Loved Oneを亡くしたとき

04/02/2008 にアップした文章です。

 

昨日の授業で、生まれて初めて、身内を亡くした日の人を教えるという不思議な状況に陥りました。そもそも、どうして授業に来てしまったのか?から疑問を呈したのですが、そのあともかなり普段とは違った状況になり、ほぼカウンセリング状態になりました。思うに、こうしたアジャストメント時期に当たるとき、昔であれば、大家族がそれぞれ支えあったり、友だちがいてくれたり、乗り越えられる愛を得られていたのでしょうが、今、携帯が発達し、人々は家ではなく、お勤めに行き、不在者を時間に捕まえられない悶絶があるのでしょう。どうしたらいいのか・・・と思ったときに、普段の生活で会う人々の誰かに、ついついConfine(打ち明ける)してしまうことになるんでしょうね。

 

私は、たまたまカウンセリングの技術や論理を学んだからいいようなものの、素人さんたちは、昔の人ならばまだしも、どのように対応しているのかな・・・と気になりました。泣かれてしまったのですが、それは相手が誰でもよかったわけで、私だから泣いたわけでもなく、それをどのように昇華し、「不在」に順応していくか?に立ち向かえる体力や気力をチェックしてあげられるといいのですが、ひとしきり泣いて、悲しみのどん底まで足をつけない限りは、浮き上がるのは少し難しくなります。

 

わざわざどん底まで下がる必要がある問題というのは少ないですが、人生のある時期やある物事においては、どん底まで下がったほうがいいことがかなりあります。たとえば、この「愛する人を失う」というものがそれ。中途半端な落ち込みや悲しみという感情や、その人がこれまで与えてくれていたことやその人にこれまで与えていたものなどを整理して補償する項目等を考え付かないままの状態にしたまま、「代替存在」で埋めてしまっていいのか?という質問をしてみない人は多いわけです。亡くなった人というのは二度と戻ってきませんが、生きている人の中から似た人を探すという行為に移行するだけで、何も解決していない人は多いのです。もしも、「愛する人を恋で失った場合」であれば、同じタイプの人を好きになり、同じような失敗をしでかし、何度も繰り返す、というのが、メカニズムとしてわかることでしょう。

 

大切な人を失ったことで、環境が変わったというのに、自分だけは変わらないという、ある意味での傲慢さは、ツケを伴っていくわけです。感情だけを大きく優先させることで、行動がより定着化してしまい、考える余地・チャンスをも、愛する人と同時に失ってしまいます。これは大きなロスとなります。

 

ひとりが苦手な人は、おそらく、このどん底まで下がるということが、なかなかしにくいのではないでしょうか?「ひとりでいろいろと考えると、グルグルと悪い方向、悪い方向に物事を考えてしまう」という不安が大きすぎて、とてもひとりではいられない。そして、考えることや、感情的に感じていることを整理できぬまま、誰かに会うことで、それが自分の考えや感じていることなのか、他から入ってきたことなのか、境界線がつかなくなってしまう。適切なアドバイスや、自分を見つめるための材料をくれる他者との話し合いというのは有効ですが、ヒトというのはかなり身勝手なイキモノで、自分の考え方の範疇からは抜け出せないものです。なので、適切なアドバイスや、悩んでいたり落ち込んでいたりする本人の裡側を見つめるための材料を、いつも提供できる人々ばかりが集まるとは限らない。

 

むしろ、落ち込んでいること=悪いこと、とみなすヒトはかなり多く、ただただ「忘れるための明るい材料」をよしとすることも多いです。そうなると、「根本問題」は、ただ横に移動させられただけで、まだそこにある状態が続きます。対峙することを割けただけ、という状態がずっと続き、二度とその根本問題のせいで、またさらなる問題が起きなければいいのですが、ヒトの習慣は学習の成果なので、その習慣をドラマチックに直すことはできかねるので、またもや同じような問題は起きるのです。愛する人がいなくなったがために起きるさまざまな感情の揺れやフィジカルに起きていく諸問題は、ただ続いていきます。いつ起きるのか待っているのは、活火山がいつ噴火するのか?と似たような状態なわけです。

 

私は何度も何人も愛する人をこれまでに失ってきましたが、そのたびにやはり同じように悲しみますし、痛みが軽減することはありません。ただ、ひとつだけ言えることは、いったん底まで落ちてしまったほうが浮き上がるための時間は少なくて済むし、泣いて悲しんだ自分がけなげだったことや、愛した事実をきちんと受け止めて、またその人を失ったあとでも、なんとか生きていけるという自信も持てるようになりました。どうにかして浮き上がり、息継ぎをする術を知っており、その人と過ごした時間や、濃厚だったはずのいろいろな想い出をひとつずつ訪ねることができ、悲しみと対峙した分だけ強くなれたことを実感して、また青い空を見たり、緑の山々を見たり、湖や海のうねりを見たりすることができ、生きていること、その不思議について、感謝をし、その人の分までもがんばろうという気持ちになれます。自分がいかに小さい存在なのか、それでもいかに強く深いものを得てきたのか。

 

愛する人を失うと、生きる気力や意志がなくなってしまうことがあるのはなぜなのでしょうか?おそらく、そもそものところで、砂粒よりも小さいだろう自分を、心の底から認知していないからなのです。そして、同じように、砂粒よりも小さかったであろう愛する人を失ったことで、こんなにも心が動揺し、悲しみ、裂け、痛み、甲斐のないことを、どうしてもやはり認められないからなのです。その人がいてくれたから自分は生きてこられた感謝を、その人がくれたものすべてを胸の中に生き続けさせて、またしっかり歩いていく謙虚さが持てないからなのではないのか?と問うてみることが大切です。

 

今、冷静なときは、こんな問いかけができるのですが、実際に愛する人を失ったときには、そんなことができる人は少ないでしょう。ですから、人はひとりでどん底まで沈むことがなかなかできません。たくさんの家族に囲まれていたり、近所の人たちがもっと近しく、友だちと心の対話もできていたりした時代には、カウンセラーは必要がありませんでした。知恵がある大人たちは、相手にわかる方法でコミュニケーションが取れていたからですし、連綿と続いてきたたくさんの生命体について、輪廻転生や八百万の神などを創造し、心の動揺を鎮める術としてきたからです。

 

科学が進み、神の存在を、死後の世界を、好き勝手に否定することが自由になりました。が、神がいないことも、死後の世界がないことも、証明しきれた科学者は誰ひとりとしていません。ゼロを証明するのは至難の業です。ならば、心が折れたときくらい、愛する人たちが天国では死後も楽しく生きていてほしいと願うくらい、自分に許してあげたらどうでしょうか?私はそうしています。ガンや病気で逝った愛する人は、痛みから解放され、きっと生前にした善行を労われて、倖せにしており、私を見ていてくれていることだと、私は勝手に信じることにしています。そして、私はまだこっちでがんばる。不在はしばらくのあいだで、私がけなげにがんばっていけば、彼らも倖せで、私も倖せで、きっと何かおもしろいことが死後には起きるかもしれない、と、心が折れているときには、思ってもいいではないですか。

 

小さい存在ではあるけれども、連綿と続いていく気が遠くなるくらいの時間の流れの中、私たちは確実に生きており、明日へ何かを繋げているのだから、思いっきり悲しんだあとには、また繋げていく何かのために、けなげに歩いていくしかないようです。

 

とはいえ、私も次に誰かを亡くしたときに、こう自分に言い聞かせられるのかは、自信がありません。でも、そのつもりです。

 

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