01/04/2008 にアップした文章です。

近頃、英語の本を読んでいなかったので知らなかったのですが、いや、生活に追われていたので、ネットで検索する事項が多岐に渡っていなかったのですが、どうやら心理学界では、Rescue Personalityという新たなる展開があるらしい。うーん、おもしろい。アメリカのドラマを見てもわかるように、たくさんの「人助け」な人道的ドラマが人気が高い。それもこれも、911以来のことなのですが、ドラマや映画の人道的風潮は世界的な常識になっている。実際に、日本でも24やらERやらずっと「人助け」は流行ってきたんですもんねぇ。

http://www.massey.ac.nz/~trauma/issues/2005-2/wagner.htm オーストラリアには災害ジャーナル(学界論文をジャーナルと呼ぶ)があるのか・・・。さすが自然災害に準備を怠らないところは違う・・・。
http://www.defrance.org/artman/publish/article_1491.shtml が、これを全否定している学会もあり、けっこう物議をかもし出しているようである。

レスキュー:〔rescue は救助の意〕消防や警察に置かれて、火災や大事故などのときに人命救助を主目的として出動するチームの通称。
救助:災難や危険にさらされている人をすくいたすけること。
災難:思いがけない不幸な出来事。わざわい。難儀。災厄。

Fictionなのか、Factなのか?(事実か虚構か?)というところで、性格とするのはどうなのかな?と私もそれは思う・・・。長らく心理学を学んできたものとしては、やはりこれは性格の中のある一部で、大きな一部だと考えるかどうか?という度合いの問題であり、それに支配されてすべての言動が動いたり、決断をしたりすることは、ごくごく稀なことで、ゼロと決して否定はできないものの、おそらく天文学的確率になるのではないかと・・・。なので、性格として既定するのには、かなりな難易度がある、というのが、私の早々とした結論。

しかし、これについて考えてみるのは、とてもいいことだと思える。

たとえば、Critical Incident Stress Debriefing (CISD):危険な事故のストレスについての詳細質問をすること、という能力は、たくさんの職業の人々に要求されていることで、日常の暮らしの中でもこれがあるかないかで、危険回避や危機管理や立ち直りの部分で、たいへんな貢献度をもたらす能力になります。このStressという言葉は、日本人には、ストレスとカタカナでしか意味が取れないかもしれないですが、英語の場合は、事故そのものの中にあった重要性や強勢を解く鍵にもなり、原因究明のための詳細質問をする技術でもあり、警察官や検査官や消防員などにはとても必要な能力です。

少しスケールを小さくすると、それは母親や父親であろうが教師であろうが、兄弟であろうが友だちであろうが、上司であろうが、持っていたほうがいい能力であり、どんな物事でも、問題がゼロだという完璧な世界を確立しているものはなかなかなく、このCISDを持っていることは、オトクなのだ。

実際に、火事やレイプや殺人に直面する人の数はそれほどではないにしろ、愛する人の死や自殺、地震や解雇など、ありえないことではないわけです。そんなに年がら年中起きてもらってはつらいことではありますが、鬱病やPTSDに繋がるほど、立ち直れない落ち込みがこれらを境にして起きることはよくあります。

しかも、災難に遭ったことがゼロ・皆無だという人は、そういう意味ではあまりいないのではないかと思います。たとえば、ある人にとっては、「かけっこをして転ぶこと」は災難かもしれない。昨日までとても倖せだったのに、突然別れを告げられたことも災難かもしれない。その人には「そんなことも起きる可能性はあったのだよ」といくら他人が諭してもわからなかっただけで、聞いてこなかっただけで、青天の霹靂のように起きてしまった不幸と捉える人は、やっぱりかなりの数いるんじゃないかと予測できます。ヒトの成長のスピードはそれぞれなので、それでいいと思うのです。

その点、私はどうも慎重すぎるようになったのか、思うことを低め設定にしているのか、事故確率をしっかり掴んでいるのか、「たとえ自分が万全を排していても事故に遭う確率は、物事によって5%以上はあるし、他人がたくさん関与したり、人が山ほど集まるところでは事故や災難は起こりえるし、物事は予定通りには行かない」ということを、よく知っています。

たとえば、受験や失恋や昇進で渦中にいる人に何が言えるのか?これが、CISD能力なのですよね。この(彼らにとっては突然起きた衝撃的な)事故や問題について、それらの痛みやショックが拡散するように、事故が起きた直後に、詳細に質問をしながらの充分な聴き取りをしていき、その人がその後もPTSDに強く苛まれないよう(あるいはまったくPTSDの症状が出ないよう)にするものです。

その点、昔は井戸端会議などという近所の奥さんたちが集まって、それほど重大ではない会議をしていたものですが(あ、ただの雑談ですし、終わりも始まりも秩序があったわけでもなく・・・)、あれはあれで、役割があったんですよね。実は他の文化にもあのような形態のものは見られており、洗濯場というのが多く、井戸や川や貯水場のそばで、女性たちが話す文化については、けっこうな数の報告がされています。あの頃の質に比べて、今、日本に残されている井戸端会議に近いものは、Openness(開放度)が下がっているように思えます。公園デビューをした子どもたちのそばで、ベンチに腰掛けて見ている母親たちの心の中には、だんなや子どもの悪口をあけっぴろげに言っていたときとは、少し変遷したものが渦巻いているような気がします。そもそも、時間がなくなってきた、というのがあり、幼稚園バスなどの送迎でも同じことが言えるのでしょう。共働きが増えて、手を動かしながら不満を発散するようなシステムは、今、都会に住んでいる人の生活にはなかなかありません。回数が減ったということは、たとえ他人の問題だとしても、問題解決や心の暗さ軽減のために、話しかける言葉も発していないわけで、第三者が別の第三者に対してアドバイスをしている場面も目撃していないわけで、それが殊(こと)自分の身の回りにいる人に起きたときの「いざというときのための練習」も足りておらず、どんどんプロへと行くことになっていくのですが、「プロに行くなんて・・・」という意識もまだまだ確かに風潮としてあり、医師は投薬するばかりで、実際の根本解決には大して貢献しません。

企業では、産業カウンセラーを置くところも増えてきましたが、パートやアルバイトに対しての措置がない会社も多いです。ましてや、家で子育てや家事に専念している人たちには、公的機関のカウンセリングやセラピーはめったにないわけです。ましてや、介護をしている人々に対してのヘルプは、時間的に穴が空けられないという、切ない現実もあり、どんどんと煮詰まっていくのでしょう。

Critical Incident Stress Debriefing (CISD)とまで行かずとも、人の話を、特に不幸なことを聞いて、アドバイスをしてあげられる能力は、あったほうがいい。共感して、自分のことのように扱って、問題が軽減するようにしてあげたいと思える熱意があったほうがいいです。

その機会(チャンス)が減ってきたことを知っている人々は多いはずですが、その措置はなかなか為されていないのが現実です。Rescue Personalityは社会に生きていれば、各個人の心の中にあって然りな性格の一部であってほしい、と、強く願います。

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