紀久美先生へのQ&A~心理学講座編~その85

結婚相手に求めるものって、何が正解ですか?

正解というのはないと思いますが(笑)、多くの場合、個々人が持っている【価値観】の合致が大切な要素です。

瞬間的に燃えるような恋をしたいのではなく、長く続く広範囲に及ぶさまざまなことを共に体験していく相手には、大きなストレスを与えあわず、できるだけ問題解決を速やかに話し合える関係性を持ち、物理的にもいっしょでその話し合いの時間が持てる、という条件を満たすにはどうしたらいいか?を考えていくのが、最も妥当なラインだと思います。

そのためには、自分の価値観とパートナーになる人の価値観を「確認し合う」をデートを重ねること、時間を過ごす中でしっかりやってもらいたいと思うのです。そもそも、忙しいを連発して、パートナーに時間を捧げられない人は、きっとピンチや問題が起きたときにどうなんでしょう?もちろん仕事は大切です!が、仕事ができる人であれば、「判断力」もきっとあるでしょうから、ここぞ、という時にしっかり話し合いができるように最大限の努力をしてくれると思うんですよ。

よくある「仕事と私、どっちが大事なの?」は愚問すぎるのでやめてください <(_ _)> ジャンルがまったく違います。どっちも大切ですから、そこはランキングとして同じカテゴリーに入れないでください<(_ _)>

さて、価値観というのは一体何なのでしょうか?

価値観:何に価値があると認めるかに関する考え方。価値(善・悪、好ましいこと・好ましくないこと、といった価値)を判断するときの根底となる ものの見方。ものごとを評価・判断するときに基準とする、何にどういう価値がある(何には価値がない)、という判断

おもしろいので、パートナーや友人と価値観テストやってみてください!

https://curazy.com/archives/142622 日本語

https://www.psychologytoday.com/ca/tests/personality/values-profile 英語 しかも50分かかりますが、とっても詳細なことがわかると思います!

https://impro-club.com/profiles/enneagram/6852 エニアグラムです

あなたの価値観とパートナーの価値観が似ているほうが、スムーズに日々が過ごせます。問題が起きたときにも、観点が似ているので、解決も早いと思います!微妙な差が出てきても、基本が同じなら大丈夫!とどーんと構えられるので、価値観テストはやってみたほうがいいです♪

ネガティブな感情の行き場

01/31/2008 にアップした文章です。


私はここのところ、「疲れた・・・」以外にそれほどネガティブな感情が芽生えることはありません。ただし、他人の話を聴いているときに、もらってしまうことはあります。そんなとき、必ず「今、言ってすっきりするなら、いくらでも聴くけれども、長い目で見たら、やっぱりネガティブな感情を持つことは、自分のためにはならないよ」と、必ず厳しく言いますね。ネガティブな感情を持っているときには、やはり自分のことは棚上げしていることが多く、他人の悪い分を多く考えがちです。犯人探しゲームに参加していることに気づけないでいる。そして、悪循環が停まることがなく、どんどん自分を疲れさせているように、どうも私には見えてしまうわけです。

ネガティブ: (名) (1)撮影したフィルムまたは乾板を現像したときにできる画像。また、そのフィルム。白黒写真では被写体と明暗が逆、カラー写真では色相が補色で表される。ネガ。陰画。(2)電気の陰極。⇔ポジティブ

(形動) 否定的であるさま。消極的なさま。

感情:(1)喜んだり悲しんだりする、心の動き。気持ち。気分。(2)〔心〕 ある状態や対象に対する主観的な価値づけ。「美しい」「感じが悪い」など対象に関するものと、「快い」「不満だ」など主体自身に関するものがある。また、一時的なものを情動、持続的なものを気分と呼び分ける場合もある。→かんせい(感情)

否定的:打ち消す内容をもっているさま。否定するようなさま。

ポジティブ(+)ネガティブ(-)で便宜上表現できるものは、場合やメンツや時間などを変更した場合、逆になることは多いのだ、とこれまで何度も書いてきました。誰かの欠点は同時に長所にもなりえるし、長所や美徳だと思えるものは、ある人やある場面では欠点ともなりえる。そんな当たり前のことを念頭におかずに、なぜだか、人々はみんなで批評家になっているわけです。

その基盤になっているのは、論理ではなく、たいていは感情的なものが支配しており、肉体的疲労や物理的傷害なども加味されて、なぜだか犯人は自分ではないし、自分が生じさせたものでもないと思いたい。それがSelf-worth(自己価値), Self-esteem(自己尊敬心)の中心になっているとも書いてきました。

ここで忘れてはならないのは、自分が自分のことを価値が高い存在だと思いたく、自分で自分のことが好きでありたいと思うのと同様、他の誰しもが同じように思っているわけです。それでも、なぜだか無意味に比較をしてみたり、競争のようなことをしてみたり、犯人探しの探偵まがいのことをしてみたりする。

いや、私はミステリ好きです。犯人がわかると楽しいです。ただし、最近はどんなものでも犯人がすぐにわかっていまうので、あまり楽しくもないです。うーん、数年前まではモノによってはかなり楽しんでいたのだけれどもなぁ・・・。1年前に横溝正史と江戸川乱歩を30年ぶりくらいに読み直したのですが、やっぱり記憶ってすごいものです。ほとんど記憶していたし、それでもトリックや論理で楽しんだとは言えるものの、犯人はわかったなぁ・・・。陽さんにご紹介いただいた京極夏彦も、最初の数作はけっこう馴染むのに時間がかかったように思えたのですが、3作目くらいからはわかるようになってしまった・・・。

現在、いろいろな問題点を見る機会があるのですが、受験生の親御さんたちは、小さいうちに志望校に入学してしまえば、あとの苦労が少ないから、とお尻を叩いているわけです。それがいかに浅はかな考えで、弊害が大きいかは、時間をかければ説明できるのですが、ただの講師としてはそんな親心を全否定することはできません。せめて、受験前にたっぷり眠ってもらえたり、精神的負担を軽減してもらえたり、おいしいごはんで会話が保てるような環境を、親御さんにオススメすることくらいしかできず、それぞれの家庭の方向性や考え方に対して、私がどうこう言えるかどうか?というのは、コミットメントする覚悟があるかどうか?に掛かっています。

面倒くさいのは、立場とか権限とかいうもので、私は自分が自由でいたいがために、それほどの権限を自分に持たせないように、日々邁進していること(笑)。仇になるのはこれで、能力的に認められる以外には、私の言葉は親御さんにまでは伝わらないわけです。だからなるべく結果が出るように、授業を進めていく。それでも、「それがあなたの仕事でしょ」程度にしか思ってくれない親御さんはたくさんいらっしゃるわけで、なかなか聴いていただけないことも多々あります。

子どもたちの中に、ネガティブなどうしようもない感情が溜まっていき、親が嫌いだ!というところまで行き着くのは、それほど意外な道筋でもなく、見ているととても悲しく思えます。

私はたまたまラッキーだったので、よく育つ要因をたくさん兼ね合わせた環境にいられたせいで、子どもの頃は、家で決められた仕事をこなしていた以外は、ただひたすら遊ぶために学校に通い、帰って来てからも遊び、遊び相手が習い事で忙しくなったら図書館に通い、ひとりで川原に遊びに行ったり、木登り訓練をしたり、中学生では部活が週6回というのを選び、やがて高校生になったらバイトを開始して、遊びに徹してきました。勉強はやらなかったものの、学習は日々してきたわけです。

幾人かの友人に、「どうやってそんなふうに賢くなったの?」とお世辞交じりもあるのでしょうが、聴かれることがあります。私の答えは至って明解で、「遊んだだけ。読書だけは人数倍したけれども、ただそれだけ」と答えています。そうすると「読書がキーなのか?」と聴かれるのですが、せっかくの大脳皮質を放置しておくことはないので、学ぶための後々の記憶や整理や要約などは日々鍛えたほうがいいので、「読書で充分でしょ」と答えています。毎日、ドリルをこなす必要もなければ、学校の進度を凌ぐほどの猛勉強などすることもないと思いますね。手段は何でもいいと思いますが、スポーツを1種と脳を使う課題を1つこなしていれば、子ども時代はそれで充分です。

そのおかげで、親には「適度に、基準+-くらい」しか恨み言は持たなかったし、生命や健康に危ういほどの遊びの誘いにも乗らなかったし、ネガティブな感情は、青春の重苦しい暗い気持ち程度にしか持たなかったし、「苦労は買ってでもしろ」と言えるようにもなって、進んで労働するようになりました。財産と呼べるものは、すべて頭の中といっしょに生きている人たちのハートの中にあるだけですが、それで、今大人になって言えるのは、ネガティブな感情は持たないで生きていける日のほうが圧倒的に多いということです。ありがたいと思うことだらけで、ある程度のHigh risk, High returnをやろうとする遊び心もあれば、論理的に物事を考えるゆとりもあります。感情的なことだけで他人を判断しませんし、自分が濁った偏った考えを持つ瞬間があることも、大前提としていつも認識していますね。

ネガティブな感情は持ち続けると、自分がダメになります。最初のうちは他人だけを責めていればせいせいするものの、いつかそれなりに賢くなってしまうと、自分が嫌いになりますから。そうなると、Self-worthやSelf-Esteemのジェットコースターライドが始まり、下がったり上がったり、本当に自分が面倒なことになります。それを廻りの人たちに撒き散らして生きて行ったら、「そして誰もいなくなった・・・」(Agatha Christie原作)になります・・・。

もしもネガティブな感情を持て余しそうになったら、早く根本解決してくださいね。まともに口を利かなくなった親子や友人たちがいたら、彼らのようになったときの自分を想像してみてくださいね。


そろそろ限界に近づいているかも

01/30/2008 にアップした文章です。

1月2日から完全休日がなく、朝から晩まで働いてきており、たまに昼間に3時間ほど息抜きができる程度の暮らしをしてきました。その空いた時間には、無料で知り合いの英語カウンセリングをしたり、添削や翻訳や調べ物をしたり、と、過酷な日々です。あと何日このままで暮らしていくのか?と考えたところ、Xデーが設定できそうなので、「それまではなんとか・・・」と思いつつやっているところです。が、そんなときだからこそなのか、タイミング悪く、追加仕事は入るものなのねぇ・・・。ありがたいことですが、そろそろ限界かな、と思っているところです。

昨日も、朝の10時から夜の7時半まで、あいだの休み時間はたったの5分なので、トイレに行くくらいしか時間がなく、ビルの喫煙室まで到達することもできず、私の禁煙時間は、ちょっとした海外旅行に行ったときくらいに長いものでした。9時間と45分くらい(爆)。それくらい開けると、もう吸ったときにはクラクラしますね(笑)。それっきり止めておけばいいのですが、そうもいかず・・・。中毒性の高いタバコの悲しいところです。

朝ごはんを食べないと、いつか糖尿病になるよ、と医者のDouglasには警告してもらったものの、夜遅く帰宅してから食べているので、朝はまったく食べる気持ちにも体調にもなっておらず、ますますこれじゃー、糖尿病まっしぐらだろう、と思えています。バナナやみかんといったものが好きではないし、カカオ95%のチョコレートがあるにしても、私はやはり積極的にはチョコレートは食べられない。でも、先日、2日続けて、生徒さんが心配して、プライベートレッスンのあいだに、チョコレートをくれました。食べました(笑)。

授業中に疲労感を覚えることはまったくないのです。立ちっぱなしになったら座るとか、酸素が足りないようなら欠伸をするとか、ストレッチを取り入れたりするとか、いつもとそうは変わらない。何が決定的に違うか?と言えば、「ひとりの時間」。自分で気持ちのゆとりがなくなるはずはないと思ってきたのですが、さすがに「いつも誰かに見られている状態」がこれほど長く続くと、相当にきつい。やはり1日に数時間、起きているあいだに、誰にも見られていないネコのような時間が必要なのである。母がいつも居るとはいえども、寝る30分くらい前には引き揚げてくれるので、ひとりにはなれるのですが、昼間がまったくそういう時間がないのです。朝9時から仕事を開始して、それから夜の11時までずっとない・・・。街中に出ていることが多く、そうでなければ、生徒さんの前。みんなのことは大好きですが、どうもひとりになりたい・・・。

山の中に隠遁したくなるのは、こういうときなのだろうなぁ・・・。

でも、2月3日は完全休日になると踏んでおり、それがダメであると、次は2月10日へと希望を繋がねばならぬのですが、受験日、あるいは中日にあたるので、きっと大丈夫だろうと思っているのです。まさか、前日に3時間お願いします、という依頼が来るとは思っておらず←甘いのか?

とても現金な私は、2月2日がビルの定期点検のため、英語学校のほうも午後4時の授業でおしまいなので、みんなとごはんを食べに行く約束を、すでに取り付けてしまいました。もー、誰かとごはんを食べに行くなんて日が来るなんて思わなかったよ・・・ってくらい長かった。去年の年末、看護婦さんたちと忘年会をした、12月28日以来ですから。それでも、10時から16時まで働くわけで、6時間労働後、というのと、それまでの疲労の蓄積があるので、飲酒にはくれぐれも気をつけなければなりません。希望としては中華です(笑)。今のところは、生徒さん4人と私なのですが、増えると思います。幹事は、大学生の女の子にお願いしたので、きっとアレンジしてくれることでしょう♪

自分のサービス(教える)の質が落ちているのではないか?と心配していたところ、生徒さんからの苦情はなく、むしろ、次々とプライベートレッスンの申込みが入っているところで、月曜日はいつもは行かないのですが、プライベート4コマのために行きます。グループレッスンの日の前にもプライベートがひとつ追加になるなど、いい評価をいただいており、生徒さんが欠伸をしない限り、私にも感染することはなく、不思議なくらいに時間は早く過ぎていきます。

そうなんですよ。今月がもう終わるとは、到底信じられず・・・。1ヶ月経とうとしているのがわかるのが、このブログを更新するとき。ブログには蓄積でこれまでのエッセイが山積されており、その日付を見ると、「あ、やっぱり日数経ってるんだ・・・」と思う。タイムカードやら勤務表やらでは、まったく実感は湧かない(爆)。TV番組なども、決まって見ているものはないので、実感は湧かない・・・。景色もそれほど変わっているようには思えず、1月の景色の変わり具合など、それほど繊細でなければわからないかもしれず・・・。

こうして忙しくしているうちが華だということはわかっていても、7時間半や8時間睡眠後の朝、まだ疲労感が残っており、「もう少し眠りたいなぁ・・・」と思う日が多くなってくると、健康な私でもさすがに不安は募る。そこで、血圧を測ったり、血液検査がてらに、と、空き時間に献血センターに行ってみたりする←ここでまた400ccとか言うから疲れるのか?(爆)いやー、30分の時間を潰すのにはけっこういいのよ。1ヶ月空いてないといけないのだけれども、私はかなり献血マニアなところがあったんですが、最近、また呼び起こされました(笑)。

その血液検査をしてくれて、感謝を評してくれたあと、説明を受けるに、私は20代の頃くらいにまだ健康らしい。γ-GTPがとても不安だったのですが、それも大丈夫。空腹時の血糖値が、平均の上のほうかもしれないことくらいが懸念なだけで、中性脂肪もコレステロールもまったく大丈夫だし、通風の気配などあるわけもない・・・。

うーん、健康なのだ・・・(笑)。

それでも疲れているというのは、私は普段はスーパー健康なんだろうな・・・と思うしかなくなるわけです。だから、まだ弱音を吐けないぞ、とも。限界に挑戦する予定ではなかったのですが、結果的に限界に挑戦しています。やはりそろそろ限界かもしれない。Xデーは、2月3日。あと、4日働けばなんとかなるわけです。月末のお給料を使う暇がないのはつらいです(笑)。宴会で、どのくらいの会費になるかわかりませんが、ハンパは私が喜んで出しましょう(いつもはなるべくご馳走する。でも、今回はあまりにがんばったので、たぶんみんなが出させないと思われる・・・)。

昨日なども、もう会食している風景が夢に出てきたわけです。ちなみに私は自分の夜の夢を、朝起きたときに必ず2本は憶えていて、脳の調子がよければ3本や4本のときもあり。ただし、ここのところ、やはり2本しか憶えていない日が増えており、この前1本しか思い出せなかったときには、ちと愕然としました(苦笑)。やはり遊びは支えになるものなのだなぁ。遊ばない私ですら、やはり遊びたいと思うのである。

しかも、図書館には、母に行ってもらっており(オンラインで予約して、私のカードを差し出してもらってきてもらう)、自分で本のあの山々を見渡していないのです。これもかなり疲労が溜まる原因なのかもしれないです。しかも、授業のコマ数が多いと、準備も多くなるので、電車内でもけっこう資料を読んでいることが多いので。

さぁ、カウントダウンできるくらいになったから、限界が来る前に、ちゃんと休養しますよぉ。

なぜ勉強するのか?

01/29/2008 にアップした文章です。


最初に受験生に逢ったときに、私はこれを聞いてみました。「いい大学に入りたいから」という答え。「ではなぜいい大学に入りたいのか?」と聞いてみると、「いい会社、安定した仕事に就きたいから」という答え。「なぜいい会社、安定した仕事に就きたいのか?」と聞くと、「ちゃんと食べていけるようになりたいから」とのこと。間違った答えではないのだろうけれども、3人いて、3人から同じような答えをもらったあと、私は今後、これをみんなに聞いていかねばなぁと思ったのです。統計を取ることに生命を燃やしているわけではなく、教える側として、「学ぶヨロコビ」をどうしても、瞬間でも、得てもらいたいと意地のように思ったわけです。

意地のように思ったわけではなくて、もう、これは本当に意地なんだろうなぁ(苦笑)。

意地:(1)自分の考えを通そうと思う気持ち。強情な気持ち。(2)気だて。気性。心根。(3)物をむさぼろうとする気持ち。特に、食べ物に対する執着。(4)〔仏〕 六識(ろくしき)のうちの、意識。心のはたらき。

勉強:(1)学問や技芸を学ぶこと。学習。(2)ある目的のための修業や経験をすること。(3)(商人が)商品の値段を安くして売ること。(4)物事にはげむこと。努力すること。(5)気が進まないことをしかたなくすること。〔(4)が原義〕

学習:(1)まなびおさめること。勉強すること。(2)〔生〕 生後の反復した経験によって、個々の個体の行動に環境に対して適応した変化が現れる過程。ヒトでは社会的生活に関与するほとんどすべての行動がこれによって習得される。(3)〔心〕 過去の経験によって行動の仕方がある程度永続的に変容すること。新しい習慣が形成されること。(4)〔教〕 新しい知識の獲得、感情の深化、よき習慣の形成などの目標に向かって努力を伴って展開される意識的行動。

私は子どもの頃には、まったく勉強のヨロコビというものを知らないでいたかのように誤解されるのですが、学校での勉強が嫌いだっただけで、学ぶことについてはとても楽しく感じ続けていたのです。学習と勉強は、おそらく違うものである、ということを疑い始めたのは、それよりずっと後の渡米後の英語学校でのことで、それも勉強と学習の違いをそれほど意識したわけではなく、大学に戻って心理学を学び始めたときに、はっきりとわかるわけです。英語でいうところの、Study vs. Learningの違い。私は学ぶことは歓んでしたのですが、どうも勉強はやりたくなかったようだ・・・。それでも、避けて通れないことがわかり、「学ぶためには勉強もせねばならないので、Give and Takeだからがんばろう」と自分に言い聞かせていくことを、30歳過ぎてようやく学んだのですな(笑)。

私自身が30歳過ぎてから学んだことを、どうして10代の子どもたちや、英語学校の若い生徒さんたちに押し付けることができるものか!と思いつつ、30歳まで待たずとも、もっと早く学ぶヨロコビがわかってもらえれば、そのあとの人生はうんとラクになるのではないか?と、日々励んでいるわけです。

私の生徒さんの中には、高校生の女の子がいます。毎週3時間もいっしょに学んでいると、彼女のバックグラウンドや家族や考え方などがよくわかってきます。彼女は、やはり勉強は面倒くさいと思っています。ただし、とても優秀です。学校では、学級委員だし、英語のスピーチ大会にも進んで出るし、目標は親掛かりではあるものの持っているし、なりたいものも薄らぼんやりではありますが、絞れてきています。何よりも、彼女がステキなのは、「どんな人間になりたいか」がわかっていること。「あれやこれをする人間にはなりたいけれども、あんなことやこんなことだけは絶対にしない人間でいたい」ということを、熱く語ってくれます。いや、最初は言葉少なで、私も苦労したんですが・・・。

彼女の家は、裕福なので、私はお母さんにお願いして、Discoveryチャンネルを入れてもらい、毎日30分番組を2本か、1時間番組を1本、英語で見てもらうようにしています。自然と、ボキャブラリーが1日のうちに30個くらいは増えるためで、彼女が嫌いなジャンルである、生物や科学全般や歴史や社会科学が満載だからです。この作戦はうまく行っており、彼女は事件モノに嵌まり、なぜ?を追求したくなってきたようで、ミステリを解くためのツールをだんだん手に入れてきました。ヒントを拾い集めるアンテナを持つことは、テストでも技術とは言え、有効な武器です。

もうひとりの高校生の女の子は、ホームステイでNew Zealandに4月12日まで行っており、最後のレッスン日には、Hugをしてさみしい気持ちになってしまいました。今頃どうしていることやら・・・。3週間に一度、親御さん経由でお手紙を書いてくれるように頼んだのですが、まだ3週間経っていないので、第一便は来ません。彼女は、とにかく聴けて話したい!とだけ思っており、読み書きを避けたいと思っています(笑)。

みんな、学校から押し付けられた勉強をせねばならず、本当に気の毒だと思うのです。文部科学省もかなりいい加減なことは自明で、いじめによる自殺を認めなかったことははるか彼方の過去の出来事のようですが、今も続いています(新しいニュースがどんどん出て、みんな忘れていくのよね・・・)。円周率はいまだに3.0ですし・・・。http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/youryou/111/020101a.htm 言い訳はいろいろしていますが、本当に各小学校で、この理屈を反映させているかどうかは疑問・・・。

勉強だから、決められたことだから、というのがネックになっており、自発的なやる気は、むしろ勉強よりも「学習」に大きく因ります。成果が出る、だからまたやってみる、楽しい、さらに続ける、というプロセスです。指導する側のほうは、苦労して勉強ではなく学習を試みているのでしょうが、大企業のセミナーなどを見ても、「会社がやっているんだから、出ないとまずいだろう」と思いながら来ている人たちは、欠伸をしたり、それこそ居眠りをしたりして、ほとんど聴いてもいません。おもしろければ起きているんでしょうが、おもしろくないんでしょうね・・・(汗)。参加型のセミナーは増えてはいるものの、義務感を拭わなければ、なかなか実に結びついていきません。

私は予習は一切出さない主義です。ひとりで悶々とわからない問題が出てくるかもしれない練習問題を、忙しい人々にさせるのは気の毒すぎます。それよりも、ちゃんと授業を受けたあと、理解したかどうか、解けるかどうか、で、自分の学習度合いをわかってもらったほうがいい。しかも、私は体調チェックを怠りません。ダメなときもありますさ、と励ましています。寒いとジャミラみたいな肩で教室に来る人がいますが、そんなに凝り固まっていたら、学ぶ体制じゃないですもん(笑)。

昨日の自分より今日の自分、少しくらい休憩してもいいから、明日の自分はもっと成長していたい。そう思ってもらえるために、学習はしてもらいたいですが、勉強はソコソコでいいんでしょうねぇ。IQだけで人の賢さを測るのではなく、EQ(Emotional Quotient:情緒指数)とのバランスを考えないといけません。校長センセが普段からおっしゃっている倫理観やモノの考え方というのは、ここに大いに関連していると思うのです。

勉強するのが楽しくて仕方ないと思うようになるまでには、「たくさんの学習の成果が続くこと」が必要になってきます。西さんも旧帝大を出ていますが、「勉強なんてつまらなかった」と即座に言います。でも、大人になってからは、なぜか勉強も楽しいようだ・・・。私も大人になるまで楽しいと思えなかったのだから、若い生徒さんたちには、どうしても押し付けることなく、「たくさんの学習の成果が続くこと」を体験してもらいたいと思っています。

そして、今日は、受験生のお守り代わりに持たせるものは何がいいのかなぁと考えているところです。

Yes-No Questionsで話す?

01/28/2008 にアップした文章です。

いわゆる、相手に有無だけを訊く質問をする人のことを指しているのですが、私はこれが多くなると、自分がどうしても嫌になってしまうのです。英語を教えていると、わざわざYes-Noを明確にせねばならぬ事項は、いわゆる5W1Hの質問をしてキャッチボールをする、物事の進捗や状態がわからないからこそ話す、というコミュニケーションの領域にはならないわけです。たまにYes-No  Questionsが混じりこむのは、念押しや状況把握などを確認するためのツールなのです。日本語でも注目してみるといいのですが、英語ができないから、Yes-No  Questionsをしている場合と、日本語からして念押しや自明のことを他人に尋ねている人がいて、なんだか見ていておもしろいわけです。いや、おもしろいのではなくて、「どうして?」と思うのかな。

「あなたは本気でこの仕事を終わらせる気持ちがあるのですか?」などと言う人がいたら、どんなに鈍感な人でも、責められていることには気づくでしょうし、何度も何度も「本当ですか?」などと言われたら、「うひー、まったく信頼されてないよ・・・」と思わなかったらまずいです。これほど極端ではなくとも、口を開くたびに、ただの確認を(仕事の進捗方向が正しいかどうか、お休み時間なのでランチに出かけてもいいかどうかなどの許可、判子をもらえるかどうかの依頼などなど)するのは、どうも味気ない・・・。見えない路線があって、そのレールの上を滑っている最中に、線路が続いていることやスピードが遅かったり速かったりしていないかどうか、のマニュアルに則った流れになるわけです。

Yes-No Questionsの害のほうを考えると、たとえば、学校などであったテスト問題に直すと、2択や4択ばかりに強くなり、書き込み問題や作文問題に弱くなる、というような気がしています。とは言っても、悲しいことにその形式の問題ばかりが増えており、採点するにも採点者にお金を払わねばならぬ、というマンパワーへの代価があるので、仕方ない傾向なのかしら・・・。

それは、日本語が持つ、「推測しやすい」「洞察力が持ちやすい」「他人に共感できる」という側面がもたらしているのだろうと思うのです。だからこそ、他人やある物事に対して自分が推測したり、洞察したものに関しての「確かめ」をするということが多くなる。ただし、それがあまりに多くなると、「当たり前のルール」「常識」を廻りに押し付けられたり押し付けることにもなるマイナスの側面を持つわけです。他人に語らせる前にこのYes-No  Questionsを投げかけてしまう人や場合は少なくありません。親が子に、上司が部下に、先生が生徒に、と、大いにこの「相手に語らせることをしないYes-No  Questions」が横行しています。そうなると、コミュニケーションの質は大いに落ちるのかもしれないなぁと、ふと考えたりするわけです。

日本語は英語やその他の言語が持たない、いいところがたくさんあるので、他言語がいいところとしているところを、積極的に真似ていけば、さらによくなると思うわけなんですよ。

なぜ?どのように?どこで?誰と?誰が?誰の?どれが最も?いつ?などなどを駆使していけば、会話というのはもっと個人の頭の中や心の中を覗ける、いいツールになるわけです。あまり不躾に踏み入ることはオススメしませんが、ある程度の距離感を確認したあとであれば、Yes-No Questionsよりずっと深みや幅をもたらしてくれる豊かな会話になっていきます。

それをベースにして、他人に対するときにも慮り、他人の事情をすべてわかっていないのだ、という前提で話をすることができるようになると思うんですよ・・・。わからなかったら、勝手に推測したり、平均値の中に話し相手を入れ込んでしまうのではなく、直接本人に、尋ねられる範囲で訊ねてみる。これは大切なことだと思います。言いたくないことは言いたくないと言えばいいだけのことで、「言いたくない」とそっけなく言う人ばかりではなく、「ただ必要資料かと思って質問してみたのだ」という概念が浸透していけば、不愉快になる確率はぐーんと減っていきます。

英語ではそのような距離感の取り方は、かなり楽しく展開されています。よく話す人はあけっぴろげに、知り合いにでもいろいろなことを話してくれますが、あとあとよく考えてみると、誰かを傷つけているわけでもなく、個人情報をばら撒いているわけでもなく、話を聞かせてもらった私の知識が増えていた!というようなことが、よくありました。

私は行きつけのお鮨やさんでよく、「あなたはハーフ?日系人?日本人?それとも他の血も混ざっているの?」とよく訊ねられていて、この一見、Yes-No Questionに見える質問も、実は幅のある選択肢であることが、あとあとよくわかったものです。ひとつひとつを区切って質問するとYes-No Questionなのですが、いっぺんにこの可能性の幅を入れてくるので、大して気にも留めず、すらすらと「純血の日本人よ」と答えていたものなのです。そのあと、畳み込むように、「こちらには何年住んでいるの?」と来る。そして、日本文化(まぁ、鮨やなので、鮨のネタが多いんですけども、どんどん展開してゆくのですよ・・・)へといろいろな話ができて、私も聞かれた分だけは、相手の文化について質問を投げかけていく。比較対象をするために会話をしているわけではなく、「違うおもしろさ」や「偶然のような、けれども理にかなったここでの出会い」についても話す。そんなことが度重なると、政治についてや世界平和について、哲学的思考などが盛り込まれるような話ができるようになっていく。たとえ、きっかけがお鮨や映画や折り紙であっても、です。

私はまともなお勤めをしたことがないので、制限を加えられたことがあまり記憶にないのですが、ウェイトレスをしていた16歳から24歳までのあいだですら、「お客さんとこんな話をしてはいけない」ということは言われたことがありません。メニューに載っているのに、「こっちのほうがおいしいですよ」とオススメしても、怒るような上司(社員さんなのですが)はいなかった。

英語学校にしては変な宿題なのですが、『自分の泣けた映画ベスト3』だとか、『裁判員制度になっていいことと悪いこと』『10億あったらどう使うか?』だとか、いろいろ投げかけをしています。ただし、『10億あったらどう使うか?』の質問などは、石川遼選手に関しては、現実の悩みになっていくんでしょうねぇ・・・(笑)。などという冗談も忘れずに入れています。「練習問題はできましたか?」では芸がなく、「どの練習問題ができなかったのか、その理由は考えてみましたか?」などと、ひねるようにして、例題をいっしょに見てみることにして、大勢の中で、みんなができないであろう問題をやったり、優先順位をつけて「今はこれだけマスターしましょう」と、ゆとりを持たせて、質問をバンバン受け付けることにしています。ただし、生徒さんには、「なぜ?」「どのように?」などは、自分である程度まで考えてきてもらってからでないと、受け付けることはしません(笑)。質問に質問で答えることもしばしばです←掟破りなのだけれども(笑)。

ぜひぜひ自分の会話が、Yes-No Questions寄りになっていないか、確かめてみてください。特に家族に「ねぇ、シャンプーはこれを下ろして使っていいの?」「パンツが見当たらないんだけど、私のパンツある?」「ねぇ、最近、オレ太ってきたと思わない?」などという会話では悲しい(笑)。せっかく、パートナーが「何が食べたい?」と訊いてくれたのに、「何でもいいよ」では切ない(笑)。Yes-No Questionsではない質問にも、相手が望むことを答えられているのか?を自問してみるのもいいです。会社では、しょうがないのかなぁ・・・・(汗)。

紀久美先生へのQ&A~心理学講座編~その84

恋愛と結婚は別なんでしょうか?

恋愛と結婚が別だとすると、人生そっけないものになりませんかね?恋愛は夢で、結婚は生活だという人がいますが、その点と線をしっかり結ぶことができればこれ以上嬉しいことはないんじゃないでしょうか?

つい先日もレッスンで、Attachmentを学んでいただきました。この世に生まれて、一番最初に「絆」を形成するメカニズムについて学んでいただき、その後、その絆があらゆる人間関係に関連していくことを、びっくりするほどの符号を見つけたことに生徒さん達は喜んでいました。

どのように他者(心理学では自分以外の他人は全て他者と呼びます)と関わっていくかというのは、この絆の強さによってなぜか方向性が決められてしまいます。人間関係そのものに希望が持てるかどうか、自分の態度がその絆の直接的な相手にどのように受け止められるかなど、赤ちゃんの頃に学んだことが強く染み込んで残っていくわけです。

この絆の強さによって、恋愛と結婚は別だという人たちが増えるんでしょうね。

結婚する時に、たくさんの条件を並べていく人たちがいます。年収・学歴・家柄・身長や体重・職業などなど、 個人の人間性を反映するものなのかもしれませんが、主体ではないと思います。これらの条件に対して大変に厳しく、ぴったりマッチしていない場合には結構に至らない、という人々やカップルも沢山見てきました。

もちろん、生活していくのにお金を得るための職業や、それから得られる年収は大切なことです。けれども、社会はどんどん変化しています。1970年代は鉄鋼・銀行が盛んでしたが、 ITの時代になり、士業が安定的だと長く言われていましたが、昨今はそれほどでもありません。医師はブルーカラー化するほどに 長い時間や厳しい仕事を迫られていますが、それほどの報酬があるわけでもありません。

生きていくということは、基本的には、自分の糊口は自分でしのぐことができたほうが、恋愛の次に結婚というステップが踏めるようになるはずです。誰かが誰かを養い、それを当てにして生きていく、というスタイルでは、社会が変化した時にでも弱い存在になってしまいます。

恋愛と結婚を同じものにできる人は幸せではないでしょうか?もちろん、ここでも多様性が高くても OK ですから、専業主婦になりたい人や、主夫になりたい人がいても問題はありません。根本的には、恋愛の頃のような情熱や恋する気持ちが、ずっと続くことが大切なのかと思います。いつのまにか家族になってしまい、恋する気持ちがなくなって、人としての情だけで繋がっていくという夫婦もよく見かけます。それを自分が納得できるのであれば、それもありなんでしょう。ただ恋する気持ちがずっと繋がっていくことは、かけがえのないものだということだけは伝えておきたいです。

寝ても寝ても寝足りない

01/27/2008 にアップした文章です。

1月2日からずっとお休みがなく、朝から晩まで働くことが日常になっており、休んだほうがいいとは思うものの、受験生をふたり面倒見ていたら、もうひとりお願いしますと申し込まれてしまい、講師冥利には尽きるものの、いかんせん、あと1週間で受験は開始し、その後、後期分も入れれば、わずかに1ヶ月が勝負。「結果を短期間で出す」と評価してもらったのはうれしいのですが、断れなくなっていることは確かで、私はまるで自分が受験生になったかのように、くたくたに疲れています。そのせいなのか、寝ても寝ても寝足りない状態なんですよ。ふぅ・・・。

英語学校のほうも、キャンセルなどできるわけもなく、むしろ、職場としては楽しいのだし、みんなに教えているほうが私だけの力で引っ張るわけではないためラクではあるし、マンツーマンの生徒さんも、切羽詰った案件はまだないです。おかげさまで、目標時間のノルマをまだ破ったケースはひとつもないのですが、悲しいことにカウンセリング段階で、勉強時間が取れない人には「もう少しかかるよ」などと言わせていただいているので、それは当たり前のことなのでしょう。私が引き受けて長くおつきあいする分には、留学にしろ、各種試験にしろ、やはり本人の目標までは行ってもらいたいと思っており、そのためにであれば、添削もすれば、ジャーナル読みもすれば、資料集めもします。お金にならない時間は増えますが、歓ぶ顔を見られる確率は増えていきます。

そうしたデッドラインやノルマに囲まれていた学生時代は、それはそれは気持ちのいいものでした。おかしいって!?(爆)いやー、私は小さくとも目標がきびっと決まっている暮らしをするのが大好きで、学生であるととてもそれが明瞭で、「何曜日までに何章までを通読して、マーキングを終了」「何曜日までにまとめを終了」「何曜日までにテスト前までの仕上げを終了」「何曜日までにレポートを終了」などというわかりやすい目標は、むしろラクでした。マニュアル人間的資質(誰かに何かを「こうあらねばならぬ」「こうすべき」と言われてやること。自らの裡から出ているわけではなく、「当たり前のことだから」「決められているから」と抵抗なくこなすこと)が、私の中にはいくばくかあり、それに一ひねりするのが、「自分がやりたい!」と思うプロセスを加えることなわけです。その「自分がやりたいプロセス」には、「どうしてこれをやりたいのか?」「やるとどうなるのか?という全体図・大きな図柄の把握」「やらないとどうなるのか?」などの小項目が付け加えられるのですが、そのおかげで、さらに本当に自らが自分の意志でやっている、という実感になり、「やらねばならぬ」が、英語で表現するところの、must/shouldからhave toになり、他人のせいや世間のせいにはしなくなります。

それを長く続けていくと、他人をアテにしたり、世間を恨んだりバロメータにすることがなくなってきて、もちろんこれにはマイナスもあるのでしょうが、私のそもそもの性格を鑑みてみると、+になっていくようです。

ところが、今の私には受けている講座も学校もないので、他人の目標の力添えになることが、かなり明瞭になっている目標です。そこで日ごろから唱えている、ヒトが社会動物として身につけていったほうがいい能力である「共感」が使えて、よりよい仕事ができるのではないかと思うわけです。

ところが、そのマイナスは、親身になりすぎることで、「今頃ちゃんと寝ているかなぁ・・・」などとも考えて、なかなか切り離せなくなってしまうことで、その時間を埋めるために忙しく仕事をするほうがラクだということに気づき、さらに仕事を入れてしまうわけですよ・・・。目の前に仕事があれば、遠くにいる受験生のことを考えている贅沢やゆとりがなくなります。そして、12月から今までの私は、完全休日がなくなっているわけですね・・・。

依存症の家族で書いた通り、私のアルコール依存症はいつ復活してもおかしくないのであります。大好きなHealth Ledgerがなぜ死んだのか?という追跡記事を詳しく読んでみると、彼はハイパーすぎて眠れなかったということ。1日2時間睡眠をずっと続けていて、睡眠薬も処方してもらっていたらしい。うひー、私もじゃないか・・・。私の躁鬱病がなぜ軽い部類に入るのか?というと、最初に精神科医に説明してもらったときには実感がなかったのですが、PTSDで長いセラピーをしてわかったことに、「疲れたら眠ることができることで、躁状態のほうに支配されているということ」でした。その躁状態は、頭ではなく身体が疲れてしまえば、何とか通常通りに眠れる確率がひどく高いというもの。救われた材料です。

というわけで、私は受験生と同じくらいに頭がしびれて疲れてしまっている中、さらにコマ数をたくさん引き受けて、物理的移動も増やし、話し教え、こなし仕事も増やし、身体的にも通常の限界まではしっかり働くことで疲れて、しっかり眠れている、という幸せな状態にあります。

だからなのですねぇ・・・。寝ても寝ても寝足りないくらい眠れるわけです。ここのところ、受験開始日が近づいてきているのですが、受験生たちには「1日8時間は寝てほしい」とリクエストしつつ、私も7時間半は確実に確保し、さらに気づくと1時間ほど増やしたりもしており、今日などは思いがけずに昼間の3時間が空いたので、90分眠ってしまいました(笑)。いやー、頭はすっきりだ♪

グループでのReadingクラスでは、睡眠に関しての読み物も多く、受験生たちの過去問題や準備問題の中にも必須のように出てきており、それを読むたびに、「うひー、睡眠はどう考えても大切だ・・・」と思うように、自己暗示をかけているせいもあるのかもしれません。

睡眠不足が続くと、翌日の労働や学習(学生の場合)に当たる際、IQ(知能指数)が下がっている状態でこなさなければならない、というくだりには、生徒さんたちも衝撃を覚えたようです。指数が下がる度合いは、わずか1日の1時間でIQひとつ。が、長く続くと、落ちっぱなしになり、1日1ずつではなく、倍増することが怖かったようです・・・。さらに、成長ホルモンがどんな役割を持っていて、20歳を過ぎると、エクササイズか睡眠時にしか成長ホルモンが出ないことを知ると、かなり恐怖は増し、エクササイズするよりは毎日行っている睡眠の質を考えてみたほうがいいかも・・・ということにはなるのかもしれず、です(笑)。私も睡眠の質はいいですよぉ。心理学部に入ってよかったと思うことの大きな収穫のうちのひとつです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E9%95%B7%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%83%A2%E3%83%B3 >成長ホルモン
http://www.francebed.co.jp/abc/sleep1.html>眠りのメカニズム(簡単理解版)
http://zzz.la.coocan.jp/kiso.html>もうちょい詳しい版

しかも、ヒトは冬のほうが眠りに頼る時間が大きくなります。冬のほうが自然環境が厳しいので、食べ物や気候ではなく、睡眠でその回復や修復や縄張り保護などを確保するわけです。なので、私がくぅくぅ眠り病になっている今が、冬であることも、それほどの不思議はないのではあります。夏のほうが同じ個体でも、睡眠時間が短くてもやっていけるんですよ♪体内時計を詳しく知ると、メカニズムがよくわかります。

というわけで、完全休日が確保できた暁には、まず10時間ほど眠りたいです(笑)。そのあとは、美容院。1年に1回しかパーマをかけなくてもいい後ろ髪(前髪やトップはさすがに4ヶ月に1回は必要だ・・・。切っているので)が、もう前回かけてから、1年2ヶ月経っています。前髪部分もぺっちゃんこです。好きなだけ眠ることができるとわかったら、すぐに美容院の予約をするぞーう!

みなさまも、冬は長めに寝てください♪さらに、この機会にもっと眠りについて知識を入れてくださいね。

依存症の家族

01/26/2008 にアップした文章です。

私もアルコール依存症ですが、今はたいへんに落ち着いています。自分では、Social Drinkerと呼称しており、外で家に帰れなくなるほど飲むことがないようにしており、メンバーも「恥の書き捨て」ができない人たちをしっかり選んでいます。家で飲み始めると、「あとは寝るだけ」なので、際限なく飲んでしまい、飲める体質の私としては危険です。家での失敗はそれでも実際はあまりなく、ただただ、静かに肝臓を酷使した、というだけなのでしょう。所詮、母や西さんは私を許してくれるのだろうけれども、やはりそれに胡坐(あぐら)を掻くわけにはいきません。

それに、アルコールのまずいところは、もちろん、その反面いいところでもあるのですが、脳が完全にいかれてしまい、その後時間が経たない限り、勉強ができないところ。勉強だけではなく、ブログも書けないし、相手が飲んでいなければロクに話も成立しないこともあり(笑)。

私がアルコール依存症になった理由は、思い当たることがあります。躁鬱病なせいで、とにかく起きているあいだはハイパーです。自分が冷静になったときに、「どうして私はこんなに生き急いでいるんだろう?」ととても切なくなるわけです。が、起きているあいだはどうしても、どんなに気をつけても抗えないほどに、物事をこなしたり、頭がパチパチ動いてしまうわけです。初めてアルコールに出会ったときには、「これだ!」と思いましたよねぇ・・・。頭がスローになる。ろれつもあやしくなり言葉もスローになる。行動もスローになる。他人の欠点も気にならなくなるし、世の中の理不尽にも腹が立たなくなる。

私にとって、アルコールは、自分や世界を意識下に埋めさせることができる、睡眠の以外での、唯一の手段だったわけです。こんなに魅惑的な世界があったとは、それまでは夢にも思わず・・・。それでも意識が完全に失われるまでは、かなり楽しめるわけですよ。スローな自分に。スローな世界に。ドラッグ中毒、依存症では、Upper(気分を高揚させるもの)に頼るという手も、他の人にはあるのかもしれませんが、私はそもそもアップビートな時間を過ごしているので、逆なDowner(気分を落とすもの)が必要なわけです。ええ、アルコールは、最初の数十分から人によっては2時間ほどはUpperに感じることがあるかもしれませんが、実際はDownerです。http://norry.blog29.fc2.com/blog-entry-22.html このサイトがおもしろく解説してくれてあります。絵柄もきれい♪

そんなこともあり、ひとりでお酒を飲むのはよくありません。たとえいっしょに飲んでくれる人がいないとしても、面倒を見てくれたり、話相手になってくれたりする人がいたほうがいいです。私は、ハイパーな躁状態が長く続いたあと、急にストーンッ!と落ちてしまったときが、アルコールをひとりで飲むときに顕れたりしたことがあって、大昔に大失敗をしたことがあるので、ひとりでは決して飲みません。死にたくなるなんて、本当に発作的で刹那的なことなんだな、というのが、そのときに得た教訓です。たとえ、日ごろ、どんなにしっかりした観念や信念を持っていたとしても、ドラッグの影響を脳が大きく受けている最中には、大した役にも立ちません。

しかも、疲れが溜まっていたり、内臓なども弱っていたり、人間関係がうまく行っていなかったり、何か悩みがあったりしたときには、アルコールをはじめとするドラッグは、あまりいいものではないわけです。

でも・・・、ここまで読んできてくださってきたみなさまの中で、「タバコ」というドラッグをいつまでも止められない私に、とやかくあれこれ言われたくはないだろうな、と思うのです。ええ、ええ、私はタバコをもう30年くらい吸っているのですが、止めようと決意したことは本格的にはなく、西さんの度重なる禁煙におつきあい程度しかしてなく、それもほんの2回ほどだった・・・(汗)。以来、健康にひどい不安が芽生えて、やる気や動機がフツフツと湧くまでは待っていよう。機が熟すのを待っていよう。などと、いろいろな言い訳をして、こんにちに至っています。ひどいなぁ・・・・・・・・・・(汗)。

私はこの二大ドラッグとだけ戦ってきたのですが、他にも依存症の家族を持っている方々は多いのでしょう。バクチやブランド買いなどの借金するほどの依存症もありますし、カフェインなど自分では意識していないものも大いにあるでしょうし、恋愛依存なども含めると、相当に広い範囲になるのでしょう。ただし、疾病の範囲に及ぶものは、やはりプロに相談したほうがいいです。素人や素人に毛が生えた程度では、きちんとした判断ができません。

ちなみにWikiにはなんて書いてあるのかな・・・。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%9D%E5%AD%98%E7%97%87
あー、やはりいろいろな種類があるし、個人できちんと専門家に行き見極めてくださいというような注意書きがついている。そうそう、ネットなども中毒にひとつです。私も初期には相当に嵌まりましたし、今もメールがなければ、このひどく忙しい日々をどうやって以前に戻すか?と頭を抱えます←もちろん、やっていたんですから、可能であるのに、どうしてか不安なのは、もう依存しているからなんだろうなぁ・・・。

依存症・中毒と言われると、軽蔑・差別されたような気になる人がいると、ここにもありますが、私はどうもそうは思いません。それよりももっとひどいことは多々言われてきたし、実際に依存症ですし。認めることが難しいうちは、本人自身が快方に向う道には立っていないということです。一度依存したものや人やその他がある場合は、生涯、そこから完全に離れた生活をしない限り、また戻る可能性があるということで、依存症は生涯闘う病気だとされます。私も、アルコールに依存する未来がないとは限らず、コントロールしながら飲んでいますが、完全に止めることを考えないのはなぜなのか?

校長センセがおっしゃるように、適量の範囲であれば「とても」いいものが、依存症の場合は多いのです。買い物を一切しなくていい世界に、我々は住んでいません。アルコールや売春やドラッグなどは、利便や効能もある、背中合わせの存在価値があります。全否定はできません。ゼロの生活を選び取るということは、私にはやはりできませんでした。できる方々もいらっしゃいますが・・・。

そんなわけで、肝臓機能が著しく低下している場合や、生命の危機が掛かるほどのドラック依存や、自分だけではなく、家族にも経済的負担が災害級に掛かることがない限り、私は依存症の原因になるアクティビティや物事を否定はしません。むしろ、「よい方向」に使えるための学習をすることのほうを、勧めます。

本人だけではなく、家族もたいへんなことを乗り越えなければならないことが多いのですが、一言だけ言えることは、「一度愛した人をギリギリの限界までの努力をせずに棄てないで」ということ。これだけは、いつもお願いすることにしています。私も頭が上がらないことが増えていくのですが(笑)、やはり乗り越えてよかったことはたくさんあります。

依存してしまいたいという誘惑は、日本に戻ってから、まだ実感していません。最初のうちは、歓んで日本酒や焼酎を飲んでいたのですが(アメリカで買う半額以下くらいだったから)、もう飽きた(笑)。それよりもワインが飲みたい(笑)。やはりアメリカに居たときにはお魚が食べたかったように、日本に戻ってきてからはお肉が食べたいように、アルコールも同じ論理が働いているようです。なんとわかりやすい私なんでしょうね・・・・(汗)。

悪役はどうしても必要なのか?

01/25/2008 にアップした文章です。

人についての思い込み〈1〉悪役の人は悪人?..¥
私は、ヤクザやマフィアの存在が邪魔だとか、壊滅したほうがいい、などと思ったことはありません。が、必要悪という言い方も嫌いです。大相撲の初場所が始まって以来、どうも朝青龍が負けると歓ぶような風潮があり、調子が悪くて優勝できないことを望んでいる日本人はかなり多いらしい。ふーん、そうなのか・・・。でも、チケットは完売だし、グッズも相当売れているんだよねぇ・・・。どうして悪役が必要なのかなぁ。悪役に魅了されて、こだわってしまうんだろうか?と、どうも不思議でならないのであります。

悪役:(1)芝居で悪人を演ずる役。また、その役者。敵役(かたきやく)。(2)転じて、人から憎まれる悪い役回り。
憎む:(1)嫌だと思う。不快に思う。また、よくないこと、あってはならないこととして、許しがたく思う。(2)ねたむ。そねむ。うらやましく思う。(3)非難する。反対する。

今日見た記事で、黒人俳優で2番目にアカデミー賞を獲ったDenzel Washingtonが、”Don’t Be a Hater!”と子どもたちに向けて言っていたという記事がありました。1960年代に黒人自由解放運動をしたMartin Luther King Jr.の記念日(1月15日)に絡めて、テレビ出演したときの逸話です。彼は自身がMalcom X
も演じているし、意識の高い俳優だなぁと、いつも惚れ惚れ見ています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%A2>マーティン・ルーサー・キング・ジュニア日本語版
http://en.wikipedia.org/wiki/Martin_Luther_King,_Jr.>英語版。おそろしく長いです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%A0X>マルコムX日本語版
http://en.wikipedia.org/wiki/Malcolm_X>マルコムX英語版>やっぱり長い(爆)。

http://www.people.com/people/article/0,,20172900,00.html >これがDenzel Washingtonの記事。

憎悪によって自分が壊されるな、と言っています。その元というのは、「自分と同じではないから憎む」という簡単な図式で、心理学でも学ぶのですが、ヒトというのは、社会性を持ったのちでも本能がちに生きているところがあり、防衛のために似たものを安心・安全として選ぶ。近所にいてしょっちゅう逢える、自分とは考えが違ったり、共通点が少ない人よりも、多少遠くに住んでいようが、たまにしか逢えなかろうが、やはり共通点が多い同種のほうが安心できるわけです。せっかく脳が発達しても、やはり保身やサバイバルに振り回されていることを知らぬまま、同種とのおつきあいでは、「感情」「本能」に振り回されて、共存ではなく、戦いや回避を選ぶわけです。

なんとももったいない・・・←貧乏症な私は、これがどうも引っ掛るキーになっているようだ(笑)。

朝青龍が強いことは、最初は好きだったらしい。寛大なところを示して、あるいは相撲協会が人材不足で外国人を次々と入れたのだからしょうがないと観念して、横綱までになった彼を尊ぶのですが、どうも腰が落ち着かない。憎まれ口を叩いたら、すぐさま記事にしたりニュースで取り上げることにして、憎むための温床を流布しておくわけです。そのあと、彼が失敗をしたら、みんなで叩く。ちなみに私は朝青龍叩きに参加したつもりはなかったのですが、援護をすることで叩きに参加してしまった結果になり、たいへんに恐縮・反省しました。

人を簡単に気軽に叩ける人というのは、自分にはたいへんに甘い、という傾向は否めないと思われます。無責任な部分でのゴシップ調で、TVによく出るコメンテーターも、本当に大したことを言っていない・・・(汗)。いや、コメンテーターだからこそ、大したことが言えないのかもしれない・・・とすら、最近は思うようになってきています。私個人は、教えるという職業病も入り、失敗に対してたいへんに寛大で、間違いや失敗がいくつも積み上げられなければ、物事をマスターすることなどできないとすら考えており、「大きな挫折」がない人間のほうを、むしろ信用しません。が、私は自分に甘いことはしないように、極力努めており、現在も1月2日から、完全休日がない状態で、このまま2月に入るのではないかと思われます。母に不平や不満を言ってしまっても反省しまくっており、ビールを買いに走ったり(とはいえ、わずか1分半なんですが・・・爆)、ネコたちとの時間が取れるように、しっかり調整を怠っていません。

公的な人間には失敗は許されない、というある程度のハードルの高さは認めますが、その設定は誰がどのようにして築くものなのか、どうも無責任感が大きく混じっているような気がしてならず・・・。

もちろん、放置しておいてはいけないような、重大な失敗や間違いはあるんですが、改善の方向に向ったら、とりあえずは自分の領域ではない範囲であれば、見守るしかないわけで・・・。

たとえば、私は動物を屠って食べ物にする商売は、どうしてもできません。人殺しもできません。物事を強引に運ぶこともできません。が、そういういやな仕事を、社会的に歴史的に、社会での階級が低い人間に押し付けてきた国や文化は山ほどあります。そして、その人たちが冷遇に耐えかねて、評価をしっかり受けないことにグレて、社会の中で悪と呼ばれることに手を染めたときなど、その人たちや仕事そのものを抹殺するように憎む。でもねぇ、彼らがいなければ、社会は廻っていかない部分もあるのです。たとえば屠殺は、今でもずっと行われており、世界のどこかで、動物だけではなく、ヒトも死刑と称して殺されている。

私は伊丹十三監督が、ヤクザを廃止しよう!と作った映画の動機がいまひとつわかりませんでした。戦後の復興の中、ヤクザがいなければ、闇屋もあれほど活気が出ず、乱暴や強盗やその他に喘ぐ市民を守ってくれる侠気たっぷりの行動もなかったかもしれません。

必要悪という言い方は嫌いなので、自分の価値観だけに合わせた善悪が正しいともちゃんちゃら思っていないので、やはり私は多様性がある社会に住みたいと思うのです。そこで、好き嫌いを簡単に言わない大人が増えていけば、子どもも憎しみや偏見を学ぶこともないでしょうし、どんな大人になりたいのかをしっかり見ていけるのではないか?と思うわけです。自分なりの世界観が出来上がってしまえば、誰がどんな善悪をしようが、防衛はできるはずで、防衛のために他人を憎んだり、嫌ったりする必要すらないでしょう。遠く離れる術は身につきますから、彼らが彼らの領域で何をしようと、まったく気にならなくなります。

そりゃ、朝青龍はファンに支えられているわけで、そのせいで、ヤイノヤイノ言われるのは仕方ないことなのかもしれません。が、私は言わないです(笑)。ファンでもないですし、相撲Hater(憎む人)でもないですし、自分の領域にそれらがあるとは思っておらず、私があの世界を左右していいとも思っていません。

悪役が必要だというメンタリティは、いじめを誘います。大人でも、会社の中で、仕事ができないという理由だったり、態度が悪いという理由で、いじめは起きているらしい。だから、産業カウンセラーも仕事があるわけですね・・・。鬱病は増えていき、昨日・一昨日書いた「経済的自立」から職業人の年齢域にいる人々は離れていくわけです。なんだか悪循環です。

私は悪役はわざわざ作る必要ないと思うんだけどなぁ・・・。

雪が降った!

01/24/2008 にアップした文章です。

私にとっては、去年、わずか半日の雪の最中に濡れてしまった経験を抜かして、1年ぶりほどの雪です。日本の雪はこれで20年間のあいだに2回目。私が小さい頃は、もっと雪が降ったんですが、暖冬だったんでしょうねぇ、去年は。今年も雪が降るのは遅かったような気がする・・・。そこで過去の積雪量や降雪量を調べてみたのだけれども、なかなか行き当たらない(笑)。東京のものなど、あまり真剣に取り合っていないのがわかる・・・(笑)。あーん、時間がかかるよぉ・・・。

うん、やっぱり私が渡米して以降は、1回しかランクインしておらず、それ以外は私が子どもの頃か、生まれる前が1回。

うーん、わからないのが積雪と降雪の基準の違いである。どうも騙されているような気がしてくる(笑)。気象庁の統計は、統計学を勉強するのにいい場所なので、時間のゆとりがあるときにもうちょっと見てみようと思います。

そしていろいろ調べていたところ、衝撃的ニュースが・・・。私が大好きなHeath Ledgerが死んでいたのが見つかったというもの。ドラッグ関連が死因ではないかということで、先日のBrad Renfro http://en.wikipedia.org/wiki/Brad_Renfro 英語 
http://callio.10.dtiblog.com/blog-entry-113.html 日本語
に続き、どうもRiver Phoenix
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9 日本語
http://en.wikipedia.org/wiki/River_Phoenix 英語
風の死に方をする俳優は後を絶たない。しかも、Heathは結婚せずに生まれた子どもの母であるMichelle Williamsとも去年の冬に突然別れており、これが予兆だったのか?

わずか28歳・・・。
http://www.people.com/people/heath_ledger/biography  http://en.wikipedia.org/wiki/Heath_ledger 

なんだかめずらしい雪の日にこんなニュースだから、とても暗い気分になってしまいました。朝からまた受験生の英語を見る仕事なのですが、今日は夜の9時半まで仕事です。こんなに寒いとまた生徒さんからキャンセルがあるのではないかと、悪いほうに物事を考えてしまいがちです。うーん、いかんなぁ・・・。

小さい頃の初めての雪の記憶はないのですが、おそらく私がまだロクに言葉を話せなかった頃だというのは、母の証言で確保。小さい頃は、注意されてもされても、手袋を失くしても、雪遊びをしていたそうなので、寒さには強かったのでしょう。父の田舎が、長野県飯田市で、南信のせいで雪がそれほど降らず(東京と大差がないほどの降雪頻度と量)、それでも寒さだけは東京より厳しかったので、氷が張った田んぼ跡でスケートをして遊んでいたのです。

ところが、16歳過ぎて、アルバイトができるようになってからは、雪がそれほど好きではなくなり、バイクや車の通勤を妨げるにっくきヤツに変わったようです。16歳にしてすでに大人のメンタリティは情けないなぁ(笑)。でも、私にとっては日銭のほうが大切だったんでしょうね。情緒よりも。

こんなことでは、雪国に住めないではないか!とは思いつつ、アメリカに渡って、西さんと出遭って、運動好きの彼が提案したのがスキーでした。私のスキー体験は中学校1年のときにわずか1回だけで、小学校のときには友だちの家族に連れて行ってもらい、そり遊びをしただけ、というもの。その中学校1年のときのスキーは散々で、わずか1回、1泊で何ができる!というくらいなもので、転んでばかりいましたね。なので、引け腰だったのですが、行ってみたら楽しい!雪の質が違うことが幸いしたのかもしれません。本当にパウダースノーなので、滑りやすかったのかもしれない。水分で残っているものが少なく、氷状ではなく、本当に雪なので、ガリガリと止まる必要もなかったし、適度な人数が滑っていて混んでいる感もなく、誰かにぶち当たるようなことは、ほぼなかったこともあります。

が、何より私を力づけたのが子どもたちである・・・。アメリカのネバダ州タホ湖(Lake Tahoe, Nevada)には、ギネスに載るくらいにスキー場が密集しています。が、まったく混み込み感がなく、最も大きなところは、冬季オリンピックが開催されたことのあるSquaw Valleyというところで、リフトが7・80個あります。もしかすると増えたか?父ちゃん母ちゃんビジネスでも充分成り立つほどの小さなスキー場でも、3個や5個くらいのリフトはあり、初心者であれば充分楽しめます。おそらく、15個だか20個だかのスキー場があるのだろうと思う・・・。http://www.skilaketahoe.com/ ここには有名どころしか網羅されていないのか?でも、このへんなら全部行ったことがあります。

あ、そして子どもたちの話。アメリカ人でも、やはりスノースポーツをしているのは、白人が多いので、黒人やアジア人は少ないのです。伝統的なのか、経済事情なのか、DNA関連なのか・・・。が、スキースクールというのが、ふもとで募集されており、開催もされており、なんと、子どもたちはまだ歩けるようになったばかりのような年齢。それでもものすごく上手なんですよ。スキーストック(英語ではただPolesと呼ぶ)を使わず、ただただ、カルガモや渡り鳥のように、先生のあとを繋がって付き従って滑るのですが、みんなとても上手なんですよぉぉぉぉ。たまさかに転んでも、体重が軽いために、ズルズルと滑り落ちることもなければ、衝撃も少なく、恐怖などは生まれないらしく、コロコロ・ケラケラ・キャッキャッと笑っているわけです。そして何度も何度も飽きずにトライをするので、ますます上手になっていく・・・。もちろん、小学生クラスのスキースクールもあり、そうなると、私などは初心者だったので軽く抜かされてしまうわけです(笑)。一度、西さんが真剣に「やっぱりスキースクールに入ろうか?」と顔を覗きこんだことがあり、「げ、そんなに基礎がなくてひどいのか・・・」と思ったことがあります。

アメリカのスキー場は、初心者・中級者・上級者・特級者クラスに分かれているところが多く、やっと上級者レベルに行けるようになったのですが、そこは冒険心で、上級者の難易度の高いところや特級者滑りもしたいなと思ったところ、上から見てみると、やっぱり「三浦雄一郎一家くらいしか滑れないだろうよ・・・」というくらいの断崖に見えるわけです。実際は45度以上はあるんでしょうが、90度にしか見えない(爆)。それでも、隣には必ずと言っていいほど、4歳から10歳くらいの子どもを連れたファミリーがいて、チビちゃんが楽しそうに滑り始めるので、私も行かざるを得なくなった、というのが「子どもたちに救われた」というくだりです。彼らの真似をすると、不思議と上手になるんですよねぇ・・・(汗)。

というわけで、本当はいい想い出がたくさんある雪なのですが、今日は近所のほかに新宿にも仕事があり、「あんまり降らないでほしいな・・・」と、冷静で大人で事情ばかりの私が囁いています。うーん、うちの姪っ子たちは雪が降ってうれしいんだろうなぁ・・・。