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10/20/2007 にアップした文章です。

 

映画Miss CongenialityのIでは、ミスコンにFBI捜査官が潜入囮捜査を展開するものなのですが、そのときにミスコンの出場者は、モットーやキャッチコピーを連発します。そのトレンドが、コレ;World Peace。私が生まれたときには、すでに飛行機は実在し、お金持ちしか海外旅行には行かなかったのだけれども、昨今では小金程度で海外にも行けるし、むしろ、国内旅行よりも韓国や台湾やグアムやハワイであれば、安いくらいなパックがあります。世界が物理的に縮まったわけではないのだけれども、確実に距離感は狭まっている感じです。第二次世界大戦後の日本は、もう67年ほど戦争を体験していないのですが、World Peaceについてどう感じて考えているのか?巷では、「平和ボケ」という言葉が横行しています。長井さんも亡くなりました。どうなんでしょうか?

以前も書きましたが、私の至近距離・心的距離での最も短い体験は、911の当日、大学に通っていた頃のことです。テロリストのターゲットにされるくらいの歴史ある学校だったので、「今からならば来るな」という指示が出ており、私はその当日には学校には向いませんでした。ニュース映像は、まるで映画のようで、何が起きているのかまったくわからず、麻痺はどんどん進んでいき、軽いPTSD症状が戻った感じでした。私は、長いあいだ、その前にPTSDで学校からMedical Leaveをもらっていたので、「これくらいのPTSDであれば超えられる」とも、そのあと同時に思ったものでした。

中学の頃、合唱部で全国大会レベルだったので、かなり練習を重ねてNHKやTBSのコンクールに出ていたのですが、中学3年のときの自由曲は、『木琴』という歌だったのです。戦争中に、木琴が好きだった妹を亡くした兄が語り部になっている歌詞でした。同時に、音楽の教科書には、『戦争を知らない子どもたち』が載っており、校内の合唱コンクールなどで歌うクラスもあったので、あの頃は、朝鮮戦争やベトナム戦争の影響もあり、戦争と平和について考えることは当然だったのかもしれません。そして、今、また、平和についての個々人のスタンスが問われているのでしょう。

http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/mokkin.html 歌詞は歌われていないのですが、歌詞画面を見ながら音楽が聴けます。私はソプラノだったのですが、なんだか歌ってしまいました。

映画Miss CongenialityのIでは、イヤイヤながらSandra Bullockがミスコンに出て、男っぽい自分を参加者にバレぬようにフェミニンにしていくのですが、しまいには、心の底から、World Peaceを願うようになるわけです。FBIでの仕事のおもしろさはどこから来ているのか?自分の性格や適性はどこへと繋がっていき、どのように仕事に生かされるのか?もちろん映画なので恋も絡んでいるんですが、それについてもコミカルに描いてあり、暴力的だったり直接的だったりする彼女が、やはり心の底ではWorld Peaceを願っていることを、ラストシーンでも強調するようになっています。IIもあった映画なのですが、そちらでもまたWorld Peaceという言葉は繰り返し使われます。http://www.imdb.com/title/tt0212346/ (まぁ、この映画を見ながら私が最初に衝撃を受けたのが、Candice Bergenがコミカルに悪役をやっていたことなのですが・・・。Sitcomでコミカルではあっても、政治リポーターなどをやっていたのとは違い、本当におかしな存在であった・・・)。

実際に銃を突きつけられたり、爆音が轟かなければ、私たちは戦争や闘争を実感できないものなのでしょうか?私は、ここのところ、911以降、世界の国々がどのようなネゴシエーションで平和を(表面的には)キープし、私たちのようなSmall peopleには到底わからないような水面下でのやりとりが行われているのか、ちょっと丹念に調べて、身近に感じるために、スパイ小説やその他、読むようにもなりました。以前には、そんなジャンルは好きでもなかったのですが、「自分がよければいい」という気持ちには到底なれず、です。自分に災厄が降りかかっているときには、そんなゆとりがなかったのか?と問われると、やはりそんなときのほうがさらに身近に感じていたのですが、日本に戻ってきて、私にとっては緊張は高まっています。陽さんに一度、ご指摘を受けたのですが、私が日本を知らないからだ、ということだったのですが、やはり、アメリカに比べると、公立学区や、売家・賃貸値段が、明らかに明確ではないことなどから、犯罪が起き易い場所の限定はしづらい。昨日も銀座に行って感じたのですが、「それなりの服装」をしていれば、どんなに高級なホテルやレストランやカフェに入っても可能な情況は起こりえています。アメリカでは、スリ犯罪はごく少ない件数です。コレは、人々のProximity(個人空間)のおかげだと思えます。あ、でも、私はNYやシカゴなどの鉄道が非常に発達したところには住んだことがないので、日常的に感じられないだけで、あれらの地域では東京と変わらないほどにあるのかもしれません。日本のATMは人目がきちんとあるところばかりですが(東京に限っており、私が行ったこともない地方についてはわからないのですが)、アメリカでは、車社会なので、ドライブスルーに便利なロケーションにあり、夜間になると人気がまったくないところもままあります。そんな意味で、犯罪が起きる確率が高いところは、かなり容易にわかるようになっています。

ところが、このように平和に見える日本でも、実は相撲界では「かわいがり」は常識だったり、パワハラやセクハラはこれまで表面化していなかったり、検死システムがしっかり構築されていなかったり(どこかのサイトで見たのだけれども、年間予算が25000円とかいう地域があってあごが落ちそうだった・・・。そんなんじゃ、爪のあいだに挟まった繊維や微生物や皮膚などの分析で終わるか、それもできなくらいだろ・・・)、家賃滞納になってしまうような生活苦が増えていたり、密室で容易に行われるインターネット犯罪が進んでいたり、実際は、平和な状態と認知することは、そもそもの過ちなのかもしれないです。たとえば、せっせと長年払い込んでいた生命保険の補償金が下りなかったりするのも、「でっかい会社が詐欺をするわけがない」という平和を信じ込んでいる顕れなのかもしれないですし、老舗赤福にもすっかり騙されていたというのもあります(私は甘いものを食べないので、赤福と言われてもピンと来なかったのですが、なんだかすごい老舗らしい)。

でもねぇ、その反面、誰かに何かをやられたらやり返す、というプチ復讐は横行しており、やられたことがほんのちょっとのことであっても、当然の権利をむやみやたらに主張したりもする風潮は、一昨日のエッセイにも書いた通り、なんだか世知辛い。平和に慣れたから、守るものが増えたということなのか?だとしたらいいことなのだろうか?いやいや、みんなにとって、ではなく、あなたにとって、という個人レベルの話です。無関心でいて、「明日は我が身」を感じずに生きていくのも空虚なことだけれども、Me, Me, ME!も切ない。

私はそんなことを考えながら、ジェニにならないサービス残業をやったり、できることで笑顔が見られるならば、とプレゼントしたり、おもしろい話だと相手に思える話を引き出しから取り出してみたり、せめて私だけは他人をむやみに攻撃しないようにと心がけたり(自衛はしますけども。昨日も「川崎のオレだよ。歌舞伎町で会ったでしょ、一ヶ月前、みいちゃん」とかいう不思議な電話が11時半ごろあったのだ。酔っていたので、間違い電話は明らかだったのだけれども、間違いになかなか気づいてくれないところがつらかったので、冷たくしてしまった・爆)、何が自分にとっての幸せで、何が他人にとっても幸せなのか、考えてみることにしています。その全体値が増えれば、World Peaceはいつか実現するのか?いや、しないだろうけれども、しているように見えているほうがいいのかなぁ・・・。見えているだけではなく、せめて狭い地域だけでも楽園としてしばらくのあいだは、維持できるようにするのがいいのかもしれないなぁ。

このあいだも授業で、6億(ロトでそれくらいは日本でも当たるらしい)当たったらどうする?という話を生徒さんとしていたのですが、かなりみんな現実的で夢が足りなかった(爆)。誰もWorld Peaceに使うゆとりはなさそうだった・・・。