先生のイメージされる”男らしさ””女らしさ”とは?

ESL取り放題のプログラムでは、NativesのESLの他に、基礎コースを終えた生徒さんたちのために、「使える英語」を目指せるような助けになるレッスンを日本語講師でも日本語も含めてアドバイス・きっかけになるためにやっています。心理半分・英語半分としており、その心理の中ですでに Sex/Genderの違いはやってみました。

 

私が暮らしたい社会は、性差についての差異をあまり受けない世界なので(笑)、さらに面倒くさがりの私としては、女らしさを前面に出すのもなんだか億劫すぎて、特に外側の飾り気からは縁遠いところに暮らしています。

 

男らしさ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B7%E3%82%89%E3%81%97%E3%81%95

女らしさ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E3%82%89%E3%81%97%E3%81%95

 

私個人としては、まず「個人としての自己の確立:Identity形成」が必要だと考えており、それが終了したあと、それに沿った性差の間で右往左往したらいいんじゃないかと思うのです。思想的なものまで「男らしさ・女らしさ」を求められても、脳の作りや生い立ちや暮らし方によって、どこで何をどのようにして暮らすか、によってそれが邪魔になることも大いにありますしねぇ・・・。

 

このWikiにあるような女らしさと男らしさを観てみると、私は男らしさのほうが断然勝っており、だったら「性同一障害」なんじゃないか?というくらいな感じです(笑)。でも、生命体としては♀であり、それに関しての違和感はまったくないので、そうではない・・・。そしてジェンダーとして、社会が判定する性に関しては、やはり見た目は最低限にしているものの、やはり女性としてはちゃんと観られるので、極端ではないんでしょう。あとは、考え方やそれが現れる発言ですが、そっちが極端に男らしいんでしょうねぇ・・・(笑)。

 

というわけで、私は自分基準に男らしさ・女らしさを決めつけるようなものはないですね。混乱の中で、Identityさえ確立していれば、性差などはどうでもいいと思われ、どのような場所で、どんな機会で、誰が集うのか、にそれなりに合わせるスキルさえあれば、自分らしくいるのがイチバンです。

 

Sexとしての男女と逆の行動や思想を持っている人にとっては、決めつけはとっても負担になりますから、こんなものは定義しないほうがいいでしょうし、イメージを他者に押し付けるのは、ヒトとしての能力が低いってことに繋がってきますよね。そのへんもよく考えてみるのが日々の生活の中で必要とされているんじゃないかと思うわけです。

 

ジェンダーフリーの教育に問題がある、という意見もありますが、中学生以降、Sexの違いを学んだあとは、自由なほうがいいんじゃないでしょうか?みなさまはどう考えますか?

 

天災による警告

05/13/2008 にアップした文章です。

 

私は神そのものの存在は否定していません。それがどんな形なのか、どんな姿なのか、どんな物体なのかは、物議に参加するのはあまり積極的ではないですが、エネルギー体だとぼんやり考えており、ヒト化するなどという気持ちは毛頭ありません。が、もう少し、ガンダムだとか宇宙戦艦ヤマトだとかSF系の映画を見ておくべきかもしれない・・・などとは思います。ここのところ、天災のニュースがどんどん入っていますが、ミャンマーの大地震のあと、アメリカの大規模な竜巻で、今度は中国の地震。その死傷者の数たるや、小さな村ひとつかふたつはなくなってしまうほどの数です。ちょっと考えてみると、そのくらいの人々は、きっともっと何かの病気や飢餓などでも亡くなっているのでしょうが、自然の大いなる力を見せ付けられると、畏怖で満杯になってビビります。映像を、「まずいなぁ・・・」と思いつつも、一部見てしまったのですが、やっぱりものすごく自分の小ささを感じて落ちました。

 

畏怖:大いにおそれること。おそれかしこまること。

畏敬:心からおそれ敬うこと。

Awesome:a. 恐ろしい, すさまじい; 〔俗〕 すばらしい.

天災:風水害・地震・落雷など、自然現象によってもたらされる災害。

人災:〔「天災」に対して作られた語〕人間の不注意・怠慢などが主な原因で起こる災害。

 

私がこのくらいビビるのは、たいてい、自然界のすごさが対象で、幽霊やオバケ、不良や権威者などに感じたことはありません。あ、でも・・・、大勢の人前で話すようなときには、少しだけはビビるかもしれない。でも、マグニチュードも違えば、種類もやはり違う。ヒトが関わるものは、種類の違う怖さなのである。

 

ヒトが関わることでもたらされる怖さというのは、つきあう範囲や程度などでかなり回避できますが、大自然がもたらす天災は、どう足掻いても避けようがないだろうというのが圧倒的な戦慄の源なのかなぁ。

 

雲仙普賢岳はものすごかったですが、あのとき考えたのは、「どうして地元の人々は、この土地にこだわるのだろうか?」ということ。経済的理由で動けないならまだしも、中には意識的に避難せずに、「死ぬ」とまで明言したインタビューもありました。私は東京生まれの東京育ちで、簡単に祖国から逃げ出してアメリカに18年半も住んだせいなのか、引越しや新しい土地に動くことに対して、躊躇はまったくないようです。ここ調布に戻ってきたのも、東京の中での位置や利便性や経済効果などがたまたまよかったことと、母が心地よく過ごせるということでした。

 

私がアメリカに居たときに心配だったのは、関東大震災がいつかはまた起きるということ。時期的な問題であり、ゼッタイに回避できることではないことでした。私自身も、断層の上の近所に住んでいたのですが(San Andreas Fault:http://en.wikipedia.org/wiki/San_Andreas_Fault ほど大きくはなく、South Hayward Fault:http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Flat_eq_map_anotated.png http://en.wikipedia.org/wiki/Hayward_Faultという小さいもの。南北に60キロくらいのもので、最後の大きな震災から140年経っているところ)、普賢岳が200年で起きた通り、Probability(予測)はかなり当たりそうである。なので、周期が巡る近辺には住まないほうがいいのではないか?と思ったりするわけです。

 

関東の場合はこれなんですが>http://www.keiryu-bousai.jp/d2/m2122.html  関東大震災年説というのがあり、実際は150年なのではないか?という予測を縮めています。

 

私がこの天災の大規模な畏怖を、いつも感じているわけにはいかないので、ちょっとだけ真剣に「資料を読める程度にはしておこう」と思ったときに、最初にぶちあたったのがコレ。小学校のときから、山脈や海溝は地図で見ていたものの、それをしっかり学んだことはなく、「フィーリング」でしかわかっていなかったと思うのです。

http://en.wikipedia.org/wiki/Plate_tectonics >英語版

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%86%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%82%B9>日本語版

(やっぱり英語版のほうが理解しやすいし、詳しい)

 

見えない海底で行われているエネルギー活動を、誰かがどうにかして使えたらすごいと思うのですが、実用化するには、ものすごい歳月とお金とヒトのエネルギーも必要なんだろうなぁ・・・。が、進化論と同様、ヒトなどはとてもちっぽけなものなのだ、と思わされるには充分な学問の範疇で、ますます畏怖が固まっていきます。が、怖がってばかりいても詮無いので、しっかりその理論は身につけたほうがいいです。

 

昨今、速報がしっかり&迅速に人々に伝わるようにと、警告が一斉に出るようなシステムを作ったらしいのですが、なんだかうまく作用せず、60秒弱後にしか発令しない模様。もう少し努力が必要なのか?しかも、夜中だったらTVなどつけていないので意味もなく、火事にしろ、眠ったままで逃げ遅れて死んでしまう人たちもたくさんいるので、やはり有効率も考えてはほしいものです。

 

地震のメカニズム>http://web-gis.bosaijoho.go.jp/WebGIS/help/earthg_mch.html 

 

ちょっと難しく感じるかもしれませんが、実際は平易な言葉に置き換えることができるので、そうでもありません。絵をヒントに一通り見てくださいね。知っていると知っていないでは、怖さが違います。むやみに、見えないものを怖がるよりは、見えるようにして怖がる正当範囲を狭めておけばいいのではないかと思うのです。

 

とはいえ、ハンターも漁師さんたちも他の自然に対峙する職業の人々は、大自然の摂理と戦いながら、ここまでしっかり文明や技術を革新してきており、私などの手に職もない凡な人間は、ただただその恩恵に預かってきており、感謝せねば・・・と痛感します。むやみなリスクは背負う必要はないですが、High Risk, High Returnですものね。そういった意味では、その英知を学ばせてもらう謙虚な姿勢はいつも必要です。

 

私が通っていた大学にも、地質学研究所があり、地震についてもかなり著名でした。ネットワーキング化が進んでおり、全世界の資料と直結していて、私のような門外漢の生徒が廊下を歩いても、相当楽しめるほどのデータが展示してありました。ということは、きっともっと公的に見られるところがあるはず・・・。

 

東京の方はこちら>http://research.kahaku.go.jp/rikou/namazu/>国立博物館

http://www.tfd.metro.tokyo.jp/hp-ikbskan/ikeb-riyou.htm>防災館でツアー体験できるらしい

http://www.city.kobe.jp/cityoffice/57/museum/950117/eq_history.html>神戸の阪神大震災に詳しい博物館

http://www.bousaihaku.com/cgi-bin/hp/index.cgi?ac1=R522&Page=hpd_tmp>ネットにだけ存在する博物館。勉強になります。

http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/kouhoushi/no3/welcome/welcome.htm>警察博物館。災害時のことも勉強できるらしいです。

 

『備えあれば憂いなし』を体現できるよう、わかる範疇で畏怖を減らしておいて、私ももう少しがんばろうと思います。私はアメリカの大学で、竜巻の映像をいくつも見たのですが、あの凄さは楽しめる範疇だったものが、一気に畏怖に変わってしまい、それ以来、Awesomeという単語がなかなか使えなくなりました(日常会話で)。人災についても、声を上げてシステムの不備には問いかけていきませう。

 

悩みやすいかどうか

05/12/2008 にアップした文章です。

 

ここのところ、産業カウンセラー講座に行っていて困るのは、私には悩みというものがないのだなぁということ。カウンセリングの練習なので、実技のほうは、組んだ相手に対して、悩みや自分について語るのですが、その中でカウンセラーが共感してくれることをせめて話そうと思うのですが、カウンセラー冥利に尽きるような悩みは持っていないんだよなぁ・・・。いや、正確に言えばなくもないのだろうけれども、悩んでもどうしようもないことについては、悩みとして認知していないということなのだろうなぁ・・・。愚痴や不満もそれほどなく、毎日かなり楽しく暮しており、子どもの頃、あんなに時間が余っていて、時間が過ぎていくのを遅く感じており、夏休みを待ったり、夕ご飯の時間を待ち望んだりしていたのが嘘のようです。あっという間に夜になり、あっという間に朝が来て、いつの間にかこんな歳になってしまっている感じの日々です。うーむ・・・。




悩み:(1)悩むこと。思い苦しむこと。思いわずらうこと。煩悶(はんもん)。(2)病気。わずらい。

愚痴:(1)言ってもしかたがないことを言って嘆くこと。(2)〔仏〕 三毒の一。物事を正しく認識したり判断したりできないこと。愚かであること。痴。癡。

不満:十分に満たされていないと思うこと。満足しないこと。また、そのさま。そのような気持ちや心のわだかまりをもいう。

認知:(1)それとしてはっきりと認めること。(2)法律上の婚姻関係にない男女の間に生まれた子を、親が戸籍法の手続きによって、自分の子と認めること。自発的に行うことを任意認知、裁判による場合を強制認知という。(3)〔心〕〔cognition〕生活体が対象についての知識を得ること。また、その過程。知覚だけでなく、推理・判断・記憶などの機能を含み、外界の情報を能動的に収集し処理する過程。

 

そうか・・・と、日本語チェック。持っている意味がわからないと明後日なことを話していることになるしね・・・。

 

思いわずらうことはありますねぇ・・・。

世界平和はきっと来ないのだろうな。どうしたら世界平和を実現できる条件や環境が整うのかな。

できたら重力に逆らいたいのだけれども、やっぱりヒトという生命体に生まれたんだから仕方ないよね。2本足歩行もしているんだし、そのせいで下に下がるのは仕方ないよね。

くだらないことで人殺しが行われたり、チューリップなどの花にまで当たったり、白鳥や黒鳥やウコッケイが殺されているのはさみしいよなぁ・・・。でも、私の力が及ぶ範疇ではまったくないよねぇ。世界中の人々64億から65億の人々のマインドコントロールなんて、バカげた話だし・・・。

物価が高いのは困るなぁ。でも、自給率が低いままでゲンジツを見てこなかったんだから、私にも少しは責があるし、海外にまで逃亡していたんだし、システムの悪さは声高に言えても、繰言を言っていても何も変わらないしなぁ。

 

とまぁ、こんな調子なので、悩みとまでは行かないことになります。同じ世界に生きているのですが、環境はヒトそれぞれ違うし、登場人物も微妙に違うので、きっとヒトによってこれらのことが悩みにもなるんだろうなぁ・・・。

 

もっと個人的なことで悩まないのか?と聴かれても、私はお金が足りないこと(ほら、生涯学生でいるには、私の試算では3億くらいかかるんですよ。たいへんな金額である。理想的には5億から6億欲しいところです)や、持病や、恋愛(もう恋愛心はないしなぁ。それも昨日ある女の子と話していて実感したし・・・)や、将来について、悩むなどということもないよねぇ・・・。そこに問題があったら、どのように問題を見据えて解析して、どのように解決していくか?それにはどのくらいの時間がかかって、どのくらいの成功率で、失敗したらどのようなオプションがあるか?などなどを、考えることにしているので、「思う」ことで終わらないしさ・・・。

 

上記のことをするのに、資料や情報が足りなければ、それを収集する能力を身につけてくればよかったことで、大昔は図書館に3・4時間へばりついていることなど当たり前でしたが、今はインターネットがあるからいいよねぇ。キーワードさえインプットすればもう1秒以内で出てくることが多い・・・。そのキーワードの選び方さえ洗練されれば、ごくごく近い情報にしっかり行き着くし・・・。

 

私が今、猛烈に思うのは、10代頃までは私もけっこう悩んでいたと思うんですよ。もちろん、その時代にインターネットがあれば・・・という仮説も成り立つのですが、おそらく、その頃の私では、「これ!」という正確な情報に行き着く前に、罵詈雑言のほうが気になってそっちに見入ってしまったり、正確さのバロメータがわかっていなかったり、感情的なことに引きずられて、自分の好きな人の意見を重視したり、と、まぁ、ゲンダイの若い人たちがやっているであろうことを、きっとやってしまっていたに違いないので、インターネットについても、「おいおい、ネットが便利なのはすべてのヒトにとってではなく、前準備っつぅもんがあるだろう・・・」と強く思うのです。悩みが余計深くなるツールでもあるだろう、と。

 

かと言って、私はこれらの「思い煩うこと」を認知していないわけではなく、日々の課題として見据えており、それは私の中に本気で組み込まれていることが多いです。まったく手をつけていない分野というのもあり、それが喫煙か・・・(汗)。止めたほうがいいのはわかっていえても、まだ動機付けをうまくできていないので、放置してあるわけです。いつまでも放置していてもいいことはないと思っていつつ、あまりに思い煩い、何度も何度も、ダイエット中の人が冷蔵庫の中を見てため息をつくようなことをしては逆効果なので、見つめる時間を決めたり、忘れないように肝に銘じるわけです。でも、全体的には自分の免疫性を信じるしかないので、このまま放置状態。

 

そういう意味で、自分の認知方式というのを知るのは、かなり有効だと思うわけです。極端に悩むこともなく、かといって、ただの能天気野郎で終わるわけでもなく、謙虚かつ明るく居られるというのは大切。

 

が、私の通うカウンセリング講座は、RogersというClient-Centered Therapy(来談者中心療法)を採用しているところなので、そればかりに偏るのですね。折衷主義(Eclecticism)のカウンセラーは、どんな学派の理論も実際には活かしていないことが多い、と、そのテキストにも書かれていますが、私はぜひ反論したいところです。いや、そんなこたぁねーだろー、と。

 

私はやはり理系な脳を使っている部分も大いにあるので、人間中心性の物事の捉え方だけでは、どうしても満足がいかないのだろうと思います。心理学そのものが答えが複数ある不完全科学なので、その補強に数学や生物学や物理やその他、全部使って何が悪い!とやっぱり考えているのです。これも私の認知方法である(笑)。

 

悩みやすいかどうか、という分かれ目、分岐点は、己の認知方法を知っており、それについて不完全や悪い癖などがあったら、修正していく勇気が持てるか?ということなのだろうと思うのです。圧倒的に他人が悪いだとか、圧倒的に自分が悪いことなど、この世にはほぼないです。やはりいくばくかずつの責を、みんなが持ちつつ営みは汲み汲みと続いています。自分ばかりを責めてもおかしな認知だし、他人ばかりを責めてもおかしな認知なわけです。でも、その最初の一歩ができないところで、悩みやすい体質になっているとしたら、認知方法を知るのは大切だと思うんですよ。

 

さて、私は来週、どのような悩みを話したらいいのだろうか?ネコについては話してしまったし(うどちゃんは腎臓病持ちの16歳だけれども、心配したって時は流れていき、いつか死ぬということで、解決はついちゃったんだよね・・・)、日本に戻って来てまだまだたくさんあるアジャストメントについても話してしまったし(ここにも多数書いたけれども、まだまだ続くのね・・・)、英語講師はコマ数勝負ということも話してしまったし・・・。と、模索は続くのである・・・。

 

土曜日の時間つぶし

05/11/2008 にアップした文章です。

 

休日には、英語学校は大繁盛なのです。何度か書いてきていますが、土曜日の私のスケジュールは、朝の10時から夜の8時までびっしり。毎週、こんな調子で、あいだは5分休憩しかありません。たまに、キャンセルや当日No Show(現れない)というのがあるくらいで、当日の場合には私にも料金は支払われます。そして、驚くべきことに、ラウンジ風になっている英語学校の公共エリアは、とてつもなく混んでいるのですよ、土曜日は・・・。かなりの割合で、土曜日に遊びに出るでもなく、勉強をしているということなのかしら?まぁ、私は働いているんですが、平日の昼間はポチポチしか働いているわけではないですからね・・・(汗)。

 

とはいえ、私も彼ら・彼女たちと似たようなマインドで、日曜日は1日学校です。朝の9時から17時(夕方5時)までは受講していますから、移動時間を考えると、ほぼ丸1日ですね。そして、今月5月から英検前までの6月の半月は、日曜日も稼動なので、急いで戻ってきたあと、2時間から3時間のレッスンです。

 

私には完全休日はないものの、みなさんと労働時間がズレているので、朝や昼間の仕事がある曜日は、定期では木曜日しかありません。そうしないと、身体が壊れると思うのですが、たまに単発の仕事は引き受けることにしています。とはいえ、山ほど空き空き状態なので、今後、また何か話があれば、バンバン入れるんでしょうね・・・、この4月忙しかったように・・・。

 

平日の私のレッスンの入り具合は、けっこう激しいものがあります。夕方5時に高校生を引き受け、その後就業後の会社員やOLの方々が入っているのですが、グループレッスンもあります。火・水・金曜日は、4時間半しか働いておらず、月曜はわずか2・3時間で、木曜日は無料レッスンが1・5時間の、収入に繋がるレッスンが3.5から4時間。土曜日だけが10時間のうちの稼動が9時間ほどですか。日曜日は、私の学校日なのです。他に、メールでの添削やその他を引き受けていますが、Skypeレッスンなどできると思いつつも、あまり積極的に動いていないのが玉に瑕。昼間は、この状態で、企業研修の仕事がたまに入るので、まぁいいのかと・・・。これで、10月末までは、のんびりやっていこうかなぁとも思っているのです。もうちょっと営業活動をして、自宅のレッスンを増やすほうがいいのでしょうが・・・。

 

土曜日の生徒さんたちは、みな真面目です。平日は、自分のスケジュールをクルクルこなしておいて、休日も2日あるうち、1日は勉強に費やしています。驚くべきことに、朝の10時にオープンするときには、私よりも早く9時40分ほどに到着している生徒さんがおり、スタッフは清掃があるので、「もう少しお待ちください」のサインを出さなければならないことが出る始末。うーん、それほどの学習意欲があるのか・・・とびっくりです。

 

そこで、自分の生徒さんを捕まえて、1日のスケジュールを聞いてみると、やはり「普段忙しく働いているので、土曜日もフツーに起きてしまうんだよね・・・(汗)」という、勤勉な方々が土曜日にはたくさんいらっしゃるということ。きっと日曜日も、土曜日の夜に深酒しない限りは起きてしまうんだろうな・・・(汗)。英語学校に高いお金を払っているから、それが動機となり、「自習に公共エリアや教材が使えるから行こう!」という気持ちになり、ショッピングや映画や行楽よりも、普段はこうして資格やキャリアアップのために使ったほうが有効だ!と思う方々がものすごく多いのだということなのでしょう。

 

そうなんですよ。私が帰国してきて、20年前と違うなぁと思ったのは、読書の種類で、資格関連や学習のテキストなどを電車内で読んでいる方々がものすごく増えました。学習意欲の動機は、寿命が長くなったことで、経済的先行きを真剣に見据える人が増えたことや、結婚が遅くなり、子どもを持つことも遅くなったので、独身生活をエンジョイするためにはお金が必要だということなのだろうか?あるいは、現場でもその「終身雇用制から実力主義への移行」をひしと感じており、資格取得などで自分の位置を確保しようということなのか?

 

私は、OLをやったことがないのでわからないですし、この先もきっとわからないのですが、一匹狼で来たので、学習を生涯続けていくことの大切さはわかります。しかも、私はもう子どもの頃に夢見ていた位置を越えたので、それでもこのオマケ状態を楽しんでおり、まだまだ勉強が続けられるのであれば、ぜひぜひやりたいが、それにはうんとお金がかかるというだけで・・・。

 

だったらなぜそれをお金に換えていかないのだ?と怒られそうなのですが、まぁまぁ(笑)。みなさんを尻目に、まぁこれでいいじゃないか・・・と、必要以上には焦っているわけでもなく、順調に半年の講座を受けています。その後、何が開けるって期待度も低いですし・・・←予定通りのものしかないだろうな、と。

 

しかも、私が通っている学校は、新宿の高層ビル街にあるので、適度に勉強をした!という満足感が得られたあとは、映画を見に行ったり、ショッピングに行ったり、おいしいものを食べたりなどができるわけです。自分へのご褒美制度はそこでも活用される。だからこそ、また来週もがんばろうという気持ちになれるようです。私も、生徒さんと時間が合えば、極力ごはんを食べに行こうとしているのですが、土曜日は最後まであるので、なかなかねぇ・・・。

 

ただ、私が心がけているのは、「勉強意欲が低下しないようなレッスン」を提供することで、英語もひとつの手段にしか過ぎず、日本語での考え方や論理性や興味の持ち方やその表現など、多岐に渡って解説することにしています。

 

金曜日の夜、みんなが緩やかにほっとしているときに、通ってくる生徒さんと、土曜日の生徒さんは、かなり意欲が高く、ものすごく純度の高いけなげさを見せてくれます。そのせいで、私は驕ることもなく、「私もがんばらないとなぁ・・・」と、私にとってはかなり難易度が低い、日曜日の講座も謙虚にがんばれるのだなぁと、今朝はしみじみ感じています。

 

もちろん、健康がイチバンですから、土曜日の朝は遅寝をしたらいいんです。日ごろ、1日7時間・8時間の睡眠時間が確保できない方々には眠ってほしいです。が、朝の10時に遅めに到着して、勉強をして、ショッピングをついでにして、おいしいものを食べて帰っていく生徒さんたちは、きっと充実した気持ちなんでしょうね。お昼まで眠って、定食やハンバーガーを食べてパチンコや映画に行くよりはいいと、本人たちが思ってしていることなのでしょう。

 

不思議なのは、家庭を持っている方々もけっこうたくさん来ていること・・・。家で必要とされていてほしいものです・・・←余計なお世話だな(爆)。きっと勉強してから家族団らんしていることでしょう。

 

時間の使い方だけは、すべての生きているヒトに平等です。どんなふうに使うかは、本人の意志次第。おもしろいなぁとつくづく思うのです。さて、私も朝っぱらから無理やりごはんを食べて、産業カウンセラーの講座に行ってきます♪

 

 

親のありがたみ

05/10/2008 にアップした文章です。

 

ネコの子や犬の子じゃあるまいし・・・と、私は小さい頃よく言われて育ったものですが、それくらいみすぼらしく、どこの馬の骨ともわからないくらいに、野放図に育っていたのでしょう。でも、そんな子どもだった私でも、こうして社会人の一員として、罪も犯さず、他人様に恨みで刺されることもなく、まぁ、波風は多少あったにしろ、暮していけるのですから、たいへんにありがたいことです。父はとっくに死んでしまいましたが、母は毎日、まだ奴隷のように私のために働いてくれています。今も、何か繕い物をしているのですが、よく働くなぁと感心しています。私としては、この母を見本にすべきなのでしょうが、役割分担を家内でしてきたために、見事にこの独楽鼠のように働く傾向は欠落しましたね・・・(汗)。

 

一昨日は、AO入試のために英語を習っている女子高生のご家族とごはんをいっしょに食べました。その風景を見ていて、「親というのは本当にありがたいものだなぁ・・・」と、しみじみ考えた次第です。泣きそうになるくらい、いい親子だなぁと思ったのでした。さらに、昨日は、看護師さんとごはんを食べたのです。彼女と話をするあいだ、やはり彼女もよい育てられ方をしたのだなぁと、しみじみ感じたのです。

 

いやー、世の中捨てたもんじゃないですよねぇ・・・。

 

そのおかげで、2夜連続飲むことになってしまい、ここ1年半の私の生活としては、たいへんめずらしいほどの不良度数だった(笑)。でも、いい気分で飲めたのでよしとします♪

 

高校生の女の子のご両親の「親が子を想う気持ち」の深さは、言葉の端々だけではなく、その視線や気遣いやお皿を寄せる態度など、すべてに顕れており、「ああ、子どもを持ったらこんなヨロコビがあるんだなぁ」と考えさせられたわけです。それでも、私は自分の選択に後悔はしていないのですが・・・(依怙地・爆)。話が盛り上がった箇所は、彼女の将来について、今の能力をどのように育てるかについて、過去どのような苦労をしてきたかについて、などなど、「親が子を想う気持ち」満載で、時々、彼女サイドに徹底して就こうと思っていた意志が挫けるほどでしたが、最後まで、「自発的な気持ちを大切にしていきましょう」の姿勢を崩さないでいられました。お酒も飲んでいたのに、我ながら偉い自分(笑)。

 

ご両親は、「どのような女性になれば、彼女が生涯幸せを感じて生きていられるか?」と一生懸命考えた結果、好きな英語を伸ばして、身を立てることができれば、と考えておられて、私もそれには賛同しますが、まだまだそれは入り口なのだということを、しかとわかっていただけてよかったです。しかも、ガチガチの教育重視なわけではなく、私立の高校に通っているわりには、「アルバイトをしなくてはね」という態度なのです。なぜならば、私立の苦労知らずの男性と知り合い、恋愛をするよりは、たとえ貧しくとも労働の美徳を知っている男の子と恋愛したほうがためになる、と考えておられる。さらに、この時期に「お金を稼ぐ大切さ」を学んでもらいたいと願っており、経済的援助ができるのに「我慢して学んでもらおう」という海よりも深く、空よりも高い親心なわけです。

 

ある意味、これはすごい心の寛さだと思えたし、大人の世界に子どもを出すというのは、『獅子が子どもを谷底に突き落とす』の初期段階を歩み始めたのであろうと感じたわけです。この勇気を持つことは、豊かな時代、かなり難しいのではないだろうか?と。

 

私などは、ネコや犬の子と変わりなく育っているので、16歳になって法律さえ縛らないのであれば、「ちゃんと働いて、自分の食い扶持くらいは稼いでね」と当然のように育ったのですが、そのせいで、母は私を追いかける羽目にもなったし・・・(夜10時まで働いて、食事をして帰るはずなのに、11時までに帰らないといろいろ探しまわっていたのよね・・・)。

 

看護師さんとも話していたのですが、「結局、親の仕事が正しかったかどうかは、結果論」という悲しい性質を、親になったらどうやって受け止めていくのか?というのに、母はいみじくも言いました(ええ、外でごはんを食べて、それが調布近辺であれば、私は彼女を誘うんですよ。ひとりで外食すると拗ねるもんですから・笑):ダメな親だったかもしれないけど、子どもによかれと想っていつもいつも動いていた、と。

 

親心だよねぇ・・・。私の母は、結果的には、よかれと想ったことが行き届かず、放置してくれたことが多かったせいで、私は自立心旺盛な子に育ったのですが、かまわれた弟のほうは気の毒だったなぁと思います。その当時は歓んでいたのですが、10代も半ばを過ぎて疎ましく感じるようになり、好きなときには親を求めて安住の地としての逃げ場を作り、肝心なところで孝養を尽くせないような気がしています。私は、普段、粗雑に接しているように見られていますが、母としては楽しそうですし、大したイベントもない生活の中、よく笑うし、よく泣くし(ほとんどTVや思い出話なんですけどもね・・・)、悪くない暮らしをしているのではないかと、手前味噌ながら感じています。

 

でも、これは連鎖が起こしたものなので、半分以上は、亡くなった父や、今でも私の身の回りを面倒見てくれている母に、ちゃんと起因しているのでしょう。本当にどう転ぶかは結果論で、親というのは悲しい生き物なのですが、社会動物性があればあるほど、こうして感情を交えてしまい、いろいろな選択肢を見誤る傾向も増えていくのかもしれません。が、それをヨロコビの源と捉えることができるかどうか?というのも、よい結果を招く態度なのかもしれず・・・。

 

が、私もそれほどいい娘ではなく、まだまだ尽くすべき孝養は山積なのですが、この結果は彼女が死ぬまで、あるいは私が死ぬまで出ないのだろうな・・・というのが、昨日、看護師さんと話した結論です。気の長い話だよねぇ・・・。

 

彼女はこれから結婚して、どうしても子どもは欲しいというスタンスなのですが、大阪の子が家出をして、岡山駅で見知らぬ他人を衝動的に突き落としてしまった事件の、親子関係についていろいろ語ってくれました。あのお父さんは、今でも花を捧げて、ホームで土下座をし、お金と時間が許す限りの範囲で、謝意を示して、息子のところに足繁く通っているそうなのです。私は知らなかったんですが・・・。貧乏でも、賢く育ち、大学進学の夢が閉ざされてしまったあと、職安で仕事のアテもいくつか見つかった矢先の事件だったそうなのですが、あの親をどうしても責める気にはなれないと・・・。マイホームを建てて引っ越すばかりだった被害者の、高齢の親御さんは、その前途ある18歳に「早く更正して償いの道を歩いてほしい」と被害翌日に語ったそうですから、遺族感情もやはり一辺倒の恨みだけではないのだな、とうれしかったことは記憶していたのですが、あれもひとつの親子の結果論なのでしょう。

 

親のせいにするのは簡単ですが、実際は子どもの意志力もあり、親の世代ですら、明文化はされていないにしろ社会が課した重責に耐えているのかもしれないと思うと、事件が起きるたびに「親の顔が見たい」と思わなくてもいいのではないか?とすら思えたりします。いくつになっても子どもは子どもですし、親は親ですしね。むしろ、「こうあらねばならぬ」を取り除くキャンペーンをやれば、もっといい結果が得られたりするんだろうと、暢気な私などは思うわけです。

 

本当に親はありがたいです。今日も、私はお弁当を作ってもらっています。明日もですね。ボーイフレンドの87歳になるお母様が北海道から出てきているので、母はこの週末も私の面倒を見ることになっているのです。そのせいで、なんだか細やかなケアをしてもらっている感じ・・・。どこでも親の愛は繁盛しており、子どもはなかなか応えていないのかしら・・・?とネコたちの顔をじっと見たら、やっぱり応えてくれる子ども(ネコだけどさ・・・)もいるなぁと思ったりもする。不思議ですねぇ、親のありがたみって・・・。

 

自分はどの動物に近いと思われますか?

ヒトが考える動物というのは、擬人化が過ぎるようには思います。生物学・動物行動学などを少しでも学んでみると、ヒトというのはかなり身勝手に動物を解釈している傾向があることに気づけます。

 

エンジェルフィッシュはキスをしているわけではなく、お互いの歯のあいだにあるカスをせせっているだけで、仲間として生き延びるための互助をしているのですが、あまりにかわいく見えるために愛情表現と解釈したりします(笑)。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%95%E7%89%A9%E8%A1%8C%E5%8B%95%E5%AD%A6 動物行動学

 

https://www.asahi.com/topics/word/%E5%8B%95%E7%89%A9%E8%A1%8C%E5%8B%95%E5%AD%A6.html 朝日新聞デジタル版の動物行動学の記事群

 

拙い私個人の知識で、自分を動物に摺り寄せてみると、やはりネコ科の動物なのかなぁと感じます。社会の中できちんと生きていけないがために、やはり一人行動が多いというのが特長なのかと(笑)。

 

ネコ科の動物の特徴

https://ailovei.com/?p=74326

このような共存に憧れます(笑): https://jp.mongabay.com/2016/03/%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%88%E3%83%A9%E3%81%AE%E9%87%8E%E7%94%9F%E3%83%8D%E3%82%B3%E7%A7%91%E5%8B%95%E7%89%A9%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E5%85%B1%E5%AD%98/

めずらしいネコ科に属する動物たち

http://labaq.com/archives/51856870.html

 

どうであれ、生き延びるために何をしているのか?ということに着目すると、けっこうネコ科で近いのかなぁと・・・。ということは、もっと筋肉を発達させないといかんなぁと、写真を観て思った次第です。がんばらねば(笑)。

 

たまに、だらーっとしたくなるとアザラシなんかにも似ているのかもしれないと感じたりします。

https://honcierge.jp/articles/shelf_story/5967

ただ、アザラシたちは社会性がけっこう高いのです。あのようにだらだらと暮らしている感じなのに、しっかり助け合いができているところがすごいです。母親にはぐれた子どもたちがいると、ちゃんとよその母親が育てたりしますし・・・。でも、アザラシのぐーたら、ゆったり感でいつもリラックスしております(笑)。

 

鳥はエネルギーをたくさん使ってたいへんそうだなぁと思いつつも、ハヤブサに生まれたら楽しかったかもなぁと想ったりもします。http://www.forest-akita.jp/data/bird/10-hayabusa/haya.html



みなさまはいかがです??

 

 

薄着の季節

05/09/2008 にアップした文章です。

昨日電車に乗っていて驚いたのが、「ひぇぇ、私の鼻ってやっぱり喫煙者のわりにはよすぎる・・・」ということ。薄着の季節になって、体臭が伝わるんですよねぇ・・・。ご本人たちは悪気などないものの、けっこうキツいときもあり。生物の常識なのですが、生命体というのは自分の匂いは「ないもの」としてみなすのです。でなければ、周りに近づいてきた匂いを察知できないからです。自分の口臭などが気になる場合は、一度、ビニール袋やその他に出しておいてから、匂いが消えないうちに嗅ぐという行為をしなければはっきりとはわからないわけです。ましてや、脇や胸元などの汗の匂いなどは、「鼻から離れているので瞬間としては嗅げる」のですが、慣れてしまうので、どんどんわからなくなってくるわけです。

 

ふぇぇ、鼻がいいって地獄なのかもしれない・・・。私はほんの10年くらい前まで、喫煙者(しかもものすごく長いあいだ吸っている)なので、味覚も嗅覚もたいへんに鈍化していると思い込んできたのですが、実際のところはそうでもなかった・・・。いや、むしろ相当いいセン行っていると回りに思われてしまうくらいに、敏感である。

 

私の通勤路(家から駅までの道のり)には、食べ物やさんもたくさんあるのです。時間によってはまだ開店していないところもあるのですが、まず、豚丼店(豚丼のみしかメニューがなく、あとはBlue Sealアイスクリームが売っているだけだ・・・)、激安スーパー(ここは野菜や果物が外に陳列してあるのでその匂いがする)、和菓子やさん、ファミリーマート、パンやさん(強烈な匂いです)、牛角(夜しか匂いはしない)、とんかつやさん、お茶やさん、ラーメン屋さん(醤油とんこつの匂いがすごい)、牛丼やさん、やきとりやさん(ここも夜しか匂いはしない)。そしてスクランブルの横断歩道を渡って、すぐに牛丼やさんとたい焼きやさん(たこ焼きもあるし、たい焼きの具は昨今、ものすごい種類があるのだ。その混ざった匂いというのはかなり迷惑ではある・・・)。と、まぁ、ものすごい数の食べ物やさんがあって、いちいち鼻が反応するんですね・・・。

 

そして、雨がまだ降っておらず湿気が強いと、この匂いはますます強くなるのです。ひとつひとつの匂いは、食欲をそそる場合も数あれど、混ざってしまうとかなり迷惑なんだよなぁ・・・。他の人たちは、コレ、感じていないのかなぁ・・・。あとは、次々と違う匂いがすることに、かなり参ってしまうのである。

 

ひょっとして、私だけが特に、匂いの記憶というのが鋭いのだろうか?

http://dnabank.blog81.fc2.com/blog-entry-150.html >一度にひとつの匂いしか反応しないらしいな・・・。でも、その匂いそのものが混ざった匂いだったらどうなるんだろうか?ここに、プルースト効果というのが書いてある。もうちょっと調べてみよう。

 

http://www.dokuritsu-kigyo.net/blog/archives/2007/07/post_229.html>うーん、それほど詳しくない・・・。

 

http://serendip.brynmawr.edu/bb/neuro/neuro00/web2/Ito.html>日本人の論文だ!すごいっ!Proustというスペルでした。

http://en.wikipedia.org/wiki/Involuntary_memory>不随意記憶について

 

うーん、でもこれは違うんだよね。ある匂いが引き金になって、記憶が呼び起こされるという現象のことを指すのだ。確かに、無意識のうちに記憶は匂いによって呼び起こされますが、これは、街中で「あ、この香水の匂い・・・」と昔の男のことを思い出したりすることで実感しますね(笑)。屋台の焼きそばの匂いを嗅いだだけで、中1のときに告白されたお祭りの夜に引き戻されたり、雨の匂いを嗅いだだけで、鮮明なあじさいの紫と青を思い出したりとか・・・。

 

そうした記憶であれば大歓迎なのですが、そうした記憶を呼び起こされるような度合いではなく、ものすごい数の匂いが混在しすぎているわけなのよ・・・。

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%97%85%E8%A6%9A>嗅覚についての基礎知識。

 

http://ameblo.jp/senses/entry-10041629443.html>嗅覚の識別能力低下は、認知症の兆しになるらしい。そうか、私は認知症からまだ程遠い位置にいるんだな・・・。ウヒ♪

 

しっかり読んでもらえればわかるのですが、嗅覚というのは、大脳皮質の古いところを使うもので、原始的な基本的な機能なのです。私はそれが鋭いというわけで、あまり進化したヒトではないのか?いや、親知らず(Wisdom Teeth)もないしなぁ。けっこう進化しているはずなんだけどなぁ・・・。

 

そんな嗅覚のせいなのか、私自身、出かける直前にシャワーを浴びることを励行しています。他人様に迷惑を掛けてはいけないと思うようになったのは、喫煙者だからなのか?とも思われるのですが、実際、自分がいかに他人様の匂いに人知れず迷惑しているか?ということの現れでもあるんでしょうねぇ。母もけっこう嗅覚はいいほうなので、きっと彼女の呈する認知症のようなボケ加減は、天然なんだろう・・・。彼女は、嗅覚のせいで、しょっちゅうお洗濯をすることを強いられています。私のタバコの匂いにも慣れていないようだし、ネコの匂いをクレームするので、オゾン式の消臭システムを買ってしまいました。

 

昨日はみんな電車の中で薄着だったのですが、腋臭の一歩手前のような匂いで、顔が歪むほどになってしまい、読み物に集中できなくなってしまい、あからさまにすると申し訳ないので、次の駅に到着したところで、車輌を替えてしまいました・・・(汗)。ひとりだったらちょっと離れるために歩けばよかったのですが、昨日はダブルだったんですよ。インド人っぽい人がひとりいたので、一人はその人だったと思うのですが、もうひとりも違った腋臭ちっくな一歩手前くらいの匂いを発しており、その混ざった匂いというのが、ちょっと耐えられなかったのです。ひとつの匂いを感知したあと、新たな匂いを感知するわけで、混ざるというのがそもそも違うのかもしれないのですが、何分か経ったら慣れて「嗅覚疲労」を起こしてくれればいいのに、どうしてああいった場合、なかなか慣れてくれないんだろうか?たぶん、ふたり居たので、ひとりのひとつの匂いに慣れたあと、また違う匂いとして、もうひとりの匂いを認知してしまっていて、その繰り返しをしていたのでは?と思うんですが・・・。

 

とにかく、今後はちゃんとエアコンをつけてくれないと、電車の中は私にとって地獄になります。匂いに敏感だと、鼻の細胞の受容体とそれに繋がっている脳がなんだかとても忙しいわけだ(汗)。今、思い返しても、なんだかねっとりした貼りついているような不快感が思い出されてしまうくらいです。イヤだと思うからダメなのかなぁ・・・。ただのわがままなのかしらね・・・。

 

しかも、視覚的にもワイシャツの脇のところが濡れていたり、黄色くなっているところなどを見てしまうと、私は1時間以上ごはんも食えなくなりますね。生理的なところに弱点ありです・・・。お手柔らかに願いたいと祈っているところなのですが、こればっかりはどうなることやらわかりませんね・・・。私も自分用にアメリカで買った制汗剤をチェックしてしまいました(笑)。

 

求める気持ちが空回り

05/08/2008 にアップした文章です。

 

私は、求める気持ちがいつも内面に向いていると信じているのですが、自分の内面作業ではなく、他人の内面を覗き見て、それをこちらに吸収するというプロセスに、どうも誤差が生じることに関して、最近空回りを感じています。いや、最近じゃないか・・・。いつもだよね・・・。いつもそうだったのではありますが、「これくらいで及第点としよう」と思ってきたというところなのかなぁ・・・。ここのところ、その何十何回目かの限界について考えているところなのかもしれません。私は社交的な人間だと誤解されがちですが、実際は、自分の裡側のほうにばかり、心が向いており、いっしょに居てはしゃいでいたとしても、それぞれが持っている殻のようなものを弁えて暮しています。そのBoundary(境目)がない人間がいつか見つかるかもしれない、と思っているような幻想はないから、恋愛についてかなり諦めてしまったのでしょう(爆)。

 

何度か前に書きましたが、ヒトというのは「同質性」を求めて行動しています。共通点があったほうがヒトとしての関係は親密になりやすいわけです。なので、他人との共通点が、表面的に少ない人間は、なかなか親密な関係が築けないことになります。出会いの妙ですね、これが。実際には出会っているのに、注目せずに、通り過ぎられて流されてしまうのです。さらに、ここでは容姿の好みのスクリーニングがあり、匂いや音(声)などのスクリーニングも経られてしまい、もっと難関なのが、不器用な人間は、目線を合わせることもなかなか絶妙にできず、そうして、共通点がなかなか出せないまま、お互い通り過ぎていくことになるわけですね。せっかく、何かの共通点があって、その場所で出遭うはずなのですが、こうしてかなりシステマティックに誤差を引き起こしつつ、出会いというのは重ねられていくわけです。

 

しかも、その出会いというのは、長く続くわけでもなく・・・。ヒトは、個人的な主観を世界の中心と考えてしまう傾向があるので、これまでの自分の統計学をかなり正確だと誤解しています。そこには、自分の体調での受け止め方の違いや、記憶の引き出しから取り出しているものの不正確さなどもあるし、場面が似ていても「ささやかだけれども重大な違い」があったりもするときにそれを考慮に入れられません。

 

そうやって、いつしかすれ違っていき、長く続く関係というのが限られていくわけです。

 

こんなメカニズムを知っているがゆえに、寂寥感などはなく、本当に友だちというものが大切ではあるが、それがゆえに相手と自分に必要なだけの距離感を保てていると思えるのです。幼なじみと呼ばれるヒトはほぼおらず、ただ逢えば「ようっ!」と昨日の続きのようなことができる友人が幾人かいる程度で、定期的に逢う努力などはまったくしていません。自分という人間はこうである、という頑固さは、今となっては「よかったもの」として作用するようになっていますが、自分の意見をどうしてか他人に譲ることがなかなかできなかったり、最初から譲れないからそういった場面には首を突っ込まないようにしたりする、という作戦を取っていたのだろうなぁ、と。そして、なぜに譲れなかったのだろうかなぁとも。

 

誰となかよくなれるか?どのくらいなかよくなれるか?わかりながら人付き合いができるというのは、この歳になってみると、わずらわしくないのですが、かなり早い時期にわかってしまうと、さみしいことなのかもしれません。この歳になって決して自分だけのせいではないことがやっとわかったというのが、正確な表現なのでしょう。それまで、私は自分に友だちが少ないことや、長く続いている友だちが多くないことに、しっかり気づいていながらも、その原因が自分にあることだけを責め尽くしてきており、それで渡米して選択肢の数の多さや質の自由さをかなり満喫したのです。論理的に、「私が他の人と違うし、さらに我慢できなかったから」という証明だったように感じていたのです。ところが、実際のところはそんなスケールの小さい法則ではなく、もっとたくさんの人間の「ささやかだけれども重要な違い」がモザイクのように積み重なってきた結果だったのだ、ということが、最近よくわかってきたのだということ。

 

今になったら何でも好きなことが言えてしまうので、卑怯と言えば卑怯なのですが、私だけではなく、幼い頃の喜怒哀楽というのは、なかなか統制が利かず、コントロールしようなどと思っているのは、廻りにいる大人たちだけで、子どもたちのあいだでは、けっこう尖がりながらも日々は過ぎていっているわけです。ところが、おつきあいする人口そのものが増えていき、たくさんの大人の思惑も入り、社会という大きな慣例を背負うことにもなり、どんどんその矛盾も内包していかねばならぬことになります。「言わぬ美徳」もいつしか身につけることとなり、それに関して欠落した私は、その時点ですでに取り残されていったのだろうと思います。その美徳がどんなところでフルに働き、どんなところでフルに働かないのか?という微妙な境目を学ばせていただいたにも拘らず、たいていのことは「言ったほうがいいことばかり」と未だに信じています。

 

が、ゆえに、求める気持ちが空回りしていくことが増えていくのでしょう。決して言ってくれない人ばかりに出遭っているわけではなく、そういう人々とおつきあいしているわけではなく、日本人というバックグラウンドには、それが「常識」なわけで、「あ、肝心なことは言っておかねば・・・」という気を廻せる人はけっこう少ないし、その肝心なことがまさしく肝心なことである確率も、世界観に左右されていきます。

 

こんな違いばかりに注目している私は、「ささやかであるが重要な違い」で人が語らぬ世界観を、どうにかして「読み取ろう」としているところがあり、それはとても楽しい作業ではあるのですが、時々、読み違えて空回りするんですよねぇ(苦笑)。その誤差が、蓄積すると大失敗に繋がるのですが、けっこうないい年齢になってきたので、その失敗率は減ったものの、やはり完璧などこの世にありえるわけもなく、時々躓きを感じるわけです。

 

しかも、私の始末に負えないのは、他人の内面に向っているものを引き出したがったりする理由が、自分のためでもなく、英語講師という仕事柄、どのような世界観があり、どのような好き嫌いがあり、行動規範があるから、それらをこう使えば、こうなるという予測を立てたいから、という動機なんですね。大廻りしていくと、目に見える成績が上がれば(TOEICスコアだとか)、まぁ、私の講師としての評判も上がるんですが、それはけっこうどうでもいいようなことに思えています。なぜならば、「英語を話したい、できるようになりたい」という人口は、どうも増え続けるだけで、それほど減ってはいない模様。劇的にこれから激減するような気はしないのです。もちろん、リピートの生徒さんがいたり、紹介でお友だちが私を指名してくれたりするのはとてもうれしいのですが、私はそれについてはすでにギャラをもらっており、そこで一応の終結はされており、評判などは二の次のオマケですね。それよりも、実際に英語使いになり、私の元から去っていくことを、明るく励行していくことが必要で、なんだか不思議ではあるんですが、さよならするために求めるものを増やしているような・・・。

 

が、基本、ひとり行動が好きなので、特に苦でもなく、決められた期限の中、必死になるというのは、長い目で見れば「生」そのものも同じことなので、その小さいスケールを、日々がんばっていると思えば寂寥感もなく・・・。昔、大好きだった男の子に、「きみはどんな世界でもひとりで危なげなくやっていけるから、何も心配していないよ。そばにいる必要なんかないよね。さようなら」と言われたことがあり、不思議とそれを聴いても悲しくはなく、褒め言葉だったと受け取りました。そりゃ、切ない気持ちはありましたが・・・(汗)。きっとそれをずっと続けているわけで、彼だけではなく、多くの人間は、「この人に必要とされている実感」というものが欲しく、私は誰かにその気持ちを催させない人間であります。

 

そうした見地から行くと、私を一時的に求める人が現れたとしても、空回りしていくわけで・・・。おもしろいのは西さんですね。いい加減に放置しておいて、ただただ私のこの先を見届けたいと思ってくれる気持ちがうれしいわけです。本当に生涯学生の夢が叶うのか?本当に子どもがいなくて倖せな人生が送れるのか?本当にきれいごとは絵物語のように実現するのか?などなど、彼の好奇心はまだ尽きてはいない模様です。応えないとなぁ・・・。空回りさせないようにしなくては・・・。

 

兵どもの夢のあと

05/07/2008 にアップした文章です。

 

みんな遊んだんだろうなぁ・・・と今朝のTVをいろいろ見ながら(Zappingをしまくりながら見ている・・・)思っています。潮干狩りの特集やら、渋滞情報やら、日本各地でのいろいろなイベントやら、空港の風景やら、そりゃ本当にいろいろ、みんな移動したんだなぁと。私は、まったく移動せず、いつもと同じテリトリーで、ごちゃごちゃと廻っていた感じなのですが、それでも町に居る人々は多いような気がしたのは、甲州街道に面しているところに住んでいたり、駅前に住んでいたりするせいなのでしょうか。

 

しかも、紫外線が強くなってきたらしく、日焼け防止のグッズに身を固めた女性たちが増えた・・・。どのくらい効果があるものなのかなぁ、あれら・・・。手袋ってすごいよねぇ・・・。

 

GWは、お子さんのいる家庭は、大人が出かけたくなくとも、やはり出なければいけないような設定なのでしょう。大人でも、大型の連休というのは、どうも「特別感」があるようで、どこか使命感が湧いてきてしまうのかもしれません。実は、3泊4日ならば、行けそうなことも、カレンダーを見ればあるんですけど、有給をくっつけることに対しての罪悪感が蔓延っているんだろうなぁ・・・。うーん、でもOLさんたちで、海外旅行にせっせと出かけている人々はけっこういると聴いているので、おそらく、父親参加型となるとこうした大型連休に限られてしまうのでしょうね。

 

他人のお財布なのだから、気にしなければいいのだけれども、今回もものすごくお金が移動したんだろうなぁとも想像してしまうのでした。私は貢献していないのですが(笑)。私がおかしなところは、暇ができるとそうした計算をしてみようと思ってしまうところ。もちろん全体などの数的センスはないのですが、たとえば、中央高速道路での渋滞を見ると、3車線の都心近くだと前提し、車の長さが平均4mにして、車間を前後で2m足してみて、何台くらいになっており、その車がそれぞれ1.5回分の満タンのガソリン代でいくらになるか?だとか、さらに、高速道路代などを足してみただけでも、数千万になり、それが各都市近くで何個も発生しているわけで、かなりな数字だろうなぁと・・・。いやー、暇だよねぇ(笑)。

 

普段歩いていても、お店の前でその店の1日の売り上げや仕入れや人件費などを計算して、ざっと1ヶ月の収益などを考えるのも、けっこう好きだ・・・。買い物をしていて、原価を考えて、さらに輸入コストなどを考えたり、輸送費用や広告などを足してみて、何個売れればと思って作っているのか?などと考えるのも好きである・・・。これは、会社を作ってからの「日常の一部」になっていて、そのせいで、ますます消費者活動が静かになってしまっている要因なのだろうなぁ・・・。使わなければお金は自分のところには入ってこない、という原理がわかっているにしろ、使う時間もなかなか取れず、消費者活動は母に任せており、それでも頭の中でパチパチ計算してしまうんだよなぁ・・・。救われないわ・・・(汗)。

 

消費活動とは何なのだろうか?と、昨日の貧困について考えたあと、またもや考えているところです。

http://www.aichi-c.ed.jp/contents/katei/syouhisya/gakusyuukoumoku.htm>誰に対してのものなのかわからないですが、平易で読みやすいです。小学校の社会科とかなのかなぁ。

 

そして消費行動という、細やかなものに移っていくのですが、なぜかこんなサイトを発見。

http://biz.toppan.co.jp/mrl/>なぜに印刷会社がこのような?と不思議だったので。内容はかなりおもしろい。http://biz.toppan.co.jp/mrl/original/syouhisya/kurashi_02.html>帰省と手土産とその過ごし方について(笑)。

http://www.nri.co.jp/news/2003/031215/031215.pdf>この野村研究所の資料は、見ていてかなり楽しめる。うーん、そうか・・・と頷けるものが多いです。

 

もうちょっと心理的に特化しているやつを・・・。

http://www.insightnow.jp/article/1249>この元資料がどこなのかわからないところが不安ですが、きっと探せば日本たばこ産業で出しているのでしょう。Taspo導入により、購買意欲が激減するってすごい・・・。私もそれで7月には節煙できて、徐々に止められるのか?

http://ameblo.jp/consumer-psychology/theme-10002314305.html>男女の消費者行動心理の違いの「括り」をまとめてあるので、参考になりますから、ちょっとだけでも読んでみて♪

http://www.hayashitokuji.com/hayashi/distance/aidma/index.html>あ、基本といえば、こちらが先かもしれない。

 

私は、なんだかこの消費行動全般やら、消費活動全体やらを、かなり第三者的に見ているのですが、しかも、このエッセイのタイトルを「兵ども」としてしまったのは、なんだかこれはサバイバルに根ざした戦いのような気がしなくもないのです。

 

戦う:(1)武力をもって互いに攻め合う。争う。(2)技芸や力の優劣を競う。勝負する。(3)利害を異にする者が、自分の利益を守ったり獲得したりするために争う。(4)困難や苦しみに負けないよう努力する。(5)繰り返し叩く。叩き合う。

 

まさしく、市場というのはそういうものなのかと・・・。そもそも生きていくのに、ほぼ全面的に貨幣制度になってしまっている今、参加ゼロというのはできないのですが、労働力を提供して、貨幣を介して、またよその商品を買っているわけで、陣地取りのような気がしないでもないわけです。私としては、「だったらその陣取り合戦には最小限だけ参加しよう。じゃないと死んじゃうからなぁ・・・」という感じ。

 

貧困な人々との差が、貨幣の高だけであれば本当にそれはそれで幸運なのか?一重に努力の賜物なのか?(←遺産だとか資産がある家に生まれた人は違うよなぁ・・・。だからこそ教育も受けられたわけだし)などと考えると、やはりやっぱりある程度恵まれている人々というのは、他人のことは考えないノンキさ加減なのだろうなぁとも。あるいは、制度により商売をしていない人でも、消費者という名のついているローンができるようになったので(実はお金を貸し付けて労力少なく資本主義に参加している金満家をさらに肥やしているだけなのだけれども)、規律や規範が薄いまま、欲に任せて欲しいものを先物買いしているだけに過ぎないのかもしれないです。

 

もちろん、日本だって戦後ものすごい困難に打ち克っては来たのだけれども、その苦労を知っている世代は少なくなり、ものすごい消費大国になってしまっていて、貧困な人々がまだまだ世界中にたくさんいることを、あまり意識して暮していないことは、自分たちのサバイバルが他人の生命や倖せの上に成り立っていることを、心底理解していないことに繋がっているのだろうなぁと思うのです。

 

労働量が少し減った私は、昨日、テレビ朝日でやっていたクイズを見ちゃーいられませんでした。特にゾウが食糧不足で、人間のゴミ、しかもアフリカのそれほど恵まれてもいない地域の人々が出しただろうゴミを食べているところを見て、なんだかポロポロ涙が出てきてしまったのです。あのゴミの山が、兵どもの夢のあとであるならばとても哀しく、そのあとにはどうしてもなんらかの「再生」があってほしいと願うのでした。

 

貧しい国のことを本当に考えたことがあるか?

05/06/2008 にアップした文章です。

 

貧しい国が本当にどこまで貧しいのか?ということは、同い年のほかのヒトたちよりは、私は近い場所に位置していると思います。さらに、アメリカに渡ったことにより、ホームレスが身近になったり、覚せい剤用の注射針を配るような市のゲンジツを見たこともあり、もっと貧しさの本質には、触れてきたように思います。日本の今の貧しさのゲンジツというのは、どこから来ているのか?というのも、少しずつわかってきたような気がしています。今日、『あいのり』を見ていたのですが、ちょうど場所がGhanaでした。そうか、多くの日本人はこんなことも知らなかったのか・・・と、コメントをしていた3人の芸能人を見ていて思ったのでした。

 

私の心友と呼べるひとりは、Ghana人で、今はアメリカの国立研究所で生理学の研究員をしているMDとPhDを持っている医者でもあります。彼のことは以前書きましたが、彼から映像になるような過酷さを、山ほど聞かされており、実際に、障害者のケアをするアルバイトをしていた彼に連れられて、私もお風呂に入れるのを手伝ったり、皿洗いをしたり、冷蔵庫の整理をするお手伝いをしたものです。毎月、彼は、そのアルバイトで稼いだお金を50ドル札に替えて、カセットテープの中のテープの中に入れ込むのですね。そして、それを仕送りとして送る。彼の実家は、二番めに大きな都市であるKumasiというところですが、しかも病院を経営しているのですが、それでも毎月50ドルという金額は、ものすごい効力があります。

 

毎月、里親をやっている方々や寄付をしている方々はご存知だろうと思うのですが(たくさんのサイトがありますが、これがイチバンに出てきました)

http://www.worldvision.jp/children/?banner_id=ggl-sav&gclid=CJ_zv7HWkJMCFQJugwod2B7ghQ 、ワクチン注射は、種類はいろいろですが、1種の場合、わずか1ドル程度で賄えます。50ドルでは、40人もの子どもたちが救えることになります。どこかのサイトで、「根本的な解決ではないのだから、どうしてワクチンを打って満足しているのか?」という提議がありましたが、その通り。根本的な解決ではないですが、「生き延びて明日に繋げる」というのが、それほど悪いことなのだろうか?とは思えます。そうおっしゃる方々は、自分や愛する人の命乞いはゼッタイにしないのだろうか?と。

 

ところが、このような寄付サイトに対して、まだまだ信用ならぬ気持ちを持ってしまうのも納得はできます。だって・・・、絶対的信頼を寄せていて身の保障が成り立つという国に対しての不信感を持たねばならぬほどの、いろいろな事件が露呈しており、公共機関だからと言って、財団法人だからと言って、どうやって信頼できるのだ?という疑問には、「確かにそうです」としか言えません。私もそんなひとりなので、団体で本気でやっている方々の熱意を否定するものではないのですが、途中で現金が流れていき、きちんと子どもたちや地元の人々に届かない事情などを見ており、それならば、できることをDouglas(Ghana人の友)を通じてやったほうがいいや、と思えてしまうわけです。

 

もちろんそうなると、アフリカの中の選民主義に少し片棒を担いでいるような気がしないでもないのですが(どうしてその場所がガーナで、スワジーランドやタンザニアではないのか?と問われたときに、何も反論ができない・・・)、私が何百万というお金を今後寄付したとしても、まんべんなくなど行くわけもないので、これはもう片目を瞑るしかないわけです。

 

厳しい気候の中で、アフリカはそれなりにやってきていたはずでしたが、この300年ほど、産業革命前後から、強国からの干渉を受け続け、結局、貧乏くじを引き続け、今に至っています。いつまでもそうは行かないことは、中国やインドなどが、身を以って示してくれているように、アフリカにも大いなる未来があることは示唆されています。ところが、これまでの300年ほどを自由に操作してきたマインドたちの名残は、今もしっかり受け継がれており、表面的には人道的(Humanistic)に見せながら、できる限りの自分たちの利益を続けていきたいというパワーゲームは続いています。

 

キーワードは、植民地主義で、昨今ではグローバルエコノミーとかっこよく表現されていますが、結局、していることは同じようなことで、しかも進化しているから始末に負えない…。ここに本当にヒトにとっての公平が機能してきたのか?は疑問です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E6%B0%91%E5%9C%B0%E4%B8%BB%E7%BE%A9 >植民地主義

http://en.wikipedia.org/wiki/Global_economy>英語版 グローバルエコノミー

不思議と日本語Wikiには説明がありません。

 

総括的な説明をしているサイトを探してみたのですが、これくらいがいいのかなぁ・・・。

http://www.psi-jc.jp/focus/2002_02/02.htm>アフリカ問題のいくつかを取上げつつ、ざらっと問題点を解説しているサイト。

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/kyomu/koudai/kikaku/kensho04/kensho_j/2002/ronbun10.html >こんなステキな論文を書いた高校3年生はしっかり実在する。うれしい♪

 

自分にできることは何なのか?と考えると、私が日本人としてできることは、しかもアメリカに住んだ時間が長い日本人としてできることは、「鈍化したままで流されず、質素な暮らしを続けていくこと」が、まず第一義だと思っているのです。たまの贅沢はご褒美として許すとしても、日々は質素に当たり前にフツーに暮していくこと。お惣菜やさんも使わないし、大根の葉っぱも捨てないし、流行モノに流されない。時期をズラせば安価になるものを追求して買う(私は消耗品しか買わないんだけどさ・・・汗)。おまけにごはんは残さない。だから太るのだろうけれども、それは美徳のひとつと思ってがんばろう(笑)。母はタッパーに入れて残り物はしっかり最後まで食べるのですが、最近、入れたタッパーの存在を忘れることがあるので、要注意だ(爆)。

 

さらに、声を上げていけるためのリサーチや事実関係を調べる能力を身につけて、折にふれ考えることも忘れない。でなければ、到底、いざというときが来たときに行動に移せるほどの思い入れが育つわけもなく・・・。

 

ガーナと言えばカカオなのに、チョコレートを口にしたことがある人などほとんどいないのだ、ということは、想像してもわからないことなのだろうか?うん、わからないことなのであれば、まずは態度として、「自分の常識は世界のどこにでも当てはめられることではない」という謙虚な気持ちを持てるようになることが大切です。そうすれば、調べる気持ちにもなり、オドロキに対して繊細になり、他人に関して無関心ではなくなり、自分が世界の中心に居ないこともわかってくるはず。それでも自分を大切にして、他人も自分と同じように大切にしたいなぁと思えるはず。

 

私は貧しく育ったので、これらのことを考える素養があったし、生活レベルをうんと上げて暮して安心できない性質であるのですが、他人を押しのけてまで何かを所有することや、他人を貶めてまで自分が優位に立つことに、少し以上に快感を持つようなところは、カケラもありません>やってやった!と、それらの人々に気づかせたときは、ちょっと気持ちいいんだよなぁ・・・。いかんなぁ。マザーテレサやダライラマからはほどと遠いよ・・・(汗)。

 

誰かにまとめて、貧しい国についてどうしたらいいのか?ということを、胸を張って言えますか?GWで飽食したかもしれないあとに、ずいぶんシリアスなお題だったかなぁ・・・。