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輪廻転生(2)

つらつらと、どこから輪廻転生が私に入りこんできたのかを昨日は書いてみました。何に触発されたかというと、いつも心のなかのどこかにはあるのですが、留学生のOくんが英語版のカフカの『変身』を買って読むことにしたからです。キッチンでごはんを作っているときに突然、「起きていきなり虫になってたらイヤだよねぇ…」と言われて、私は「え、そう?おもしろいじゃない」と即答してしまったからでした。

留学生のOくんは「人間だった記憶があるまま虫になるのはつらいだろう」ってことでした。まぁ、それは納得できるかなぁ。私だって虫生活をエンジョイしつつも、昔の人間時代を思い出さないとは言い切れません。でもぉ、人間だったことがあるのに虫になってしまったという原因や理由を追求するのもおもしろそうだし、手が2本足が2本だったのに、合わせて6本以上(どんな虫になるかで違うけど)あるなんてちょっとマニューバ(操作)を会得するだけでも楽しめそうです。

で、それが鳥だったりネコだったりアメーバだったらどうだろう?と考えてみて、やっぱり私はおもしろいぞ、と思ったわけなのです。別段、人間に生まれ変わらなくたってねぇ。ただ死ぬためだけに生まれ変わるのはイヤだなと思いました。映画の見過ぎだといいんだけど、エイリアンみたいに人間のおなかのなかで成長して生まれたらパシューンと撃たれて死んじゃうのはなぁ、と…(汗)。うーん、でもエイリアンだったら胎児(??と呼ぶんだろうか?)の頃から思考していることが記憶に残るかもしれないし、それならまた話しは別なんだけど。本能だけで逃げ回ったり人間を攻撃しないで、考えていろんな種と共生できるエイリアンになれればねぇ♪おもしろいじゃない?

ウスバカゲロウやセミだと幼虫な時期が長すぎてつまらないかも、と一旦は思ったのですが、別段人間のステージだってそうだよな。「きれいで生き生きしていて躍動的で楽しいのは、何も成虫だけじゃないだろうから、まぁ、カブトムシでもウスバカゲロウやセミでも楽しいかもしんない」なんて改めて思い直しました。それまではあり地獄でありんこ待ってるのって哀しい虫生だと思ってたけど、見方を変えればそうでもないのかもしれない、と。←ここで、かすかにむかーし見ていたテレビの「むしむし大行進」という番組が役立っているのかもしれない。最近ではAnts(邦題わからず。The Dream Worksのアニメーション)も見たし、あれもかなり役立っている♪

英語圏に生きている人たちでも、in next life(次の人生でね)などというフレーズはかなり頻繁に使います。クリスチャンであるチャンスはかなり高いのですが、それでも使っているわけですから、クリスチャンだからって世界観が固まっていない人もたくさんいるわけです。そこで輪廻があったとしても、人間は人間にまた生まれ変わるとか、いや哺乳類だろうとか、何でもありでしょうとか、いろいろ分かれるみたいです。それは日本人だって中国人だってインド人だってバラエティがありますからねぇ。インド人のようにカースト制度に苦しんできた歴史を持つ人々であっても、同じカーストにまた生まれ変わると断固として信じたくない人もたくさんいます。だからといって、彼らがヒンズー教を馬鹿にしているとかと言えばそんなことはないです。

本当に人間っていろいろだよね…。

これまでたくさんの死を臨場感を伴ってたくさん経験しましたが、「輪廻にどうしてもどうしてもどうしてもすがらないとやっていけねぇよ」という気持ちになることのほうが圧倒的に多かったです。やり残したことのない人生なんて目撃したことがなかったです。16歳で死のうと84歳で死のうと、やっぱり時間の流れを与えられればもっといろんなことができただろうという可能性は常にそこにありました。しかも、みんな特別でユニークな個人でした。過去形にしてしまうよりも、またいつか生まれ変わって帰ってくるよ♪と思わないと哀しすぎてやってこれなかったです。そのメンタリティに問題がないか、と問われればまだまだ甘いんだろうけれども。

だってね、わかるでしょ?みんなで食べていたお菓子が一個だけ最後に残ったとして、平和にじゃんけんで決めようと思っても、負けると「え?3回勝負だよ」なんてことをしたことのある人は私ひとりではないはず…(汗)。大事なデートがあって夢みた通りにならなくても、「また来週逢おう」と言われるとほっとしたり。

それでも私は「一期一会」をモットーにがんばってるんだけどねぇ。だからなるべく「3回勝負」は言い出さないようにしようと思うし、アメリカに住んでいてなかなか逢えない友だちにもいつもいつも100%以上投球して、素直であっけらかんとしていて悪い癖もばんばん見せて、と思っているのですが、人生はやりなおしがあるのかないのか…。

私はもう生まれ変わらなくてもいいんだけれども、誰かを失くしたときには輪廻があってほしいとすがります。父が死んだときもそうでした。父も「生まれ変わってもまたきくみに逢いたい」とベッドで力なく言ったときにまたまた心にしつこく根ざされてしまった、というのもあるのかもしれません。父の最後の食事はみかんを3分の1だったのですが、私といっしょに分け合いながら食べた彼が病院のカフェテリアでオーダーしたのが、なぜかピザトーストだったのです。何口か食べただけで残しました。私にうれしそうによこしました。私は全部残りを食べました。この願懸けはおかしなものなのですが、私はそれ以来、ピザトーストを食べないことにしました。とてもとても、かたくなに。もしも、ピザトーストをかたくなに拒否する私にどうにかしてピザトーストを勧めることのできる人がいれば、それが父の生まれ変わりである、と信じられる材料になるんじゃないかなぁと。けっこう空しい願懸けではある(爆)。それと同様に、私は焼酎の日本茶割を飲まないことにしている(爆)。←でもさっぱりしてておいしいんだよね?♪

霊能力がないのか、あるいは願いのかけ方が足りないのか、私は祖父にも父にもかん太(死んだネコ)からも、なーんの死後のご挨拶を受けていません。祖母が死んだあとの春、父と母と堅い約束をしたのです。「もしも誰かが早く死んだら、必ず枕元に立ってわかりやすいように訪問しあおうね」と。「もしも神様がたった一度の訪問しか許さないのであれば、私じゃなくてもいいからね。でも伝言だけはしてね」と。←ここまでよくも考えたもんだ…(汗)。

そしてそれ以来、私は叔母(母の妹)と西さんに同じことを頼んでいます。父はまだ来ていないし、母は死んだら必ず私を訪ねると誓っています。西さんも日ごろどんなに悪態をついても、たとえ別れるようなことがあろうとも必ず私への感謝に充ちて死ぬことだけは確信していると言います。だからこの約束だけは守ると。

アメリカ人だって映画Ghost(邦題:ゴースト)が作れるわけです。死後の世界はあるんだ。もしも輪廻がなくとも魂には触れられると信じているわけです。私がいつかMolly(モリー)のように死んだ西さんに逢えるのか、私が先に死んで西さんを訪ねるのか、どちらになるのか、あるいはどちらもないのかわかりません。ただ希望は持てるな、と。Heaven Can Wait(邦題:天国から来たチャンピオン)でも死んだ人の魂が別の身体に入ること、それを信じるか信じないか、というのを描いています。

どうせなら私はBeliever(信じる人)になりたいです。「今の人生をなおざりにしてもセカンドチャンスがあるわ」ではなく、大きな大きな渦のなかに巻き込まれて、何度も何度も生まれ変わって、たくさんのことを見てして感じて考えて、「昨日より今日、今日より明日」をもっと長いスパンで考えてみることができるんだったら何て世界はおもしろい場所だろう、と。

もしも私が何かか誰かの生まれ変わりで、前の人生の記憶がないとしても、それはきっと充分に生かされているのかもしれない、と考えるのもまたおもしろいことです。次の人にきっちり渡せるものがたくさんあるように、私はこの人生がんばらなくちゃ♪という大きな動機になります。輪廻がなくても天国に行けなくてもそれはそれで仕方がないかもしれません。ただの塵になっちゃうのもまたいいのかもしれないし。ただ輪廻があると想えると死んでいく人たちとの関係に平和な気持ちが多少持ちやすくなるのがいいところです。たとえ相手が死んでしまっても、私とその人の関係は私が生きている限り続くのです。世界観もさることながら、生命に対しての感謝を深くするためにいい方向に作用するならば、私は輪廻があってくれたほうが助かります。ん、でもなくてもそれはそれでかまわない。

というわけで、どんなにピザトーストを勧められても私は食べません。焼酎の日本茶割も飲みませんからね!いくらもんじゃ焼きに誘ってくれても飲みません(爆)。

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