間で卒業し、さらに免許が取れたことで、食事に連れていってくれました。もちろん彼はお酒を飲むので私の運転です。我が家にも当時中古車がありました。小田原に住む父の叔母のだんなさんが中古車ディーラーをやっていたせいです。教習車よりもずっとギアが堅かったことを憶えていますが、私は母ほどに緊張しなかったし、父にも怒鳴られたり怒られたりしませんでした。東京にしては比較的広めの駐車場におしりから駐車して成功したときには褒められもしました。そして一言、「紀久美、マニュアルを教えてもらったのはわかるけどよ、それだけじゃうまくはならないし慣れないよ」と言われた記憶があります。「おまえは運転の勘がいいから、基本だけは守りながら自分の運転をしていきゃぁいいよ」とも。

本当になぜあんなに走るところがあったんだろう?と思えるくらいに私はひた走りましたね。車でもバイクでも。移動するために、ひとつの場所から解放されるために、自由になるために、いろいろなところへ出かけていったような気がします。仙台・新潟・三重・名古屋・京都・大阪・長野・静岡・山梨などなど、お金と時間の都合がつけばどこにでもひょこひょこと移動していたような気がします。彼氏の車の運転もしょっちゅう「交替させてぇ!」とねだってうざい女だったでしょう…(汗)。

アメリカに来てからも本当にいろいろなところに車で出かけました。足として使っていたように思います。地下鉄や電車やバスよりも、車のほうに馴染みやこれほどまでの執着があるのは東京育ちなのに珍しいほうのたぐいに入るのかもしれません。

そして突然もぎ取られた移動性。病院に行くだけでもかなりの回数を他人の運転の車で移動しました。留学生Oくんと西さんにこの1年で縮められた寿命は3年って感じですね…(汗)。片道30分の移動をするだけでもなぜか目に付き、生命の危機にさらされているまでいかないことも1ダースほど…。「こうるさいただのおばさんになりたくないぃぃぃ!」と心が叫びます。

フリーウェイで70マイル(110キロ)で走っているときに車線変更しようとしているところに、車がいてもおかまいなしな運転の横に乗りたい方。どうじょ遊びに来てください♪ふたりもそろってる…(汗)。ブレーキが遅い運転に慣れたい、というあなたもどうじょどうじょ☆日ごろの刺激が足りなくてめりはりのある生活の縮図版が見たいあなたもどうじょ♪がーんと飛ばして、ぐーんとブレーキ踏みまっせ。さらに私と同じ気持ちになりたい場合には、足を多少麻痺させるために洗濯挟みくらいは用意できます(爆)。そこで座席を思いっきり倒して走っている先が見えない、というシュミレーションもしてみてくださいませ。ちょっとした遊園地よりもスリリングです。ただしレーサーのような俊敏な反射神経はありません。あ!事故成り金にはなれる可能性あります(爆)。

夕べはこれを考えていて、本人たちにいろいろ話してみたいのですが(西さんにはもう694回目くらい?Oくんには100回目くらい?)本人たちはすんごい努力してるわけですよ。何か有功な方法ないんでしょうかねぇ。やっぱりイベントが続くと運転がいちばんきっついわけです>私。もう少し「お命お預けいたします」状態は続きます…(汗)。

 

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