世紀末の惨事

1999年のいつか書いたやつです。

 

だめですなぁ、テンションがとっても低いです。考えが一点に集中してはまた拡散して堂々巡りをしています。阪神大震災あたりから、ノストラダムスの予言に立ち戻ったりする風潮があって、私も多少は影響されているのかなぁと思ってきました。どうやら見事に影響されているらしい…(汗)。うーん、真剣に考えてみよう、と思っていても惨事に巻き込まれた人たちのことを思うと冷静になりきれずにだるだるしている。気を紛らわせようとして、リハビリをして、ごはんを大量に作り置き系のモノをたくさん作ってみました。20分ほどしか気は晴れませんでした。

昨日のFabをアップしてから、今度の土曜日に行く!と張り切っていたチベット気功師までが「家族の緊急」でチベットに帰国していることまで知り、けっこうな打撃になってしまいました。私が神秘の気功を受けられないからという動機ではどうもなくて、運命の非条理みたいなもんにつっかかってしまったような気持ちです。

そのMonk(お坊さん)は人を助けるために全世界を行脚して、気功というツールを使って人々のしあわせを望み、自分なりにしてきたことを披露して「癒す」という作業に邁進していたのですが、彼にもやはり救えないものは当然あり、どうしても誰も解決できない運命という大きなモノに無力感を感じてしまった、というところでしょうか?

私は普段は「ん、運命ってたぶんあるんじゃない?でも自分で切り拓けばどうにだって変わるわよぉ」な人間であるのです。これをLocus Of Control(コントロールの位置・中心)と呼びますが、【個人がどの程度自分の行動を環境要因に原因があるとするか、あるいは自己の決定に原因があるとするか、という度合い】です。私はこの「自己の決定に原因がある」というのに委ねる割合がとっても多く、説明しきれない結果を見たときにも、まだまだしつこく「自己の決定」検証をして切磋琢磨します。

ケネディJr.の事故のときも落ち込みましたね。何たって「アメリカのロイヤルファミリー」とまで呼ばれた伝説的な偉業を遂げたとされる家族の一員です。捜索活動の映像もドラマチックなさざなみを心にもたらしました。けれども、やっぱりよ~く考えると、Jr.が取った行動というのは「危険を伴う自己決定」であったことがよくわかります。報道がどの程度まで正確だったのか、はまた別の話ですが、私はパイロットであったので(うーん、過去形ではなく一度ライセンス取るとずっとパイロットなんだけど♪)飛行機の型や天候や地形や飛行時間情報プラス彼のパイロットとしてのそれまでの学習成果を見れば、「こりゃ危ないってば」と思います。彼がどんなに英知に長けた人だったのかも実際にはわかりませんが、自然をなめちゃいけないわね、という材料は確かにひとつやふたつでなくあったと思われます。

判断力というモノで防げるか防げないか、という惨事について「ああああああ」というのはあとから原因やプロセスがなぞることができれば、なんとか心のなかでケリがつくのです。もちろん哀しいことに変わりはありません。けれども納得できるかできないかはとても重要なことです。哀しいだけを心に溜め込むだけでなく、何がどうしてこうなったのか、ということを知ること、それを今後に生かすこと、それらを毎日の生活に生かすこと、自分を防衛すること、愛する人を防衛すること、これらはとても大切です。これは天災や事故でなくとも、自分スケールの心の波や問題についても同じことです。ですから、一昨日書いた自律神経失調症のように原因かもしれない問題点が多数あってそこからどれが自分にとっての本当の原因なのか、ピンポイントできる力があれば、ものすごくラクであるし癒すことも可能である、ということです。

でもゴシップ系の野次馬根性と、この好奇心は質が違います。なぜならば知ったあとに必ず意識的に自己に還元するという作業があって、当事者意識があるからです。「ん?私にはこんなことは起こらないわ」「家の家族に限って」「この場所は比較的安全だから大丈夫」というのは、やっぱり親身さが足りないと思います。人間はいつでも「試されている」んだというのは、私は毎日感じています。たとえテレビの向こう側であっても。そしてそういう自分が好きですね。ゴシップでミッチー・サッチーに群がるのではなくて、アレについてもいろいろ考えました。自分がこうしてはいけない、ということ、こうしたらいいじゃないか、ということ、たくさん考えました。署名運動に真剣に参加している人たちのことを馬鹿呼ばわりするなんて私にはできないです。それが当事者になれない私の当事者意識です。

私の住んでいるところはHayward Fault(ヘイワード断層)というところに見事に乗っかっています。地層がずれている状態のことですが、アメリカの規模はでかくて何マイルも続いています。けれどもLocus Of Controlで、「断層が地震を呼び、人間は天災に負けて死ぬ」という環境要因にすがっていない私は、地震のための準備はしています。家を買うときにも耐震設備をしつこく聞くことも忘れませんでした。デザインや値段や立地だけ見てたわけじゃぁありません。ネコたち家族のことや、西さんと逢えるのかどうかも考えて決めました。起こるか起こらないかを何も準備しないで待つよりも、来るという前提で準備しておけば、安心で振り回されません。

けれども、地震や今回の東海村事故のように、エキスパートにだけ細かい情報があるような種類の事故への準備はできません。だからどうしても事故が起こったあとに「無力感」を味わってしまいます。閉鎖された壁の向こう側に何があるのか、今まで何人ものルポルタージュがあっても多数決やら権威に踏みにじられていました。当事者になれない、ならせてもらえなかったわけです。児童虐待もそうです。閉鎖された家庭に他人が踏み込める権利もないのですね。死んでしまった子どもの写真を見てあとから泣くだけです。Locus Of Controlの自己決定部分がない、と思い知らされる時です。自分に関係ないとは思えない私は、そうして無力感に浸り、運命という言葉に翻弄されます。

どんな事故であろうと、必ず「人為的」な部分は大きいのです。天災に関してもそこに住宅地を作るのであれば調査が必要である、という当たり前の前提があって然りです。エキスパートの調査を要求する権利もあります。あとから何かでかいプラント(工場)建設が持ち上がっても「住民反対」はできます。けれども基本的な自衛の知識がなければそれもかないません。そうしてエキスパートの知恵を持った人が心なく「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と言って「操作にも細心の注意を払っています」と明言しても、こういう事故は起こります。犠牲になる人が私の愛する人でないからいいということではありません。ああ、核についてのデモにも参加しておけばよかった、などとBeat(打たれる)されます。ああ、身体が何個もあればよかった、と夢みたいなことを考えてしまいます。

飛行機事故も虐待も恋愛も離婚も勉強がうまくいかないことも仕事の悩みも健康も、確かにたくさんの要因が重なり合っているし、たくさんの人間が関与していることですが、運命だけではないことです。運命の存在は否定できません。あるかないかを証明できた人も居ません。そこにあることはおそらく確かなことでしょう。けれどもそうでなく、人為的なことでコントロールできる部分までも「運命」というのを止めて、自分に対してはコントロールできる自信を増やしていけたらいいなと思います。本当に都合のいい言い訳に使う場合は止められたらいいなと思います。私が関与できないことにこうも無力感を憶える私はおろかかもしれません。けれども生命が失われることは何につけてもつらいことです。

そういう意味で人間は死ぬまで学習しなくてはなりません。便利にテクノロジーに依存した分、よけいにそのツケは払わねばいけないのだと思います。そして無力感どっぷりでパワーの源に頼れない私は、父の位牌に手を合わせてお線香をあげてまとまらない考えを静めようとしています。

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悲しいときには即効性求む

大きく悲しいことがなくなっているワタクシですが、細かく小さく悲しいことは毎日のようにあります。とはいえ、即効性が必要なほどに落ち込むわけでもなく、ケロケロしてしまうので、悲しいなんて感情、いつ感じているわけ!?と言われてしまうのがオチです。

この世のあらゆるもののほとんどは、Dichotomy/Polarity 2つの極にあるもので2つのラインになっており、真ん中が平均で、その細分化をしている人とそうではない人、そういう見方をしている人とそういう見方をしていない人に分かれるわけです。

悲しいというのも、ネガティブな感情のひとつではありますが、その強弱を考えてみないことには、どの程度?というのはわからず、自分の悲しみのキャパ全体を考えることがなくては、その瞬間に感じている悲しみも、実体はよくわからないままなのでした。

とはいえ、この心地悪い感情にずっと渦巻かれているのは忍びない・・・。

即効性求む!ですよね。

最も簡単なのは、逃げることか、向き合うこと。これもDichotomy/Polarityです。私は向き合うことを常にオススメしています。体力がない、タイミングが悪い、などの場合を除いてですけど。逃げてしまうと、再びや三度、似たようなことに陥る可能性が高くなるので、そっちはどうしてもオススメしたくはないのです。

向き合うには、おそらく痛すぎるとは思いますが、他者に話してしまうことですね。どんなに痛烈に批判・批評されても、それを飲む。一旦頭と心に浸透させた上で、二度とこんな想いはしたくない!と心に刻み、その作戦を立てるためにも身体に覚えておいてもらうわけです。

湖底まで、どん底まで落ちてしまい、その後、蹴りあげて登ってくるほうが、中途半端にグルグルしているよりは、ずっと未来が拓ける可能性が高いので、こちらをオススメしています。

もしも話す相手が見つからないのであれば、書き出してしまい、自分が少し冷静になれたら読み返すことですね。色や線や形をたくさん使って、分類したりいろいろ書き出してしまえば、きっと何かが見えてきます。

話す&書くの前に、さんざん泣いてしまうこともお忘れなく。できたら、抱きしめられるぬいぐるみや枕があると尚よし、です。もしそれがヒトだった場合には、まだ何も言わないようにお願いしておきましょう。気が済むレベルまで泣き終えてから、話を聴いてもらうことにしてください。でないと、新たな悲しみを背負うことになります。

走ったり、やけ食い・自棄飲みをしたり、なかったこととして買い物を爆発的にしたり、などは、いわゆる逃避なのでやめたほうがいいです。裡側にこもったあと、出しまくってしまい、もう出すものがない、くらい、吸える空気がないくらいにしてみると、悲しみは吹っ飛びます。

そこから、ピンクや黄色、オレンジなどの明るい色が見えてくること請け合いですので、ぜひともどん底まで♪で、即効性をお試しくださいませ。

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映画あれこれ

Dec 17, 2005に書いた文章です。

映画を見るのが好きになったのは、どうしても英語を速く上達させたかったから、というのが理由なのですが、実際には、お手軽で安いエンターテイメントで、無趣味な私には受け入れやすかったせいもあります。日本にいたときに見た映画は数えることができるほどで、叔母に幼い頃見せてもらった数本と東映まんが祭りが1回、デートで見たのが、邦画が;「燃える秋」洋画が;Gone with the Wind, Rocky III, The Heaven Can Wait、「黒い瞳の」の合計、10本にも満たないほどでした。TVでやっていたものは見ましたが、当時の私はIndiana Jonesシリーズも、Back to the Futureも見たことがなく、流行と言われるすべてのものから取り残されていました。

最初に通った英語学校では、働いていたおかげの福利厚生で、毎週$1で映画が見に行けたのです。私が最初に見た映画は、Married to the MobというMichelle Pfeiffer主演のコメディでした。それから1988年は、Big, Coming to Americaなどいい映画をたくさん見ました。そのせいでスラングやおもしろい言い回しも覚えることができ、私はどんどん映画を見ることになります。

パートナーと暮らし始めたときには、ほぼ毎週映画館に行っていました。彼が台湾に行ってからは、それほどひとりで行かなくなりましたが、最新作でどうしても見たい、待てないものがあれば行きます。最近は、Harry Potter~ The Goblet of Fireを見たのですが、大満足でした。少しストーリーが端折られているのはしょうがないです。

今真剣に考えてみると、私が見た映画はすでに5000本かそれ以上くらいにはなっていると思います。何しろ、ケーブルが発達したおかげで、今、月々わずか5500円ほどで映画のみを1日24時間CMなしでやっているチャンネルが、50以上あり、他にも民放やケーブル局などの映画を含めると、暇であれば1日5・6本は見れてしまいます。そのせいで、劇場にわざわざ映画を見に行くまでもなく、劇場公開が終わり半年以内ほどで、最新作がバンバン出てくることになり、お金と時間をかけずとも簡単に楽しめてしまうわけです。
私は、ドラマを見ることができません。どうしても先が知りたくなり、また来週同じ時間にチャンネルを合わせなければいけない、という縛りが嫌いなのです。見逃してしまうととても損した気分になります。Sitcom(Situation Comedy)は人気作であれば、必ずRerun(再放送)があり、特に連続して2本が毎日やっているので、それでまとめて見ることもありますが、「ああああ、キリがないなぁ」といつも思います。日本語放送もあるのですが、私はそれが理由で見ていません。渡米したばかりのときはなつかしくて見ていましたが、ここ10数年ほどはお正月しか見なくなりました。

が、映画はちゃんとストーリーが終わるじゃーないですか。1時間半から最長でも3時間ほどで終わる。これはとてもいいのです。気がかりでなくて、とてもすっきりする。ある人々の人生や考え方などが画面を通してしっかり伝わってきます。そこでUSの文化や成り立ちや歴史もとても勉強しました。耳がよくなったのも、当時、とても貧乏な学生でお金がなく、字幕を出す機械が買えなかったせいもあります。当時は、TVにキャプションが内蔵されておらず、ビデオデッキのようにTVにくっつけて使うものが売っていたのです・・・。いつから字幕が出るようになったんだか覚えていませんが、留学生が我が家に住むようになってから、キャプションを使っていたので、おそらくここ10年くらいのことではないかと思います。

何本も見ていると、どんどん分かることがあります。心理学的には、人は自分と同人種の人々の顔を見分けるのが得意なのですが、異人種の顔をしっかり見分けることができない、とされています。が、私はかなり得意なのです。日本で暮らしていた頃から、人の名前と顔を合致させるのは得意だったのですが、異人種でも大丈夫だったとは・・・。大学の頃、単位取得の条件として、実験に参加することが義務付けられていたのですが、私はその実験で平均値を大きく上回り、教授をがっかりさせたことがあります。彼が取りたかったデータは、逆だったからですね。住んで何年という資料もあったのですが、生まれ育った人たちでも不得意な人たちが多いのでした。

さらに、私は発音を聴き分けることができるようになりました。最初のうちは、BritishやAustralianアクセントだったのですが、北米全体の発音傾向やら、何が母国語なのかまで英語で話せばわかるようになりました。けっこうひどく方言が出る場合には、USの何州出身・育ちかまで当てることができます。

そうして映画に埋もれた生活を続けていき、私はどんどん日本語を失うことになるのです。ここからAOL Japanに繋げるようになったときの、私の書き日本語はひどいものでした。書くことは、両親に手紙を書く以外はすべて英語だったので、語順がすべて英語化してしまい、とんちんかんで長い文章になってしまうわけです。翻訳したような日本語(笑)。やっと8割ほど復活しましたが、英語を使っている限り、スペイン語を習っている限り、私の書き日本語は渡米前には戻らないのでしょう。

(が、私の取柄は、日本語で話すときは英語をちゃんぽんしないことです。相手が英語を話す人ならば、たまーに日本語が出てこないときに英語の単語を出してしまいますが、ここでも怠慢はせず、ちゃんと日本語を通すようにしています。が、Downsideとしては、自分の頭の中で英語で考えているときは、思わず母などに英語で話しかけてしまうことです・・・>通じないとわかるまでに数秒かかります)

最近、数度、AOLの映画の掲示板に書き込みをしたのですが、わかってくれる人がいるとかなりうれしいもんですね。日本に渡っているかどうかもわからず、芸能人の生い立ちやら作品群などまで理解してくれる人がいると、けっこう多弁になってしまいます。そういう意味では、わが社の社員Sちゃんは私が映画の話をできる数少ない人の中の一人です。オタッキーなわけではないのですが、自然と情報量が多いので、芸能人ゴシップやらいろいろわかってしまい、ネットがあるせいで調べることもでき、どんどん詳細まで理解してしまうことになり、同じ映画を見ていても違うモノたちを見ているんだろうな、と思うことは多々あります。

パートナーは、けっこう映画を選ばない人で、ホラーを見るときには毛布を顔まであげて見ます。すぐに目を隠せるように、ってことらしい(笑)。ビジネスパートナーは、コメディが好きです。わかりやすいほうが楽しい、エンターテイニングだよ、ってことらしいです。社員のSちゃんはクラシックはあまり詳しくないですが、ハリウッド映画はかなり見ているほうだと思います。

私は、と言えば、最近は邦画やアジア作品をケーブルでやる以外のものはまったく見ておらず、特に韓国や中国モノについていけていません。北京語を習って台湾で映画三昧するというのもいいのかもしれないです。生涯で何本くらい見れるかわからないし、映画名鑑などで印をつけようにも、完全版がどこにあるのか調べるのも面倒だな、という気はしています。もしも、商売がうまく行かず、日本に帰ってあくせく働かなければならないことがあったら、深夜にビルの清掃おばさんをやりながら、家庭教師と翻訳と通訳でバイトをし、さらに映画評論でカムバックしたいと思っています(笑)。

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動物といっしょに

私は子どもの頃から動物といっしょに暮らしてきているのですが、母は実際のところは嫌いなようです。自分本位でネコに話しかけてはいますが、特に愛している様子もなく、むしろスクールや家にある観葉植物を深く気にかけている様子もそこここに見られます。あの、「ほら、こんなに伸びた!」という様子がどうも怪しい(笑)。

まぁ、小さい頃からいろんなものを拾いましたよ。虫は日常茶飯事で、ネコ・犬・ニワトリやチャボやスズメ・ヘビ・イモリ・ヤモリ・トカゲ・ザリガニ・おたまじゃくし→カエルなどなど、おかげさまで苦手な動物というのは、あまり思いつきません。が、蛾だけがあの模様が私をグルグルさせます。特に嫌いではありませんが、幾何学模様は得意ではないようです。

そして、USに行ってからもちょいと我慢の数年があったあと、ネコが迷い込んできたため、いっしょに住んでもらうことになったのですが、以来、犬をお家に迎えるタイミングを逸し続け、次はいつになったら来てもらえるのか?と、未来があるのであれば、ぜひとも、と思っているところです。が、駅前暮らしは心地よく、なかなか難しいかな・・・。

写真のように、種の違う、野生では弱肉強食のためにいがみ合うはずの動物たちも、子どもの頃からだったり、餌がしっかり確保できる状態だったり、餌以上のものが提供されたりすると、共存可能なんですよねぇ。

多くの人たちが言いますが、動物といっしょに生きるメリットは大きなものです。

http://curazy.com/archives/36093 子どもと動物といっしょに育てるメリット15

ひとつには、やはりJudgeしない、ということがあるんじゃないでしょうか?親であっても子であってもパートナーであっても親友であっても、人はいつしかJudgeし始めて、それにまみれてしまうことも儘ありますが、動物は決してJudgeしないのですよね。

餌や居心地に関して文句を言うだけで、決して飼い主やら同居人をJudgeすることはありません。

USに戻れて、ひとしきり学業に邁進できる目算がついたら、やはり今度は犬とネコをいっしょに同居人として選べたら、と考えています。そして学業に目鼻がついたあと、山籠りをし、そこでは羊とかヤギとか馬とかと同居できたら、それはとてもとても楽しいんじゃないか?などと思っています。

吉宗がお気に入りだった鷹なんてぇのもいいんですけど、鳥は飼うよりは大空を翔んでいてほしいものですよねぇ。鳥が遊びに来てくれる環境に住みたいと思えます。クマやライオンやトラは、今のところはまったく考えておらず、いつかKenyaかTanzaniaかどこかで観察日記を綴りながら死ぬのもアリだなぁと思う程度です。

いつになったら植物に眼が行くようになるのか、これからまだ楽しみです♪

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権力と権威の違い

権力:他人をおさえつけ支配する力。支配者が被支配者に加える強制力。

権力意志:ニーチェ哲学の根本概念。他を征服し同化し、一層強大になろうとする意欲。ニーチェはこの意欲が単なる生存闘争ではなくて、存在の最奥の本質であり、生の根本衝動であると説く。

権威:1.他人を強制し服従させる威力。人に承認と服従の義務を要求する精神的・道徳的・社会的または法的威力。2.その未知で第一人者と認められている人。大家。

威力:1.他を圧倒して服従させる強い力。2.人の意思を抑圧するに足りる威圧的な行為。

権威主義:もっぱら権威に価値を認める主義。権威に対する自己卑下や盲目的服従、また、権威をもって他を圧迫する態度や行動としてあらわれる。

権威的性格:権威や強者に服従する一方、弱者には自分の力を誇示する性格。

語彙に相変わらずPicky(うるさい、こだわる)なおおだいらです。これら違いの大きさをわかる人がひとりでも多く増えることが、本当の権利と自由への道であるなぁと実感しています。言葉遊びではなくて、心のなかにあるもやもやをシンボルとしての言葉を借りることによって少しでも輪郭をつける作業が私は好きです。それはやっぱりあんまりもやもやしたものが多すぎて解決しないと息ができないような気持ちになってしまうからでしょう。

私は生っ粋の「平等提唱者」ではありません。悪戦苦闘のあげく、「やっとなった」という感じで、今も「つまづきながら何度も確認しつつ、平等提唱者になり直している」という感じです。「江戸時代か明治時代に生まれたほうがよかったんぢゃ?」という父に育てたれ、それに途中まで付き従う母に育てられました。子どもである私と弟の存在や動きそのものが彼らの夫婦として、親としての態度に影響したのはもちろんのことですが、私は黙って親に権威を与える子どもではありませんでした。なぜそうだったのか、今考えると、「おかしいよぉ、それ」となぞなぞ心がでかかったからであると思います。「先に生まれた人=お年寄りを尊敬しなさい」は祖母のガン闘病のときから不思議に思っていました。私は4歳から6歳でした。

なぜわがままが通らないのかをうまく説明できなかった両親は、「とにかく人の気持ちを考えて、やられたくないことはしないこと!」とだけ教え、その迷惑の範囲はどんどん大きくなるたびに増えていきました。理不尽を訴える私に「それはおねぇちゃんが大きくなっていろいろな新しい人に逢って、たくさんいろいろなことをわかってきたから、新しい宿題が増えたのよ。でも迷惑かけないで自分の思い通りになるとうれしくない?」ともう毎週のように言っていましたね、母。知恵がつくたびに両親にまで「それおかしい。理由がへん」だとか、「先に生まれたからって威張りすぎ」とか「それは違う」とあくまで強情にやってきました。本当に母には「生まれてきてよかったの?」と聞いてしまうくらい苦労をかけました。すまん!>母…(汗)。

とにもかくにも、平等にはまだまだ穴があるし、今の社会形態やその変化のスピードではその実現はまだまだ先のことでしょう。けれども未来に希望を賭ける私はどうしてもあきらめる態度を取れません。なので自分の選択で「平等・対等がいちばん♪」とどんなサブジェクトに関しても根底にこれが根差されています。

政治機関が国を治めるために権力を持つことは、今のところ致し方ないのかもしれません。天才でもない私たちがベルリンの壁・ソビエト連邦の崩壊という歴史を目撃して感じるのは、「少ない選択肢・統制・画一化」というものは、時間に伴った社会の淘汰(これは私たちひとりひとりが作るものです☆)に受け入れられなくなった、ということです。社会主義がいいとか悪いとかのお話ではないです。そこに生まれ育ち、それが当然として育まれた人たちを非難するつもりもなければ、ヒエラルキーに心地よさを感じる人がいて然りです。振り向かなければ、気がつかなければ、それもとてもいい仕組みであったと思います。世界の距離感が縮まり影響されあう刺激が増えた昨今では、かごの外に何があるのかと不思議に思うはやる気持ちを止められるものはなかなかないのでしょう。余計ないじりかたをせずに、壊さないように損なわないように、影響しあうことがだんだんむずかしくなってきています。

力というのは常に存在します。エナジーが自然界にあることを、人間が社会性を付加して操るのはどうしても避けられない必然です。ニーチェの生存闘争本能の解釈には人それぞれに考えがあることでしょう。昨日・一昨日としつこく身体の構造について長ったらしく書いたことには意味があります。物事はすべて繋がっているからです。確かに生命体は自然界では強大になり同化することによって、単細胞から多細胞へと進化してきました。そのときにエネルギーという力が必要であったことも必然です。外から得たエネルギーで強大になってきました。今も小さい規模ではありますが、複雑に生命体はあちこちで変化しています。

けれども、その動機を考えるときに、「自分を有利にするため」よりも、「まず個体として生き延びる」が先に来ると私は思うのです。将棋やチェスや他のゲームと同じです。相手をやっつけるよりもまず自分を守るという本能のほうが先ではないのか?と。そしてどうしようもなくなったときや、複雑な要因が絡んだときに、なぜか攻撃的になる場面が増え、自分を有利にするような闘争本能が顕れるんじゃ?と私は信じていたいです。まずショッキングなことがあったときに身体はいきなり「他を威嚇」しません。コンマ数秒に見えるプロセスのなかでも、まずは個体を防衛するためのメカニズムが働きます。それが哺乳類では昨日説明した自律神経というすごい組織になりました。この順番というのはものすごく重要であると私は思っています。でないとあとからボタンの掛け違いがたくさん起こります。

(とか言いつつ、私も充分攻撃的なやつだと言われているので反省しないとねぇ。いくら防衛プロセスでへとへとになっていても、攻撃するにはあとから書いていくバランスのとれた社会性を持たないとねぇ…汗。)

権力というのは一方通行なことがわかるでしょうか?権威というのがその逆の一方通行であることはわかるでしょうか?(こういうベクトル話になるとお絵描きセットが欲しいですな♪)権力は支配者が発し、権威は被支配者が支配者に発するものです。エーリッヒ・フロムという人が 「自由からの逃走」という著書のなかでその権威的性格について検証しています。なかなか深くて複雑なので一言では説明できないのです。身体のメカニズムを理解すれば本能の順番(何が最初に発生しているか。決して重要性の順番ではない)と絡めて考えていくと「うーん、なるほどぉ」とうなづけることが多いです。支配・被支配という大きな図柄を、個のなかにあるものでミニスケールで説明してあるので、興味のある方はぜひぜひ読んでみてほしいです。これを今書くとものすごい長さになるので今日は割愛します。が、やっぱりキーワードは「孤独と不安」で、これに社会性を付加すると、闘争本能よりも先に発生する防衛本能により強く根差すので、支配したい人がいたとしても支配されないようにする方法がある、という希望を導けます♪

支配者でも権力と権威両方を持つことができる人や団体はいます。キューバのカストロなどはギネスにも載るほどの長い統治をあのような思想で行い、すごいすごい権力と権威、両方を持ちあわせたいい例です。長い例で言えば、欧米文化の柱になるキリスト教というのもそのひとつです。教会の権威は浮き沈みが激しく歴史のなかで上がったり落ちたりしましたが、複雑になってきた社会ではその根強い権威というのはまたまた複雑になりよりしつこいものになっているのは否めない事実です。弊害としてそれに相容れない団体が新興宗教としてまたよそに集います。すべてが悪いわけではありません。これも選択です。

こうして書いてきて、私の中途結論としては「平等には権力も権威も介在しないのが理想」、だが「ルールなしの無法地帯は危険すぎるので、せめて法律だけは守ろうね」ということになってしまいます。

容姿・職業・年齢・性差・学問などなどいろいろなモノに権威を与えつづけているからこそ、そのフィードバックを「しめしめ♪」と思い、あぐらをかく人がまだまだ根強くいる、というのが私の見たリアリティです。実例を挙げると間違った教師、というのがこれでしょう。医者もそうです。若くてきれいな女の子もそうです。親という権威をふりかざしているのはもう見飽きました。愛という名の下に「あなたのためよ」とささやきつつ、自己満足を埋める行為は怖いです。「最初から自己満足って認めればぁ?」と思っちゃいます。けれどもそれは親だけが悪いのではないです。私たちが人間としての素・ベース・基本にごちゃごちゃと社会性を歪んだ形でついたものまでも、がんがん素直に受け入れているからなのです。そうでなく親という立場を全うしている人はたくさんいます。まだ口もきけない子どもに毎日丹念に話しかけて赤ちゃんとネゴシエーションしている人を私はたくさん知っています。教師も医者も若くてきれいな女の子でも同じです。その力を使わないですんなりきっぱりすてきに生きている人はたくさんいます。

力を与えること・力を持つことについて、もう少し注意して考えてみませんか?そうすれば世界平和も夢じゃなくなるかもしれません。うーん、うまくまとまらなかったんで、じぇーったいにまた書く…←自分に悔しいのだよな、これ。闘争本能じゃぁありません♪

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側杖を食う

この言葉って、おそらく「側杖を食う」の一様にしか使われていない気がします。

側杖:〔けんかのそばにいて,振りまわす杖で打たれることから〕

自分とは無関係のことで思わぬ災難を受けること。とばっちり。まきぞえ。

巻き添え・とばっちり、という言葉のほうがよく使われているのですが、なぜに杖だったのか?高齢化社会と言われるようになってから、杖を使用している人々が減ったのかどうか?と体感でしかわからないのが、悔しいところです。人口が増えたゆえに、杖を使用している人が増えたのか、健康になって、杖を使う割合は減ったのか・・・。

でね、杖をつくくらいの状態の人が、喧嘩をしたときに杖をぶん回す、ということが本当にあるのか?というのも、けっこう眉唾モノなのです(笑)。いくら怒っているからって、杖で身体を支えて歩いている人が、杖を振り回すと、倒れちゃいますよね。だから、リアリティが薄いため、使われなくなってきてしまったんじゃないか?などと思ったりしていたのです。実は、私はたまに使うんですよ。でも、理解されない率が高くなってきていて、なんだろなーと思う言葉のひとつなのです。

他にも、「雲や霞を食べて生きていけるわけじゃあるまいし」「寝間着」「衣紋掛け」「お勝手口」などの名詞主体で考えると、けっこう使っているのですが、どうやらこれらって、明治時代から昭和初期に書かれた古い小説を読んだあとに取り入れちゃっているみたいです。ちょいと思いつくのが、これ。でも老人語なんてひどいっ!:老人語

こうして日本語もどんどん姿を変えていくのですよね。私個人も、年齢不相応な表現や語彙を使っているのかもしれず、おもしろいなーと思ってばかりではなく、英語を教えるのに役立てたいと決意するのでした。

さらに、とばっちり・巻き添え・側杖を食わぬよう、物事や人々との距離感はばっちり取りましょう♪

ちなみに

杖の正しい持ち方:

杖の正しい持ち方1

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こうして考えると、英語も変わっていくのでしょうけれども、実は英語は日本語ほど変化のスピードが速くはないのです。それはレッスンで展開しております。

身体の持つパワー

ストレスという語彙が定着して久しくなります。今では子どもたちまでが「最近ストレスがたまっちゃって…」と会話しているのを、東京の電車のなかで聞いてちとあ然としてしまいました(汗)。私自身はストレスをストレスと認識していなかった伸び伸び子どもだったし、哀しいことがあってもそれが日常の一部であると当たり前のように対処してきて、ちゃんと遊ぶことや泣きわめいたり喧嘩することでストレスは発散できていたんだろうなぁ、と今思います。

生き物の身体には宇宙ほどの大きな不思議が確実に存在しています。科学者が今まで解明したことを、私たち、身体を持つひとりひとりが知ることは何かの場合に有効です。そういう意味でも、テクノロジーが進み、医学が進歩しているなか、私たちは大人になっても学習が必ず必要です。大人になって雑多な情報にあふれているなかで、確実で明快な情報が探しづらいこともあり、ストレスだけでなく、身体そのものをたいへんに軽んじているような毎日の行為をよく目にします。このまま人間の歩く量が減ったら、何万年もかけてまたおサルさんのように半分は2本足、半分は4本足になる日ももしかしたら来るかもしれません。腰痛が人々の一般的な持病になっているのもそういう傾向やストレスから来ているのかもしれません。私の場合は事故2つでしたが、治り難いのはやっぱりストレスなのかもなぁ、と心当たりがあったりします。

家庭の医学を見ても、たいへんわかりにくかったり、大雑把だったりして、実感の湧くような解説は少ないのかもしれません。そんなだから、医者の言うことをうのみにしてしまう人が増えてしまうのも相乗効果なのかなぁ、とふと思ったりします。ストレスというコンセプトだけでも正確には普及していないなぁと思います。ましてやそれを解決する方法などは、「現実逃避型」のものがあまりに多く、たまりきってしまったあとにはあまり心に有効なものにはならないよなぁ…とため息が出たりもします。

OO神経とつくものがたくさんありますが、まず大きく分けると随意神経・不随意神経(運動神経・自律神経)のふたつに分けられます。前者は自分の意志で動かそうと思って動くもの、後者は環境の刺激によって勝手に自然に動くものです。指を動かそうと思えば簡単に動かせること、歩こうと思って筋力が伴えばきちんと歩ける仕組み、これ、すごいじゃないですか。運動ができること、それが当たり前だと思って毎日暮らしていること、そのくせに使わないでなまらせてしまったりすること、いろいろ考えてみることはありそうです。私は西さんほどフリークじゃないですが、身体を動かすのが大好きです。こう、生きているっていう実感が簡単に得られると言うか、身体の宇宙規模に果敢に挑戦しているって言うか(爆)。とにかく楽しいことです♪ネコのようなストレッチだけでも随意神経を磨くための助けになります。随意神経(運動神経)がきちんと働かなくなると、不随意神経(自律神経)にも影響が少しずつ出てきます。そしていつかそのツケが大きなストレスによってバランスを崩していきます。宇宙は繋がっているのです、そして大きな一個になっています。

『自律神経失調症』という言葉が日本ではやたら氾濫しているようですが、OO病だとか、病がつかなくても病気の名前と、XX症の違いもたぶん私たちはわかってないのかもしれません。そのため「正常・異常」を考えるときにもはっきりと「あんたは異常」と言いきれてしまう場面が多くなるのかもしれません。

病気:1.生物の全身または一部分に生理状態の異常を来し、正常の機能が営めず、また諸種の苦痛を訴える現象。やまい。疾病。疾患。2.比喩的に悪いくせ。
症候:(Symptom)身体にあらわれた病的変化。患者自身の訴える病的変化、すなわち疼痛・痒感・温冷または不快の感を自覚的症状といい、患者自身ならびに医師、または医師だけに認められる病的変化を他覚的症候という。
症候群:一群の多彩な症候で形成されるまとまった病態。原因および発生機序((メカニズム・構造)が同一であれば独立した疾患単位であえるが、原因が多岐に渡るものもある。転じて、病的傾向を意味する接尾辞としても用いる。

多くの病気では、総合的に「心臓病」「腎臓病」などと大きくその範囲(箇所)をくくる以外には、原因や症状がごく酷似しており、生命体が正常にその統合的なサバイバルを営むときに、一部が発生場所になりそこが始まりで損なわれて正常な機能を果たしていない場合が多いです。ここで大切なのは自覚症状がささやかなものばかりでなく、「おかしいぞ?」と感じられるチャンスが多いことです。

病気と少し違った意味で、神経症・低血圧症・肥満症・感染症などの症候群には、ピンポイントできる原因解明のため考える要素がたくさんあり、身体のどの部分に顕れているかひとつ以上あり、顕れ方もさまざまです。免疫性のものや、細胞性やホルモン性のもの、脳内ケミカル性のもの(精神病の多く)などはこれにあたり、一個所をいじり治せばすべてよし、とならないのが現実です。厄介なのは自覚症状がよっぽど意識しないとあまりないことです。他人に注意されてから気づく場合がかなり多いことに注目してみてください。

話を戻して、自律神経失調症というのは、誰でもかなり簡単に起こり得る症状の症候群です。運動神経と自律神経のふたつのうち、自律神経は身体という宇宙が内外の刺激に反応して、自動的に対応・反応してくれるようにできています。自律神経にはさらに同じ刺激に対して正反対に働く交感神経と副交感神経とに分かれます。生命体を持続するために欠くことができない機能を、この神経がつかさどっています。この絶妙で複雑なバランスが崩れること全般を「自律神経失調」と呼ぶので、この状態はわりと簡単に起こります。ただこのバランスが崩れたときに気づきにくいのが難点です。

身体の場所 交感神経 副交感神経
瞳孔 拡大 縮小
汗腺 発汗亢進 ―
消化管・消火腺 分泌抑圧 分泌亢進
気管と消化管平滑筋 弛緩 収縮
心拍 増加 減少
心筋 収縮力増加 収縮力減少
末梢血管 収縮(血圧上昇) 拡張(血圧下降)
膀胱直腸平滑筋 弛緩 収縮
立毛筋 収縮 ―

ここから見て刺激の種類が予測できるでしょうか?恋をして心臓がドキドキするのも交感神経のせいだということが何となく想像つきませんか?森林浴や海辺でのゆったりしたひとときに身体もそれに合わせて鎮まるのもそういう刺激に副交感神経が作用するからです。うちのネコたちは掃除機の音がするだけで、耳が立ち、しっぽの毛が膨らみ、目がまんまるくなって、身体中の筋肉が逃げる準備をして、すたこらさっさと逃げます。交感神経がちゃーんと働いているわけです。人間も喧嘩をすると、産毛が立ったり、緊張のために手に汗をかいたり、血圧が上がったりしますよね。これは刺激に身体が準備している状態です。

けれども、片方だけの刺激を受け続け麻痺してくるとこのバランスが崩れます。交感神経は危険や不安や緊張の刺激を与えられると働きます。このストレスの原因となる刺激、精神的緊張や個体保存の危機、をストレッサーと呼びます。適応反応、ホルモンの分泌を促進し代謝を活発にさせて生命体を中和させること、をストレスと呼ぶのが正確なものです。この状態が長期間続いたり頻度が多くなると、胃潰瘍や高血圧が誘発されたり、その他にも精神病の類とされる病気になったりします。

解決策としてはストレッサーそのものを取り除くことも有効ですが、それでは恋愛小説も読めなくなるし、たくさんの新しい人と逢うこともできない純粋培養な身体になり、副交感神経ばかりが働くような環境になり、これもまたバランスが取れている状態ではありません。ゆったりしすぎた刺激しかないこともまたストレスであるし、強い刺激に合ったときの代謝が鈍感になります。

なので、この不思議な身体の持つパワーを使うには、そこそこの強弱を混ぜた刺激をバランスよく受けて、ときにがんばり、ときにだら~っとすることが大切です♪生命体の身体はそういうふうにできています。あ、みみずとかにはありませんが、哺乳類にはたいていあります、この神経系。それを有効に使ってない人が多いことが私にはとっても残念です。自分の身体のなかにある宇宙級の不思議、大切にたいせつにしてほしいです。

こういう知識は求めれば誰にでも手に入ります。対人関係で悩むことがあると思いますが、この基礎知識があってストレッサーに遭遇したときにも、あとから同じくらいだら~っとしよっ!っていう注意ができます。大病の元は身体のバランスが崩れることにあると私は個人的に信じています。そういう意味では私の母はきっと100歳を軽く超えるまで生きていけると思います。その母から50%の遺伝子をもらっている私の将来もかなり明るいので、PCをしすぎたらきちんとネコを見習ってストレッチ♪本を読みすぎたらちゃんとお風呂に入って身体をゆるめる♪喧嘩をしたらHugをして仲直り♪人間関係のもつれの解決も、根本的に話し合えればものすごい充実感で、副交感神経が働いて「うわぁ!」と身体も緩まります。なかなか効果は高いです。

薬を飲むよりも先に、こういう身近で自分にできることを丹念にこつこつやっていれば、気をつけるものはあとは事故だけです。私の場合は事故も身体が弱っていたから俊敏な反応がしきれなかったのかなぁ、とも思いますが、このリハビリでの回復はめまぐるしいものがあります。術後1ヶ月でもうごはんをひとりで作れるようになりました☆シャワーも完全独立しました。スーパーもウォーカーつきですけどばんばん歩けるようになったし、来週からは本格的エクササイズが始まります。赤ちゃんに戻れたので、これからはボタンの掛け違えをしないように、丹念にこつこつ小さなことをやろうと思っています。

この身体の不思議、毎日感謝して、「身体が資本!」というささやかな言い古されすぎている言葉を毎日まいにち確かめながら生きのびていきたいと思っています♪大事にしてね、あなたの宇宙☆バランスを取っていくことがキーです。宇宙のエナジーはもっともっと広がって、いろいろなところに発揮できるようになります♪

 

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出ていくばかり

 

お金の話が中心ではないのですが、まぁ、それもあります (・・;) とはいえ、金離れがよい、というのを、私個人は美徳:Virtueのひとつとカウントしているので、それはいいのです。

近頃とてもたびたび感じているのは、自分の「欲」が体内とか頭とか心から出て行っちゃってるなーということ。母ががんばってくれており、DVD撮影までにある程度まとまった脂肪をやっつけることも含め、食欲ですら、もうあまりなく、どうしちゃったんだ?と思うことが多く・・・。

Precious One English School の英語基礎コース改 Route Zero ZEROから至高を目指して英語を学ぶ (仮題)では、心理レッスンの中で、「動機」についても深く学びます。

動機:心理学用語。行動生起の内的な直接因の総称。要求,欲求,願望,意図などと同義に用いられることが多い。特に動因と混用されるが,内的な有機的不均衡に起因する場合には生理的動因といい,生理的動機とはいわない

Motivation: Internal and external factors that stimulate desire and energy in people to be continually interested and committed to a job, role or subject, or to make an effort to attain a goal.

Motivation results from the interaction of both conscious and unconscious factors such as the (1) intensity of desire or need, (2) incentive or reward value of the goal, and (3) expectations of the individual and of his or her peers. These factors are the reasons one has for behaving a certain way. An example is a student that spends extra time studying for a test because he or she wants a better grade in the class.

このように、裡側に潜んでいる、求めてやまぬもの、その意図などを含み、日本語で理解されていないことの着目点は、社会や周囲、外側から自己の心を刺激する要因です。自分のものなのか、他者から受け売りしたものなのか、わからなくなってしまうケースが多いということですね。

外界に関しての世界観がかなり整ってきた私は、そこから刺激をさして大きく受けるわけでもなくなってしまい、欲へと繋がっていかぬのです。自分の裡側にあるものを外に出していきたい!という気持ばかりが募り、出て行くばかりな瞬間の積み重ねをしている様相になっております。もうちょい、何か取り入れたい!というのが、俗物的なもので、かなりな幸福感に直結しているといいんですが、買い物は嫌いだし、モノを持つことは避けているし、時間を潰すことは到底贅沢すぎることになっている日々だし、あとは食べ物くらいですが、これも母の渾身の食生活大作戦に乗っており、まぁ、気づくと特にどうでもいいような・・・・・・・・・。

いつかブーメランのように自分に戻ってくるので、もちろん出て行くばかりであっても、必ずまた違う形になって戻ってくるので、結果オーライなんですけどね。しかし、出しきってしまった感を得たら、今度はどんどんもっと入れ込みたくなるんでしょうかね、欲。ちょいと想像がつかないですが。

とはいえ、もうちょい脂が必要なのかも (・・;)

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依存と自立のひとつの解釈

うーん、書いたものを読み返してまた書き直したくなるのはありがちですね。どうしてこうもプロット(構成)がきちんとしてなかったのか、とあとから唸ります。プロはその点、すごく洗練されたシステムがあり、印刷されて後世に残ることに関しての厳しさが私の100万倍くらいあるのでしょう。私も推敲してるんだけどまだまだタイポはあるし、漢字変換間違えていたりでいけません。手書きにするとものすごい時間かかるしなぁ…とこれから自分なりのシステム探していくことにします。

依存:他のものをたよりとして存在すること。
依存関係:ある物の存在ないし性質が他のものによって規定され、条件づけられる関係。帰結と理由とのような論理的な依存関係、結果と原因というような実在的な依存関係などがある。依属。
自立:他の援助や支配を受けず自分の力で身を立てること。ひとりだち。
自立心:自分だけの力で物事を行っていこうとする気持ち。
(ついでだな…。自律:1.自分で自分の行為を規制すること。外部からの制御から脱して、自身の立てた規範に従って行動すること。2.ァ.カントの倫理思想において根本をなす観念。すなわち実践理論が理性以外の外的権威や自然的欲望には拘束されず、自ら普遍的道徳法を立ててこれに従うこと。イ.一般に、何らかの文化領域が他のものの手段でなく、それ自体のうちに独立の目的・意義・価値を持つこと→他律。)

たまたま子育てからの時間的背景まで含めていたので、この依存という言葉の含蓄もごちゃごちゃになってしまったのでは?とまず危惧しました。

ヒトでは他の高等哺乳類(この言葉もあまりいい響きではないですが)の新生児と比べると、自立するまでの時間がかかります。BBSでもネコより~と話題になっていました♪そのために、ヒトの新生児は他の動物よりいっそう強く母親(あるいは母親の代わりになる大人)の保護を必要とし頼ることになります。これには二面があります。物理的に歩けない・食事ができない・衛生処理ができない、などなどの力が足りないことに対して助けることを、依存と呼ぶことがままあります。これはどう考えても文句を言えない状態で、生命体が「種族保存の本能」を持つ限りは引き受けて然りです。

以前どこかに書きましたが、社会性に大きな影響を受け続け、たくさんの要因が混ざり合い長いながい時間をかけて、多くの哺乳類にAlloparental Behavior(親的行動)として遺伝子に組み込まれることになりました。その強弱は個人差があるとして、無力なもの・いたいけなものに対する「かわいい・守りたい」という感情が湧き上がることを指します。この本能さえもかき消してしまうような事件は確かにありますし、本能のなかにも強弱があるのですが、母性(父性)本能と呼ばれるものにもこの本能が付加しています。ですから親になったことのないヒトでも親になれば学習がまったくゼロの状態でも何らかの親的行動ができることになっています。

この依存性は個人差があるとしても、本能に根差したものであるので、依存したいと発信する側(新生児)も受け止める側(成人)にも不健康な要素はありません。どのような「手のかけ方」をするか、というのは大抵の場合、「社会性」に関わる問題であることが多いことに、子育て実践者は気がついているでしょうか?

子育てのどの部分が本能で、どの部分が社会性であるのか、そのへんの区別がつけられないのは、やはり情報過多であることや、大人自身がきちんと成長して来なかった弊害であるかと私は考えています。私の母は無学ですが、彼女の本能とまわりの関わりを見事に認識する力には目を見張るものがあります。もちろん失敗は数々してきました。けれども、私が親を恨み不平不満ばかりを残していない、精神的に依存しあっていないのは、このへんの見極めが彼女なりにできてきたからであると思います。それを受け取った私も、彼女が「失敗しちゃったぁ!」「わからないわぁ」とネガティブなメッセージを送ったときにすべてをよしと受け止めなかったことにあるのではないか?と思っています。彼女がどのように自立し、今でもまだ果敢に自立しつづけようとしているかは、断片的にこれまでも書いてきました。今後も書くことと思います。

この本能的な部分における新生児と大人の依存性をDependecyという言葉とは別にしてAttachment(アタッチメント)と呼びます。本能的なものと社会性学習による依存心とを区別するためです。どんな部分にもグレーエリアがあるので、何が本能で何が社会性かを見極めるのはたいへんなことですが、私個人の意見としては身体的準備ができない時期での離乳やパンツトレーニングには抵抗があります。その見極めはそばにいる大人にしかできないので、言語を学ぶ前の乳児に対してのアンテナを社会性で曇らせないようにと祈るばかりです。

子どもが成長していくにつれて、心理的依存に対してのアンテナを張ることが必要になります。身体的機能が充分発達しているにも拘わらず、無力でたよりない頃と同じ関係を続けていくのは個としての自立の妨げになります。

ここで誤解してはいけないのは、依存と自立は完全なる対極にあるわけではない、ということです。大人であっても何かに依存することはままあり、それが「昇華」できるかどうか、ということがキーになります。

昇華:2.社会的に認められない欲求や無意識的な性的エネルギーが、芸術的活動・宗教的活動など社会的に価値あるものに置換されること。3.物事がさらに高次の状態へ一段と高められること。

段階的な話になってちょっと複雑ですが、人間の発育発展が段階的なのと同様、依存心にも段階があります。そこから消え去ることは有り得ない、という依存の質的変容を考えていけばわかりやすいかもしれません。依存心が減ること=自立への近道、という場合もあるかもしれませんが、それも依存心の質によります。たとえば、どんなに依存心が減っても、ヒトが社会で生きのびていくためには「承認・賞賛」を求めてしまう傾向があります。これは人間の本能にあることなので消し去ることはできません。どんな人間にもあり、それが多い人もいれば少ない人もいます。その承認や賞賛を自分のどの部分に見出してもらいたいのか、という欲求も個人によって違います。その量を減少させることだけが、依存からの解放ではなく、その質の変化に着目することが依存とうまくつきあう方法であると思われます。

昨日のFabに書いたように「特定の人物」に依存するということ、しかもそれが親や娘という長い関係にある人間であることは、一見初歩的であるようですが、どんな人間でもそのような自立への道は通ってきているはずです。意識した人もいるだろうし、気づかないままに過ぎ去ってしまった人もいるだろうし、未だにずっと確執を胸に抱いている人もいるでしょう。

たとえば母親にずっと依存したり、されたりしてきた女性が、結婚して同じ質の依存心をだんなさんに求めていたら、それはやはり自立ではなく、ただの移行です。対象物が違うことによりまた質は多少変化しますが、根本的に変化がなければまだまだお荷物を背負っている状態で居続けることです。結婚して母親から物理的に解放され、逢う機会が減っても根本的な問題が解決されていなければやはりそれも依存している関係であることは否めません。依存していてもされていても、本当にそれは精神的に健康な状態ではなく、その存在がなくなってしまったときに心に来るダメージには計り知れないものがあります。健康な状態での死別や離婚や別居であってもかなりのストレスであるのに、不健康な状態で引き離されることは、その後の人生や物の見方考え方に大きな影響を及ぼします。

以前母親に頼り切っていた女性が、仕事に頼るというのも、一概に「進歩か退化」かは言えません。その質や思い入れやつながり方をよく見てからでないと、判断しきれないことです。質の変容というのを見極めるのも本当につくづくたいへんなことです。けれども自分の依存心を見つめてみることはとても有効です。自己確立のなかの一貫です。

私はただただ「お酒をやめろ、煙草をやめろ」というアドバイスをそのまま受け止めないことにしています。私の依存心への状況を知り得るのは私のセラピストと私と私に対して本気になってくれる人であるからです。私の依存心の質を知り、それを検証し理解し、その上でがみがみ言ってくださる人のお話はちゃーんと聞きます。それが自立しながらも依存症に向き合い、社会のなかで生きていく健全な姿であると、私は今信じています。

 

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自分目線の確認

自己肯定感が高いヒトが少ない日本に生まれ育ち、いつも他人目線を気にしながら生きていくことが多いのが、日本人なのですが、気づいていますか?

簡易的な心理テストいくつかありますが、しっかりやるには、やはり英語で受けたほうがいいようですね。

http://commutest.com/affirmation/

http://www.sinritest.com/okgram.html

自分目線が正しいのか正しくないか?というのは、外から来る標準・理想形と較べているうちは、叶うものではないと思えるので、自己肯定感に気づいていただけたらと思うのです。

Precious One English Schoolでは、心理レッスンの中の真ん中ほどの項目として、このSelf-Esteemについて学んでいただいております。ここにいきなりタックルするよりは、さまざまなヒトの脳の成り立ちや、仕組み、必須なものや自分の振り返りをしていただいたあと、この自己肯定感を確かめていただくのです。

自分目線でしかこの世や自分を見ることは不可能です。他者の目線は、どの程度自分と違うのか?を随時確認することは参考資料として、とてもゆとりのあることではありますが、そちらをより重視するような生き方では、やはり悲しい。

日本では、How to本がよく売れますし、その種類も多いです。Precious One English Schoolでは、脳の形状変化のために、読書をオススメしているのですが、そのときのレッスン内でも、How to 本を読んでいるヒトたちがいかに多いか!を実感させられます。How to 本は、著者の主張がいかに正しいか?を、切り取りしてきた、理路整然として見える構成になった戦略本でしかないです(笑)。

本当に全体像を見せたあと、それらの主張に整合性があるかどうか、確かめる術・スキルを持った状態で読む分にはいいのですが、そうでなければ、洗脳状態にすら陥ります。そして、この自己肯定感は目減りするのです。

自分という人間が、どのような世界の中にいて、何に取り囲まれ、それらからどのような影響を受け、何をどのように分けて考え、行動し、言葉として発していて、日々を暮らしているのか?を、早期に見つめることが癖になれば、この自己肯定感は、自然と上がっていきます。是非や正邪、善悪を分けるものではなく、自分にとって「これしかない」を見つける旅でもあります。

そんなことに気づいたら、英語習得などはかなり簡単に思えるようになりますし、物事の在り方を遠くから眺め、どのように立ち向かっていけばいいかも、かなり無理なくわかるようになります。

そのためには、教育を受け続ける、自分を成長しつづける覚悟、が大切なのかもしれませんね。

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