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麻痺と非日常性

障害についていつも書きたいと思っていたのですが、どのようなテーマと絡めればいいのかいつもプロット不足・私の力量不足にため息をついていました。ゆえに、祖父の話・叔母の話などをしたり、いくつかのエッセイに盛り込んでみたりもしたのですが、こんなんじゃ感性の網目に引っかからない限りは伝わらないよなぁ、と思っておりました。

ダイレクトに解説調に書いてもねぇ、堅いしねぇ、と迷ってみたり(爆)。

障害をアタマと心と身体でしっかり理解するためには、人としての学習が必要です。それができていない大人がたくさんいるので、老齢社会(生物学的年齢保持者が人口の大きな割合を占めること)になったときに歪みが表面化され、『五体満足』という本がセンセーショナルな売れ行きを見せ、子どもたちはとまどい、隠蔽され座敷牢に入れられていた知らない世界を見ることになります。「人間は自分が経験しなければわからない」という経験至上主義が真実なのかそれはどの程度真実なのかどういう人間にとって真実なのか、それは別の問題になりますが、知らない世界を想像し、共感でき、その真実を見極めたいという情熱がないことには、知らない世界は知る世界へとは変化しないことは確かです。これが私が常日頃、他人の人生やら考え方に注目して訓練しているゆえんです。身体は物理的に一個しかありませんからね♪

これは誰が悪いという問題ではないわけです。Segregation(分離・区別)が進み、住宅をはじめとする生活空間が合理性や能率に伴いよりよい成果が出るためにと、類似した事柄に伴い人が群れることになります。そしてその空間に立ち入れないことになる人々も出始めて、いつしか知らない世界は知らないままで生きられるというたくさんの小社会が成立してしまいます。自分がいくつの・どんな性質の・どんなサイズの小社会に帰属しようが、小社会同士の交流がない限りは距離感がどんどん遠のいていきます。

これはひとつのみかん缶詰工場でも同じことで、みかんの流通・選別・洗浄・カット・剥く・シロップ調理・サイズ選別・詰め作業・完成作業・製品管理などなどの分業に分かれていくのと同じことです。ひとりの人間がみかんをトラックの後ろから選別して水道に行き、包丁を入れて剥き、大きさがそろうまで何個も同じ作業をし、缶詰セクションに行って缶に詰めてシロップを入れ、圧縮してふたをし、製品にするよりはずっとずっと効率がよくなります。ひとりで全行程をやるには行動範囲が広すぎ、無駄が生まれ、時間がかかります。サイズの認定もガイドがなければばらばらな大中小ができ、工場としてのラベルに意味がなくなります。シロップの味の管理や運搬までの日にちにも問題が出ます。そこで、缶詰は最初から購入しておく・シロップは作っておく・みかんのサイズの目安はこれ・衛生管理はこう、などなどの取り決めがあったあとにさらにテクノロジーが進み機械が導入され、働く人々は同じ単純作業をやることになったり、機械の管理をするだけでいいことになっていきます。そうすると人の能力によって「一缶いくら」の出来高での賃金を払っていたものが、労働の難易度によっての賃金になり、いつしか機械の管理ができることが賃金になり、ライン(ベルトコンベア)で働いている人々の賃金には大差がなくなっていきます。

そんなふうにして、人間である私たちも分業化され効率を求め、生きていく空間がSegregationに淘汰されてきたことを日々意識している魂は少ないことでしょう。これは子どもと取り巻く大人と環境にも置き換えられるし、学校での教科分けにも少し想像を馳せられるし、人生や社会にもおおまかに置き換えて考えることができます。

私がみかんならば「ひとりの人間に最後まで育まれる」のもまっぴらだし、「モノとして扱われて各工程でハロー程度の知り合い度でのふれあいに身を任せる」のも不安だし、「工程の順番が間違ってしまったから廃棄」されるなんてことになったらコワイし、「品質が基準に達してないから廃棄」でもおかしいと思います。働いている人間の立場になってみても、全行程をひとりでやっても苦手はあると思うし、ベルトコンベヤでみかんの皮をずっと剥きつづけているのも飽きるだろうし、人がまったく介入しないでひとりぼっちで機械だけを見つめていくのもつらいさみしい作業で毎日定年までは続けられないだろうし、管理されてガイドラインにモノが言えない労働者の立場であることもつらいだろうなと思います。

便宜によって分業したとしても、互いに誰が何をしているか、どこで何が行われているのか、隔絶されるようなことがあってはWell-Rounded(こなれた丸い)な人間を育める環境ではないと思います。たとえすべてを眺めてみて自分に向いているモノが選べる状況であったとしても、何が自分に向いているのかを見極めるチャンスはできるだけ多くあったほうが個々人のためにならないでしょうか?「じゃ、あなたはみかんの皮むきね」「あなたは缶詰のラベルチェック」と決められてうれしいでしょうか?くじ引きならばいいですか?

「家族や友人関係に障害者がいるから子どもたちはしあわせだった」と前後の説明がない素直な一言を聞いて、反発を感じる人間も多いことであると思います。けれども、この「機会」ということに焦点を当てればそれは真実でしょう。自分が障害者でなければそれを垣間見ることもなく育ち、社会に出てソツなく過ごし、隔離された世界に生涯ずっと目をつぶって生きていくことは可能です。実際にそういう人が増えてきて、障害者が日々感じている一部のことを自分で実際に感じたときに大騒ぎすることも少なくありません。しかし、ある日病気になったり怪我をしたり、精神障害にぶちあたったり、老齢になり身体が動かなくなったときに慌てふためかない準備ができているのかどうか、はまったくのところ個人にかかってきます。けれども、それもどうなんでしょうか?社会に慣れてしまう、という要素もあり、それは使い方によれば人間の順応という利点でもあり、時として欠点になることでもあります。

機会ではなく、「より生きやすい」という視点から言えば、Perfect World(完璧な世界)に棲むことのほうがずっとハードルは低いことでしょう。ポジティブな感情を多く育み、ネガティブなモノは最初から実在しないようなユートピアを作っていけるものならば、障害や障害者からは目を背けていても危機感はなくてもOKでしょう。ネガティブな感情については「そこにあってはいけない」「あっても隠さなければいけない」ということを決まりにしてしまえばいいわけです。爆発することもいけないような法律を設け、それに反した人はどんどん死刑にするか隔離していきます。しまいにはそのライン引きがあいまいすぎて口ケンカした人も牢屋行きになる日がくるかもしれません。自分が老齢になって動けなくなったら姥捨て山に棄てるという社会政策があった時代もありました。それは法律でもなく、慣習というムラ社会の取り決めでした。人数が少なく意見の同意ばかりを見る世の中ならば可能であることかもしれません。しかし、本当にそれが可能であり、未来の人類に私たちが残せる最良の選択なのでしょうか?

たとえ障害者に縁がない生活圏に位置していたとしても、その人々の質や数や心の動きなどなどに注目して学んでいくことは大切なことであると思います。ミーイズムという言葉(これもかなり古い言葉ですが)に象徴されるように、みなが自己中心的であることやラクを求めることや自分の身近な人だけの利益を考えることと、自己確立をしていて自分に確固とした意見をさまざまなことに持っていることや自分が何者であるかを見極めていることは、大きく違います。非日常のなかにある物事に目を背けることはたいへんに簡単なことです。そしていつしか自分の所属する小社会での基準というものがすべてとなり、よその小社会に属す人を排斥する傾向が生まれます。物事に正解は必ずあり、その正解に大きくぶれる考え方はおかしい、と瑣末な要因を検討する余地のない小社会が増えていきます。

そして哀しいけれども魂だけでは生きてはいけない私たちは、自分たちのはらからをどうしても犠牲にして、社会は成り立たせていきます。おためごかしの他者への親切ではなく、自分がどのように扱われたいのか真剣に考えている人も増えていますが、行動に移せない人もまだまだ多いですし、実際に行動に移してからの感情のケアに優しい環境は用意されていません。本当に人類は希望の光に向かって進んでいるのでしょうか?先天的な知覚障害を持って生まれた人間にはチャンスはないのでしょうか?事故で盲目になったり車椅子生活を送ったり、病気が原因で社会生活から少しはずれたリズムで生活する人々は、みな何かを犠牲にしなければならないでしょうか?さらに考えると、Segregationにより恵まれない生活にどっぷり漬かったなかで起した犯罪者にはセカンドチャンスもRedemption(悔悛)もないのでしょうか?どこかでボタンを掛け違えて精神障害を負った人たちは自業自得なのでしょうか?

子育てをしすぎて子どもを抱っこして腰を傷めた人には同情が少ないとか、心中してしまえばヒロインだったものを生き残ってしまったから悪い女だとか、子どもを持てないから女性としておかしいとか、持てるのに持たないなんてひどいだとか、人を助ければヒーローでひとり事故だったら自業自得だとか、そういう見方に私は疑問を感じます。じゃ、どうしてみんなイーブンじゃないの?と。生命体として生まれたからにはみなイーブンでいいのに。障害を持って生まれようと、後天的な理由で障害を持つことになろうと、それが自分がいけなかったとしても、他人からのもらいモノであろうと、そこにそんなに大きな、眉根を上げ下げするような差がありますか?

ひとつの小社会の常識は大きな社会の基盤を基礎にして作られていますが、ローカルルールが変則的に存在します。けれどもその大きな社会の基盤は、生命体はみな平等であり、障害をいつから持っていようと、何が原因で持っていようと、変わらないのではないでしょうか?間違った行動をして事故などを起して障害を持ってしまった人だけを責めたり、先天的な原因がわかると母親と父親の遺伝子や妊娠中の生活を責めたり、育てた親が悪いとされることも多々あります。もちろんミクロで見れば、個々をケーススタディしてみればそういうこともあるかもしれません。けれども原因はひとつではないことでしょう。ですから、私は大きな心で大きな理解として、生命体はみな平等に扱われるように生まれてきて生きていき、死んでいく、と信じています。

もちろん生きているものたちにはたくさんの間違いがあります。けれどもこれだけは忘れないでほしいと思います。誰も誰かの上にも下にも生まれてはいないし、位置づけられながら生きていく必要も強制もあってはいけないです。ただ社会性とう名の下に、社会がうまく機能していくとあなたではない誰かが信じたことをなぞりながら歴史が繰り返されてきました。小市民や弱者はいます。けれども成り下がってばかりいなくてもいいのです。日本国憲法にも世界人権宣言にも書いてあります。もちろんアメリカのConstitutionにも記されています。

この基盤があって社会が営まれていっていることを私は心から祈っています。が、哀しい事件をたくさんたくさんまだまだ目撃します。21世紀を迎える前に私ができることは、自分が決めた通り、このエッセイを毎日更新することです。これでもかぁ、これでもかぁ、と書き続けていき、それを言動一致させていくように自分を叱咤していくことです。決してあきらめないで、希望を持ちつづけることです。

たくさんの障害に悩める人々に明るい未来がありますように♪

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